真夏 ♡ 衝撃
次に調教をつける馬をさがして、辺りを見渡すとすぐにその姿が目にとまった。
あれ? 何かおかしい。
厩務員さんの横に岡西先生の姿があり、身をかがめている。
小走りに近づいていくと、わたしに気づいた先生から、
「ちょっと、歩様があやしいから今日は見送りで頼むわ。悪いけどな」
「それは全然いいんですけど、脚元ですか?」
わたしも身をかがめて脚元へ目を向けた。
「まあ、たいしたことはないと思うが。若駒だから用心してって感じだし、心配するこたねえよ」
そう言って先生たちは去っていく。
たいしたことなければいいが……。
そんなことを思いながら、去っていく後ろ姿を見送った。
調教予定馬はあの馬が最後だったし、今日は終了か。じゃあ、厩舎にもどって朝ごはんの準備にとりかかりますか。
昼や夜は奈津さんが作ってくれるようになったが、朝だけは幼稚園に送った後に来てくれる奈津さんにかわって、わたしの担当となっている。
厩舎に向かおうとして、ふと足は馬舎のほうへと向かう。
調教の時は気持ちが張っているが、ユッカといると気持ちが和んでくる。だから、何があるわけではなくても、ちょっとの時間でもユッカのところに立ち寄るのが習慣になっている。
ちょっと覗くように中をうかがうと、
「俺は……」
そんな声が聞こえ、思わず足がとまった。さらに耳を傾けてしまう。
そして、続くように聞こえてくる言葉に、頭が混乱し、何がなんだかわからなくなっている。
そんな中で、大前さんはユッカへと近づくと、「雪香」
雪香……?
確かに、そう口にした。
その前の会話でも、ユッカじゃなく、田所雪香と言ったが、聞き間違いだと思った。いや、思おうとした。
そうじゃないと、本当に何がなんだかわからない。
でも、今まさに、「雪香」とユッカを見つめてそう声をかけていた。
さらに、大前さんはユッカを見つめたまま、
「きっと、大丈夫。田所雪香は田所雪香。俺は信じている」
田所雪香は……田所雪香?
いったいどういうこと?
まっ、まさか!
とその時、ガシャンと大きな音が足元から。
頭に浮かんできた突拍子もない考えに、自分で自分に驚いていた。
思わず蹴ってしまったのか、バケツが転がっている。
「まなっちゃん……」
そんな声が聞こえ、視線を上げれば、大前さんの視線がわたしへと向かってきている。
ユッカもわたしを見つめている。
足が自然と1歩、2歩と進んで行く。ユッカのもとへと。
ユッカの前に立っても言葉がでてこない。まさか、その言葉が頭の中をかけめぐっている。
「も、もしかして、話を聞いてた?」
大前さんの声に、ユッカを見つめたままうなずいた。
「いやあ、その……なんというか……これは……」
横へと視線を流せば、大前さんは、しどろもどろに言葉をもらしている。
「大前さん。さっき言っていた雪香というのはどういうことなんですか?」
訳がわからない苛立ちからか、つい口調が強くなってしまった。
一瞬、黙ってしまった大前さん。だが、彼の視線は、わたしではなくユッカへと向かい、
「もう、いいんじゃないか。まなっちゃんになら全てを話しても」
返事でも待っているかのように、ユッカを見つめている。
そして、小さくうなずくと、わたしへと視線を移し、
「実は、去年のあの落馬事故で――」
信じられない話に言葉を失う自分がいる。
「それじゃあ、ユッカが雪香ちゃん……なの?」
大前さんは2度、3度と首を縦に動かした。
「それで、大前さんはユッカ、じゃなくて雪香ちゃんと話せるっていうんですか?」
「まあ、そういうことだね。なんというか、普通に話せるというか――」
わたしは大前さんの言葉をさえぎるように、ユッカへと顔を向け、
「雪香ちゃん。わたしにも話して」
ユッカはわたしを見つめている、だけど、声は聞こえてこない。
「ねえ、お願い。わたし、真夏だよ。ねえ、何か言って」
声は聞こえてこない。
「なんで、なんでなの。わたしじゃ、だめなの? ねえ、雪香ちゃんなら、何か言ってよ」
あふれ上がってくるものが、目からこぼれ落ちる。
わたしを見つめているユッカの瞳も潤んでいく。
悲し気に……苦し気に……辛そうに……。
「君の声はユッカに届いているよ。だけど、ユッカの声は俺にしか……」
大前さんを見れば、辛そうに唇を噛み締めている。ユッカを見つめ、その唇が小さく動く、「だけど、田所雪香は確かにここにいる。ユッカの中に」
温かなものが顔を撫でるように流れてくる。
ユッカが首を伸ばし、顔を寄せてきている。言葉にできない思いを伝えるように。
わたしはユッカの首を撫でながら、
「雪香ちゃん。雪香ちゃんはここにいるんだね。ずっと、一緒に戦ってきてくれていたんだね」
そう、そうだった。レースの時感じるものがあった。心強いものを感じながら、戦っていた。
「ありがとう。雪香ちゃん、いつも一緒にいてくれたから、わたしはここにいられるんだよ」
だから、今度はわたしが――大前さんへと視線を送り、
「さっきの話ですけど、あの事故があったフローラステークスなら、雪香ちゃんが本当の自分に戻れるんですか?」
「それはわからない。だけど、俺は信じている。そこになんらかの思いがあるのなら、その場所に戻らなきゃいけないんだよ、きっと」
その言葉に、わたしは力をこめてうなずき、
「行きましょ。その場所へ」
それは簡単なことじゃない。それはわかっている。あの事故で地方の人たちのJRA挑戦の思いはしぼんでいる。大きなリスクは恐怖にさえなっている。
中央へ挑戦などと口にできない空気が広がっている。
それでも、わたしたちは行かなければならない。あの場所へ――。




