信一 ♠ 何もできない俺
ユッカが突然立ち止まり、俺は驚きとともに、「どうした?」
ユッカから声は返ってこない。ただ、目の前に広がる芝コースを見つめている。その瞳に映る光景に何を思っているのだろう。
俺たちの横を他の馬が通り過ぎていき、芝コースへと走り出していく。
だが、ユッカは動くことなく、目の前を見つめたままだ。その馬上にいるまなっちゃんが、不安げな表情を俺へと向けてきた。
俺も同じような顔になっているだろうか。
首を傾げるようにして、まなっちゃんの視線に応えた。
ひと際は大きな歓声が聞こえてくる。俺たちの横を通り過ぎて本馬場へと駆け出していったのは、1番人気のラジカニカサカのようだ。軽快な走りで普段とは逆周りの4コーナーのほうへ。
もう一頭の人気馬であるゴリンダリンダも元気があふれているといった感じで、首を上下させながら本馬場に入り、返し馬へ。
ライバルが次々と本馬場入場する中、ユッカは固まったように動かない。
「……ユッカ?」
そう声をかけると、ユッカから漏れるような弱々しい声が『信ちゃん、私……』
声は消えるようにしぼんでいく。
いったい、何がどうしたというのだ。
そう思った時、彼女の体が小刻みに震えていることに気付いた。
それは、まなっちゃんにも伝わっている。「大前さん。ユッカが何かおかしい」
まなっちゃんはそう言うと、ユッカの耳元へと顔を近づけ、「雪香ちゃん。どうしたの? 大丈夫?」
『真夏……』、そう言ったユッカの顔が俺のほうへと向き、『信ちゃん。だめだよ。体が動いてくれないよ。去年のあの瞬間が頭に浮かんできちゃうよ。ねえ、どうしたら、どうしたらいいの?』
苦し気に震える声に、言葉が返せない。
そんな俺にまなっちゃんから、「大前さん。雪香ちゃんはなんて?」
「たぶん、去年のことがフラッシュバックしちまってる。くそっ! どうしたらいいんだ」
唇を噛みしめた。
俺なんかじゃ想像できないような恐怖があったはずだ。痛みや苦しみだって。
目の前で震える彼女に、俺に何ができる。どうやって救ってあげられるっていうんだ。
俺たちの横を通り過ぎていく馬はもういない。取り残されたように、俺たちだけが……。
耳にはざわめきが届いてくる。馬場入りを見ていた観客の目が、俺たちに集まっているのかもしれない。
動くことができない俺たちに。
潤んでいくユッカの瞳が、俺に助けを求めている。
なのに、何もしてあげられない。言葉さえかけてあげられない。
とその時、俺は驚きとともに、視線を横へと向けていた。
まなっちゃんが、俺の横に立っている。
初めてみる怖いほどの視線が俺を見つめている。
馬上から下り立ったまなっちゃんは、そのままユッカの目の前に向かっていく。そして、鋭い視線でユッカを見つめた。
言葉もなく見つめ続けている。ユッカも無言のまま、見つめ返している
☆
――馬場への入場口近くの観客のざわめきが激しくなっている。突然、騎手が馬上から下り、馬の目の前に立っていることに、何事かと騒がしくなっている。しかも、騎手と馬が見つめ合ったまま動かないのだから。
そんな観客の声が消え、静寂が。
騎手は鞭を持つ腕を馬のほうへ真っ直ぐ伸ばした。そして、振り上げた。




