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アイドルジョッキー馬になる  作者: ゆらゆらゆらり
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真夏 ♡ 苦い記憶

 レース後の検量が終わり、室内にはざわめきが流れている。

 事故レースの後だけに空気は重い。わたしの胸の中のように。


「すいませんでした」


 突然の大声に視線を向ければ、廊下側のドアのところで頭を下げる姿が。


 同期の前ちゃんは頭を上げると、周りをうかがうように首をすくめた。


「コラッ! この下手くそが」


 すかさずそんな声が飛ぶ。


 前ちゃんは急にスピードが落ちた馬をよけきれず落馬していた。

 救護車に乗ったはずだが、すぐに戻ってこられたということは体は大丈夫だったのだろう。


 その姿にほっと胸をなでおろした。


 怒鳴るように声を張り上げた熊岡さんが、前ちゃんへと近づいていく。普段から後輩の面倒見がいい、お兄さんといった感じの人だ。


「ったく、お前ってやつは。巻場さんがあんなに大声で『止まるぞ!』って言ったのに、ちゃんとレース中は周りを気にしとけって言ってるだろうが」

 

 もともとの事故の発生原因は、巻場さんの馬に何かあり、急激にスピードが落ちたことだった。


「すみません」


 前ちゃんから再びそんな声が。


「なんだ、その謝り方は。みなさんに、ほんと大迷惑かけたんだから、こうやって謝んだよ」


 熊岡さんは姿勢を正し、前ならえのように両腕を伸ばすと、両手を重ね、大げなほどに振り下ろし、「申し訳ありませんでした」


 空気が一瞬で軽くなる。


 硬かった前ちゃんの表情も和らぎ、熊岡さんに負けないくらい大げさに頭を下げた。


 熊岡さんは、前ちゃんの肩をぽんと叩くと、


「それでは最終レースがあるみなさんは、くれぐれも安全第一でがんばってください」


 明るい声で言うと、他の騎手のもとへと戻り、楽しそうに話し始めた。


 もう、いつもの雰囲気に戻っている。



 そんな中、前ちゃんがわたしのところへ。


「ごめんな。俺のせいで」


 わたしは首を横に振り、「しょうがないよ。それに何もなくても勝てたかはわからないし」


 手ごたえは抜群だった。あのまま直線に向けば、きっと……。

 じわじわと湧き出すようにこみ上げてくるものが目にたまってきそうだ。


「あとひとつだったんだよな。あとひとつ勝てば、来週の桜花賞に乗れたのに」


 もう何も言わないで。


「重賞も勝った馬なのに乗れないなんて、そんなのないよな。くそっ! 俺が落馬なんかしなきゃ」


 ユッカの姿が浮かんでくる。先生、大前さん、ヤマさん……馬主のみんなも重賞制覇のお祝いを開いてくれ、喜んでくれていた。


 泣いたらダメ。わかってる。わかってる。わかってる。


 気づけば、周りは静かになり、視線が集まってきている。


「前田さん。いちおう検査(落馬で頭を打ったため)があるんでお願いします」


 係りの人の声が聞こえ、前ちゃんが、「ほんとごめんな」と言って部屋を後にしていく。



 その姿を目で追っていた周りの視線が、わたしへと集まってくる。

 そこから声なき声が聞こえてくる。


 同情する声や、鼻で笑う声、あざ笑う声。

 耳には届いてこなくても、胸に届いてくる。


 苦しんでいたあの頃と同じ目がここにある。

 忘れていた胃の痛みが忍び寄ってくる。



 わたしは立ち上がると、ドアのほうへと向かった。そして、無言で頭を下げ、その場を後にした。




 廊下にでると堪えていたものが、ぽたりと落ちた。

 体から力が抜け、崩れ落ちるように床へ――その時、何かが。


 体が支えられ、顔を上げると思わぬ顔がそこにあった。


 わたしは、「すいません」と言いながら、体に力を込めた。そして、涙をぬぐう。


 こんな姿を見られたくない。これじゃ、何も変わっていない。何も成長できていない。


 わたしがかつて所属していた厩舎の調教師は、あの頃と同じ厳しい顔でわたしを見つめている。


「中向(真夏)。ここは戦いの場だ。涙なんか見せんな」


 変わらぬ厳しい声に、心臓が激しく動く。

 昔からわたしのためを思って言ってくれてるのはわかっている。

 それに応えられなかった情けない自分が蘇ってくる。


 何も言えぬまま、視線が落ちていく。顔を上げることができない。

 やっぱり、わたしは何も変われていない。


 そんなわたしに声が降ってくる。


「ゲートで落ち着かないが気にするな」


 思わぬ言葉に、訳がわからぬまま顔を上げると、先生は厳しい顔のまま、さらに、


「下手に何もしなけりゃ、ゲートが開けば飛びだしていくやつだ」


 どういうことなのか。そのわたしの思いが顔にでているのか。先生は、


「なんだ、その顔は」、そう言うと「ああ、俺が大事なことを伝えてなかったか」


 とその時、耳に届いてくるものが


『第12レースの騎乗変更のお知らせをいたします』


 館内放送がさらに続く。


『このレースの1番・ヨアケゼヨに騎乗予定の前田純は検査のため、中向真夏に騎乗変更となります。尚、負担重量は――』


 放送は続くが、わたしは先生のほうに顔を向け、


「これって……乗り替わりですか。わたしに……」


 先生は、「聞いてのとおり、もう主催者に言ってきちまったから、そういうことだ」


 先生は向きを変えて立ち去ろうと歩きだした。


 わたしは呼び止めるように、「ありがとうございます」


 先生は振り返ると、つぶやくような声で、「あの頃、何もしてやれなくてすまんな」




 先生はその言葉を残して、足早に去っていった。






【大井12レース Ⅽ1 1400Ⅿ(外コース)14頭立て 天候:曇り 馬場:やや重】



 1枠1番におさまったヨアケゼヨは落ち着いている。初めて乗る馬だが、この落ち着きなら大丈夫そうだ。


 だが、あと1頭を残して、ゲートから係員がでると、急に落ち着きがなくなった。首が下がる。


 手綱を引く――だが、手は止まった。頭をよぎるのは先生の言葉。


 今度は首が横へ。最後の1頭もゲートにおさまったようだ。首は横を向いたままだ。


 それでも、わたしは()()()()()()()、ゲートが開くその瞬間を待った。



 そして、ゲートが開く。


 先生の言葉が形となり、遅れることなく飛び出した。それどころか、最高のスタートで無理することなくハナへ。

 そこから並びかけられることなく、ゴールまで駆け抜けた。



 迎えてくれた先生が見せた笑みで、過去の何もかも吹っ飛び、心が軽くなった気がした。

 一瞬だったが見せくれたその笑みには、優しさも温かさもあった。あの頃のわたしに気づけなかったものがそこに。

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