雪香 ☆ この場所で
真夏を信じて、その時を待つ。
目の前は開けている。あとは輝ける瞬間。1ハロン半のその瞬間まで。
そして――
肩に感じた合図に体が自然と反応する。調教の時と同じように、右手前から左手前に。
新たなる息吹。力が湧いてくる。
真夏からの思いと力を受け取るように、ハミをしっかりと噛んだ。
脚が前へ前へと伸びていく。心地いい風が体を流れていく。湧き上がる歓声が、海風に乗って聞こえてくるさざ波の音のように、耳へと届いてくる。
この感覚を私は……知っている。
あの日、あの時、この場所で。
胸の中がざわめきだしている。嫌な胸騒ぎが忍び寄ってくるように。
気づけば、一頭の馬の姿が大きくなっている。一完歩ごとに差はつまっていく。
とその時、視界へと映りこんできたのは――あの場所。
1年前、私から突然、光を奪い、暗闇になったあの場所。
微かだった胸の中のざわめきが激しくなっている。
あの場所へと向かっていく脚は、前へ前へという自分の意志に反して伸びていかない。
真横には並んだ馬がいるのに抜き去ることができない。
さらに視界には何かが。
いっぱいの日差しが、その姿を照らし出している。
ステッキが縦に回転して芝へと落下していく。紫のステッキが……。
その光景に蘇ってくる感覚。
前へと引っ張られるように崩れ、暗闇になったあの瞬間。
苦しい。苦しいよ。
胸がつまる。暗闇に飲み込まれていく。体が震えだしそうだ。
「ユッカ!」
暗闇に響いた声。
私がユッカだったこの1年、何度も聞いてきた声。
真夏だけじゃない。信ちゃん、先生、ヤマさん……たくさんの人が呼んでくれている。
いくつもの笑顔が暗闇を覆いつくしてくれていく。
震えが……震えが消えている。
真夏が手綱をまわすように振っているのが伝わってくる。ハミをとってという思いが伝わってくる。
自分でも気づかないうちに力が抜け、ハミ取りがあまくなっていた。もう一度しかっりとハミを噛んで脚を前へ。
だが、伸びない。心の奥底がまだ震えている。『怖い』とビーちゃんが叫んでいるかのように。
どうしたら、どうしたら……。
「ビーちゃん。大丈夫だ」
どこからかそんな声が。 胸の中から響いたのか、あの人の声。浮かんでくる優しげな笑み。
ビーちゃんの記憶……? ビーちゃんが返し馬に行く時、厩務員の一郎さんが引綱をはずしながら、いつも声をかけてくれていたあの声。
「ビーちゃん。大丈夫だ」
その声が、再びどこからから響いてきた。
私は自分の中のビーちゃんへ、『ビーちゃん、聞こえた? きっと、一郎さんが見ていてくれている。応援してくれているよ』
心の奥底の震えが、雲が流れ去るように消えていく。
『ビーちゃん、行こう!』
体に、脚に力が。とその時、自然と脚が――手前が左から右へ。
ビーちゃん……。
右回りの園田でビーちゃんは、直線で右手前にかわると、さらに後続を引き離していた。
ビーちゃん自身が今走っている。
1馬身ほど遅れかけていたが、再び並びかけ、一気に突き放す。
星だけじゃない。月も輝いている。
1コーナーのほうから、スタンド前に戻ると拍手と歓声が迎えてくれる。
顔は見えないが真夏は笑顔で応えているだろうか。
ゴール後に私に「雪香ちゃん」とかけてきた声は涙声で震えていた。何人かの騎手の声に、お礼の言葉を返す声も震えていた気がする。
たぶん真夏のことだから、はにかんで観客席のほうに小さくお辞儀を繰り返しているかもしれない。
「雪香ちゃん。大事な物拾いに行かなきゃ」
そう言った真夏が、私を導いた場所。そこには芝に沈み込むように見える紫のステッキが。
歓声がざわめきに。
真夏が突然、私から飛び下りて横に立っている。そして、腰をかがめてステッキを拾い上げている。
なんだか、ざわめきが大きくなっているだろうか。
真夏から観客席のほうへと視線を移した。
すると、自然と脚は前へ。1歩、2歩、3歩……観客席のほうへと進んでいく。
自分の意志なのかなんなのか、わからない。
まるで焦点が合うように顔が――外ラチのさらに外の柵の向こうに涙で顔を濡らす姿が。
一郎さん……。
「ようやった。よう頑張ったぞ」
ざわめきを払いのけ、一郎さんの声が耳に届いてくる。
その声で周りから起きたいくつかの拍手が、波紋のように大きく、大きく、観客席全体に広がっていく。
――雪香ちゃん、ありがとう。
胸の中から聞こえてくる声。
ビーちゃんが望んでいた喜ぶ人たちの笑顔が目の前に広がっている。
――雪香ちゃん、本当にありがとう。
声が遠くなっていく。
――あたしは行かなきゃいけないみたい。
『ビーちゃん。ビーちゃん』、呼びかける自分がいる。
――バイバイ。雪香ちゃん。
最後に聞こえた声は空へと消えていくようだった。
見上げた空は雲ひとつない青が広がっている。
視界の片隅に、人影が。
駆け寄ってきた信ちゃんとヤマさん。抱えるようにステッキを持つ真夏。
信ちゃんが引綱をはめようと近づいてくる。
「がんばったな。ほんと、がんばったな」
『信ちゃん……』
涙で声がつまり、言葉がつづかない。
信ちゃんは私の首元へと腕を伸ばし、下から優しく抱えるように抱いてくれた。
意識が……意識が遠のいていく。
『信ちゃん……バイバイ』
声が届いたかどうか、わからない。今度は私が空の向こうに消えていく。
暗闇。
「ねえ、見える? 厩務員さんがユッカを抱えるように首を抱いてあげてるよ。なんか、いい光景だね。凄い拍手が祝福してるよ」
ちょっと懐かしい声。大好きな声。
声に導かれるように光が広がっていく。
首を傾ければ、腰かける後ろ姿が見え、その向こうにはテレビが。
「小春……?」
お読みいただきありがとうございました。
これにて完結になります。
思えば、ライバルとは対決しないままでした。女王ルシュアジェシーノや砂の絶対王者ハシャ。
ユッカが馬ユッカとして戦う先の話も、ご要望があれば、いつの日か。




