雪香 ☆ さあ出陣
東京競馬場のパドックには多くの人がつめかけている。
ここも今回で2度目になるが、去年ほどの圧迫感はない。あの時は全ての目が私たちへと向かってきているようだった。
今年はビーちゃんのようには期待されていないということかもしれない。それとも、あんなこと(落馬)があったから、地方馬に対して冷めてしまったのだろうか。
それでも、私は応援してくれる人のために走る。
横には引綱をひく信ちゃんの姿がある。さらに反対側には並んで歩くヤマさんの姿も。
今日の2人はいつもと違ってスーツ姿で決め込んでいる。新鮮で凛々しくも見える。
本当は私だけでもパドックを周れるくらいだが、やはり、一緒にいてくれるのは頼もしい。
ふと、思い出し笑いをしてしまう。
パドックに出る寸前まで、2人は言い争っていた。といっても、いつもの感じで、
「俺だけで十分ですから」
「いや、今日はユッカを安心させるためにも俺という存在が必要だ」
そんなことを言っていたヤマさんだが、誰よりも緊張して、歩き方がカクカクとした動きになっている。
信ちゃんはその姿を私超しに眺め見て、楽し気に微笑んでいる。
そんな2人の姿に、私もリラックスできている。体も脚どりも軽い。馬体重はさらに12キロ増えて、412キロになっていても軽快そのものだ。
それにしても、あれだけハードな調教を重ねても、増えてきたのは自分でも驚きだ。
その調教というのも中身が濃いもので、追い日にはインターバル走を繰り返してきた。
それはある意味、苦肉の策でもあった。
小林は中央競馬の施設に比べれば、コースのバリエーションもなければ、坂路コースも2ハロン(400Ⅿ)と短い。
それを補うための調教法が、いつものトップ会議で考えたというインターバル走だった。
それは調教コースを徐々にスピードを上げながら1周し、正面の直線に戻ってくるとトップスピードで駆け抜ける。そして、そのままコーナーから向こう正面で息を入れるように流していく。
さらに止まることなく坂路コースに向かい、目一杯加速して駆け上る。
これを毎週の追い日に2本こなし、弱点といわれた一瞬の脚を、最大の武器にするための調教を重ねてきた。
これだけハードな調教をしてきても、今は疲れは残っていない。みんながしっかりケアにてくれたおかげだ。
そんな厩舎のみんなに恩返ししたい。
そして、その思いは――私はパドックの外目を周りながら、多くの人が集まる観客のほうへと視線を向けた。
信ちゃんは牧場のおじいちゃんやおばあちゃんにも声をかけてくれたという。電話で今日来てくれるという連絡もあったらしい。
ビーちゃんの厩務員っだった一郎さんにも会いに行ってくれたが、その時はいい返事はもらえなかったということだったが……。
来てくれているだろうか。
この中のどこかにいてくれるだろうか。
とにかく私は精一杯走るしかない。みんなの思いを胸に。
とその時、係員の響きわたる声が聞こえてきた。「とまーれー」
私たちは脚をとめ、その場でその姿を待つ。
すぐに、真夏が私たちもとへと駆け寄ってきた。
視線が合わさるが、もう言葉などいらない。
真夏が、ユッカが私であると知ってから、会話をすることはできなかったけど、濃密な時間を過ぎしてきた。
苦しい調教も一緒に乗り越えてきた。
私たちの胸にある思いは同じ。
小さくうなずき合い、真夏は私の背に。そして、本馬場へとつづく地下道へ。
そして――
視線の先に光があふれている。
ヤマさんが足を止め、俺の晴れ舞台は終わったとばかりに、真夏に「あとはまかせたぞ」と言葉を送り、光へと向かう私たちを見送ってくれた。
1枠1番の私たちが、先頭で地下道からのゆるやかな坂を進んで行き、姿を現すと、歓声が耳へと届いてくる。
視界に広がる緑。匂い立つ芝の香り。
あの時と同じ光景が目の前に。
その芝へと脚を踏み入れたその時だった。突然、体が固まったように脚が動かなくなった。
「どうした?」
私が突然立ち止まり、信ちゃんからそんな声が聞こえてくる。
大丈夫、そう言葉を返し脚を動かそうとしたが……。
その瞬間、カメラのフラッシュがたかれたように、暗闇にまぶしい光が弾けた。
あの時の光景が、コマ送りのようにあらわれくる。
体が揺れ、目の前に迫ってくる芝。
衝撃、暗闇、襲い掛かってくるいくつもの轟音。そして、ビーちゃんの温かな息。
体が小刻みに震えだしている。
苦し気に私の名を呼ぶ声も聞こえてくる。
きっと、私の中にいるビーちゃんも震えている。
次話は21日の20時すぎに投稿します。




