信一 ♠ 望みを求めてあの場所へ
『外の叩き合いを横目に、内からルシュアジェシーノが一気に突き抜ける! このまま独走、いや……大外からピンクの帽子が矢のように飛んでくる。ユッカ、ユッカです。さあ、届くか。内、外、大きく離れた勝負はどっちだ! キラッと輝いたのは――』
ハッという揺れとともに、目の前がぼやけ、ゆっくりと明るくなってくる。
夢か……。
隣に座るビジネスマンらしき男性が、少し驚いたような顔を向けてきている。
声でも出してしまったのかもしれない。小さく会釈すると、彼は、微かな笑みを浮かべ、手にしている書類らしきものへと視線を戻していく。
どのくらい眠っていたのか。
横の小窓へ目を向ければ、白い雲海が広がっている。
腕時計を見れば、たいして寝てはいなかったようで、新千歳空港まではもう少し時間がかかりそうだ。
小さくため息をつき、再び目を閉じれば、さっき見た夢の光景が浮かんでくる。
オークス?
実際とは全く違う。俺が望んだ幻……? いや、ただの妄想。
ユッカが輝くことはなかった。
オークス前に取材にきたスダマリちゃんは心配顔で、「本当にユッカなの?」と言っていた。目から光が消えていると。
彼女が感じたように、フローラステークスのあと、あの日から俺らが知るユッカではない。
雪香でないユッカ。
だからといって、走れなくなったわけではない。オークス前の調教でもしっかり走れていた。いや、時計はでていたが、ただ走っていただけ。
ユッカから伝わってくるものは何もなかった。まるでロボットのように、ただ動かされるままに動いていた。
オークスでも……。
結果は12着。戻ってきたユッカは息もあがっていなかった。喜びも悲しみも、辛さも、何も伝わってこなかった。
かつてのようにユッカから声は聞こえてこない。輝きを失った目がそこにあるだけだった。
所詮、地方は地方。あんなもんだよ、などと声が聞こえてきても俺は唇を噛み締めるしかできなかった。
俺の中でも何かが終わってしまっている。
それでも最後の望みをかけて、俺は北海道に向かっている。
ユッカが生まれた星天ファームを目指して。
【北海道・星天ファーム】
タクシーから降り、懐かしさを感じながら歩を進めていく。
自然と足が向かった先で目に映ってくる緑。あの傾斜を駆けおりてくる姿が脳裏に浮かんでくる。
牧柵の前で足をとめ、改めて眺めみれば、驚くことに広々とした放牧地はあの頃と変わらず整えられている。
ユッカがうちの厩舎に来た後は、この牧場は廃業ということになっている。それからここは使われていないはずで、なのにこんなに綺麗に管理されているのは驚きだ。
俺が電話で、ユッカをこの牧場に戻したいとお願いしたのは、ほんの1週間ほどの前のことだ。
場主は驚きからか、言葉を失っていた。戸惑う彼に、以前のユッカに戻すために1日だけでもいいので、と説得した。
今、思い返せば、訳が分からないようなことを言っていたが、場主にも思うところがあったのかもしれない。
フローラステークスの時と同様、オークスの時も応援に来てくれ、厩舎を訪れてくれてもいた。その時、ユッカを見た場主や奥さんの悲し気な表情が今も胸に残っている。
あの力を失ったユッカの目は、場主の胸に苦しみとして残すことになってしまったのかもしれない。
だから、訳の分からぬことを言う俺の申し出を引き受けてくれたのかもしれない。
まさか、あの電話の後、この短い期間でここを整備してくれたのだろうか。
とその時、声が、
「おう、ご苦労さん」
振り返れば、場主の姿がある。久しぶりというわけではないが、少し前に会った時はスーツ姿で、今はつなぎ姿。
初めてここで会った時と同じ姿に、懐かしさが柔らかな風のように流れていく。
「すいません。ご挨拶もせずに」
「いやいや、車の音がしたから、たぶんそうだろうと思ってね」
俺は小さく頭を下げ、「ほんと、すいません。突然、変なことをお願いして」
場主は苦い笑いを浮かべ、「いやあ、驚いたよ。今だって、大前君の顔を見るまでは信じられなかったからね。いやいや、まだ、ユッカが来るまでは信じられんよ」
俺は苦い笑いで、「すいません」と言葉を返した。
場主は微笑みながら、視線を腕時計へと移し、「今、どの辺りかな?」
「さっき、馬運車の運転手から連絡あったので、もう30分ほどだと思います」
「そうかそうか」
場主はどこか嬉し気に、2、3度うなずくと、視線を放牧地のほうへと向けた。ここを駆け回っていた姿を思い浮かべるように眺め見ている。
その姿に、ふと思うことが。
もしかしたら、あの頃と変わらぬまま、ずっとここを。
考えてみれば、放っておけば、すぐに雑草などで荒れ放題になる。数日間でこんな状態できるわけがない。
だからといって、雪解けのあとにこの状態にし、保ちつづけているなんて、並大抵のことじゃない。馬は一頭もいないというのに……もしかしてこれって……。
「ここって、ずっとこの状態を?」
俺の問いかけに、場主は何も答えぬまま、小さく微笑んだ。
「これって、ユッカのためですか?」
「まあ、こんなところじゃ、売り手もつかんしな」
「そんなことは……買い手はいくらでも」
今や馬だけではなく、牛の放牧飼いなども注目されている。それだけに間違いなく需要はある。
思わず、場主を見てめていた。視線を感じたのか、俺へと顔を向けた場主は、「まあ、暇だからだよ」
照れ隠しだろう。その後、場主は視線を放牧地のほうへと戻し、「ユッカが引退し、どこか行き先が決まるまではなんとなくな」
娘の実家を残そうとする親のような愛情が伝わってくる。この気持ちがユッカにも伝わるだろうか。
今のユッカにも……。
その後、俺たちは放牧地を眺めながら、ユッカの思い出話をしていた。
そして――乗用車とは違う重みのあるエンジン音が、俺たちの耳へと届いてきた。
馬運車からおろしたユッカを放牧地へと引いていき放したが、駆け回ることはなかった。ただ、その場に立ち留まり、遠くを見つめていた。
その瞳には何も映っていないかのように、ガラス玉のような目がそこにあるだけだった。
それは、馬舎にいっても同じだった。
こんなことをしても何も変わらない。
俺はいったい何がしたいんだ。自分で自分が嫌になる。
俺の、俺たちの、ユッカとともに抱いた夢は……終わった。
夜になり、厩舎へと電話を入れた。
何も変わらなかった状況を伝えていると、苦しいものがこみ上げてくる。
「このまま、もう走れないかもしれません」
自分が発した言葉に、こみ上げてきていたものが目からこぼれ落ちた。
俺は、「何もできなくて、すいません」と言って、電話を切ろうとした。とその時、ヤマさんではない遠い声が電話に――「ちょっ、ちょっと待ってください」
「大前さん」、電話を替わったのか、まなっちゃんの声。「あと1日、あと1日そこで待っていてください。お願いします」
電話は俺の返事を待つことなく慌ただしく切れていた。




