真夏 ♡ 人を化かすのは狸だけではありません
【1、2コーナーから向こう正面へ】
返し馬の時にも感じていたが、ストライドが以前より大きくなっている。少し体が大きくなったからかもしれない。
心配だった行き脚も大丈夫そうだ。
(今回は重賞競走のため、負担重量の4キロ減の優遇がなくなり、全馬同斤量になっている)
初の左回りも問題なさそうだ。今の1、2コーナーも左手前でしっかり回っていた。
順調だ。なのになんだろう。この嫌な胸騒ぎに心が落ち着かない。
そんな思いを抱えたまま、向こう正面の中頃になろうという時だった。後ろから気配が。
背後をうかがうように視線を流せば、何か一頭押し上げてきているようだ。とその時、声が、
「真夏ちゃん」、呼びかけられたというより張り上げている。
横へと並びかけてきたのはコウキナルドリームとチャーリーさん。
「のんびりしてらへんぞ。あの狸おやじが、カラムチ使いよった」
カラムチ……? 空ムチってこと?
ふと、思い当たる。村下さんのスタート直後の姿が。
思えば、この2か月近く一緒にレースをしてきて、あんな姿を見るのは初めてだった。
もちろん、村下さんだって逃げ馬に乗れば、出ムチを使うことはある。だが、それはあくまでも馬の特性を考えた上でだ。引っかかりに気味飛ばしてしまうアイウォンチューに出ムチなんてありえない。
冷静に考えてみれば、あの村下さんがそんなミスを犯すなんてありえない。
あの出ムチを入れる大きなアクションにわたしたちは――完全に騙されていたんだ。
ステッキを大きく振り上げていたけど、空を切り、馬には当てていない。
そうか。アイウォンチューは深いブリンカーをつけているから、その動作も見えていないということか。
しかも、手綱は動かしていないだろうし、村下さんの技術をもってすれば、腕は振れども体がぶれることはない。つまりはなんの指示もだしてはいない。まったくの馬なりのままということだ。
「お先に行かせてもらうぞ」
チャーリーさんが、ぐいぐい手綱をしごき、わたしたちを抜き去り、押し上げていく。
「ユッカ。わたしたちも行こう!」
そう言った瞬間、手綱を動かす前にユッカが自らハミをとっていた。
時々思うことがある。ユッカには人の言葉がわかるんじゃないかって。
でも、今はそれどころじゃない。ユッカの動きに合わせ、わたしも手綱を動かす。
【3コーナー入口】
コーナーに入るところで、コウキナルドリームにうちから並びかけた。チャーリーさんの手は激しく動いている。
「あかん。うちのじゃ、(脚が)足りひん。真夏ちゃん、行たれ」
その言葉に小さくうなずき、内から抜き去っていく。アイウォンチューとはまだ6、7馬身の差がある。
それでもこの勢いなら追いつける。
ふと、レース前に大前さんが力強く言っていた姿が頭に浮かんでくる。
「ユッカは強くなってるよ。先生たちもしっかり仕上げてくれてる。だからまなっちゃん、自信を持って乗れば大丈夫だ」
ほんとだね。
ぐいっと手綱を押せば、さらに加速していく。
その差は5馬身、4馬身、3馬身、2馬身、2馬身、2馬身……縮まらない。
ユッカの脚が止まってしまったわけじゃない。アイウォンチューが加速している。
やはり、ペースは早くはなかったということか。村下さんの空ムチに完全に惑わされたということだ。
もし、折り合いもついていたとすると止まることはない。となると捕らえるのは……難しい。
とその時、体が前に持っていかれそうになった。
ユッカの体が沈み込むようになり、さらに前へと首を伸ばしている。まるで弱気になっているわたしをしかりつけるように。
バカ! あんたが弱気になってどうする――胸の中で自分で自分を怒鳴りつけた。
そして、「ごめんね。ユッカ」
ユッカの思いに応えるように、強く深く手綱を持つ手を、腕を押し出す。




