信一 ♠ ここから
場主の奥さんは、「ごちそうを用意しなくちゃ」と家のほうへと弾む足取りで戻っていった。
横に並ぶ場主は目を細めて目の前の光景を眺めている。田所雪香を背に、ゆっくりと傾斜を下ってくるその姿を。
時々、ユッカが後ろを振り返るように首を動かす姿は楽し気で、雪香ちゃんとの会話が聞こえてくるようだ。
場主や奥さんにも、ユッカの声が聞こえれば……きっと、俺と雪香ちゃんにしか、声は届いてこないのだろう。
そんな不思議でおかしな状況を、俺も彼女もすんなりと受け入れちまっている。俺たちもおかしいのか……?
苦笑いになりながらも、心は弾んでいる。
きっと、声が届かぬとも、場主たちの心も弾んでいる。何よりも二人の表情がそれを物語っていた。
ユッカの二人への思いもちゃんと伝わっていたはずだ。昔、場主や奥さんの肩を甘噛みしていたというハムハムで。
「やっぱり、ユッカは噛みつきヒーローの姪っ子ですね」
俺がそう言うと、場主は一瞬、んっ? という表情を見せたが、すぐに自分の肩の辺りをなでるようにしながら、
「そうだね。しっかりマサルの血もひいてるよ」
俺が今この場にいるのも、いろんな人たちに出会えたのもマサルのおかげだ。
そんなことを思うと、胸がじんじんしてくる。
そんな心地いい思い出に浸ろうとしているのを、邪魔するように声が飛んでくる。
『ねえ、信一。めちゃくちゃお腹減ったんだけど』
近づいてくるユッカからの声だ。
っていうか。ずっと鼻についてんだけど、なんで俺だけ呼び捨てなんだよ。
生意気な女子高生におちょくられているようで、ほんとムカつくですけど。
俺のそんな思いはふてくされたような返事になる。「はいはい」
牧柵をくぐり、立ち止まったユッカの口元に、手にしている引綱をとおした。
その時、馬上から声が、
「あっ、そうだ。私のリュックにいい物があったんだ」
雪香ちゃんが軽やかにユッカからおりると、置いていた自分のリュックへと駆け寄り、中から何かを取り出した。
その瞬間、ユッカから『(よっ)しゃあー!』
「はい、信ちゃん」、声とともに飛んできたそれをキャッチすると、ユッカが俺の手をめがけて首を伸ばしてきた。
――そして。
雪香ちゃんが持ってきた4つのリンゴは、あっという間にユッカのお腹の中へ。
『ねえ、もっとないの?』
「あとは飼い葉だね」
俺のひと言に、がっくりと首を落とす姿に思わず笑ってしまう。なんとも愛らしいじゃないか。
場主も微笑みながら、「本当になんか不思議だね。昔から人の言葉がわかるんじゃないかって、そんな気がするんだよね」
そう言ったすぐ後に、「そんなわけないけどね」と言っている。
俺は、「場主の声はちゃんと届いています」と言おうとしたが、先に雪香ちゃんから声が、
「ちゃんと……」、言葉がつまってしまっている。あふれる思いと、涙をこらえている。
場主や奥さんの姿を見た時も、雪香ちゃんは必死にあふれだす思いをこらえていた。
本当は抱き着きたいだろうに、少し声を震わせながら、「はじめまして」と挨拶をかわしていた。
だけど今は、こらえきれなくなった涙がポロポロと落ちている。
「届いています。あなたの声はずっとずっと届いていました」
一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた場主だったが、「ありがとうございます」と頭を下げた。
場主は目元をさっと拭うと、「じゃあ、おいしい飼い葉を用意してくるかな」
俺は向きを変えて歩きだそうとする後ろ姿を呼び止め、「もう何日か、ユッカをここで預かってもらえないでしょうか」
場主からは、「うちは全然かまわんが」
その言葉を聞いて、雪香ちゃんのほうへと視線を向け、「ユッカでリハビリってわけにはいかない?」
俺が突然そんなことを言ったから、雪香ちゃんは戸惑いながら、「来週には乗馬クラブに行くけど……」
つぶやくように、そう言ったが、視線が俺からはなれていくと、場主のほうへと足を一歩、二歩と踏み出し、「私もここでお世話にならせてください」
雪香ちゃんの勢いに、場主は驚きながらも、「うちは全然かまわんが」
その後、にっこり笑い、「大歓迎だよ」
それから、俺はその日の最終便で羽田に向かい、小林へと戻った。
さすがに、これ以上先生やヤマさんに迷惑をかけるわけにはいかない。厩舎には2歳馬と中央で未勝利だった3歳が入厩してきている。
その面倒を二人とまなっちゃんがみてくれている。
そして、再び週末に北海道に向かった。
馬運車は用意してある。それでも使うことはないかもしれない。大事なことを確かめなくてはならない。
雪香ちゃんともに放牧地を駆けていたユッカが戻ってきた。
もうすっかり仲のいい友達といった感じで、俺がいなかった数日間の話をしてくれていたが、話しはあっちこっちにそれては戻り、時空を超えて昔話にも飛んでいた。レースの話にも。
「ユッカ。走るのって楽しいかい?」
「めっちゃ、気持ちいいよ」
俺はうなずきながら、「それでユッカはこれからどうしたい?」
唐突な問いかけを嚙み砕くように、口をつぐんでいる。
さっきのように楽し気に駆け回る姿を見れば、ここにこのまま居ることが幸せなのかもしれない。
ユッカは黙ったままだ。
「場主や奥さんと一緒にいるほうが……。君にとったら幸せなのかも……」
思わず、そんな言葉が口をつく。
とその時、ユッカからぼそりと声が、「……悔しいよ」
顔を俺のほうへと向け、
「あん時はなんも感じなかったけど、今になるとめちゃくちゃ悔しい。アイツら、アタシらをバカにしてやがった。まなっちゃんのことだって……アイツら、みんなぶっ飛ばさないと気が済まない」
俺を見つめている目に力がこもっている。
「そうだな。やってやろうぜユッカ。その後、大手を振って、ここに戻ってこようじゃないか」
力強くうなずいたユッカの首を、雪香ちゃんの腕が包み込む。
「がんばれ。ユッカ」
そんな声が俺に耳にも届いてきた。
俺たちの新たなる闘いが、ユッカとともに始まった。




