雪香 ☆ あの場所へ
いつものように真夏との朝の乗り運動を終えると、調教コースからの出口で信ちゃんが迎えてくれる。
信ちゃんは、私からおりた真夏へと顔を向け、
「さっき、田森先生に聞いたんだけど、グリーングリンは羽田盃に向かうらしいよ」
田森先生は、牝馬戦線の有力馬であるサクットネの調教師である。先生は情報通なので、ライバルの動向には目を光らせているようだ。
その羽田盃というのは、牡馬3冠のひとつで、中央でいえば皐月賞といった感じだろうか。
つまりは、牝馬だけではなく牡馬も含めて、3歳の頂点を目指していくということだ。
真夏は、少し驚いたような声の後、
「グリーングリンなら牡馬相手だって可能性は十分ありそうですよね。わたしたちはわたしたちの舞台。そこでがんばりましょう」
充実した表情でそう言って、足早に去っていく。
今や他厩舎の馬の調教もつける真夏は、次の馬へと向かって行く。自信さえうかがえる真夏の後ろ姿が誇らしい。
そして……羨ましい。
わたしたちの舞台。それはきっと東京プリンセス賞。
竹川厩舎から引き継ぐ小野山厩舎のトップ会議で、次走は東京プリンセス賞と話し合われたのだろう。
信ちゃんは「そうだな」と答え、真夏を見送っていた。
その姿がなぜか胸に引っ掛かる。
立ち去る後ろ姿を見つめる信ちゃんは、心ここにあらずという表情を浮かべていた。
次走は東京プリンセス賞、それは決まったこと。ならば、それに向けてがんばるしかない。だけど……。
気付けば、信ちゃんも無言のまま、何か物思いにふけっている。馬舎に戻っても、無言のまま食事の準備をしてくれている。
『次走、決まったんだね』
あえて明るく声をかける。
だが、信ちゃんから声が返ってこない。
ふと、作業していた手が止まり、私へと顔を向けてきた。無言のまま、私を見つめている。
固く結ばれていた唇が微かに開き、「俺は……」
言葉は続かない。再び結ばれた唇。
私は何も言うことなく、彼を見つめていた。
「……俺は……」
もれるように言葉が口をつく。そこで、何かを決意したように小さくうなずき、
「ユッカ、いや、田所雪香が走る場所はそこじゃない。君が君であるために走らなきゃいけない場所があると思う」
力の入った言葉に胸が波打った。
きっと思いは同じ。あの場所――東京競馬場。
『フローラステークス……』
思いが声となってもれていく。
信ちゃんは小さくうなずき、
「落馬事故にあったあのレースを走ったからといって、何も変わらないかもしれない。だけど、走ることに意味があると思う。そこに残された思いを救い上げられるのは君しかいないと思う。ルビームーンのその思いを――」
『ビーちゃん……』
事故の時、薄れていく意識の中で感じたビーちゃんの温もりが蘇ってくる。
『走りたい……走りたいよ。信ちゃん、もう一度あの場所で走りたいよ』
「ああ、行こう。行こうじゃないか」
信ちゃんは私ほうへ近づいてくると、「雪香」
ユッカと呼ばれるようになり、だんだんと遠のいていくようだった私の名。その名を優しく呼んで、
「きっと、大丈夫。田所雪香は田所雪香。俺は信じている」
こみ上げてくるものに返す言葉が出てこない。ただ、涙があふれてくるだけだった。
とその時、馬舎の入口のほうで物音が。




