信一 ♠ 再出発へ向けて
「パパ! お馬さんがかけっこしてるよ」
小さい子のかわいい声を耳に片手にはスマホを持ち、もう一方の手に持つ双眼鏡を覗いている。
俺は竹川先生とともに乗馬クラブのカフェにある屋上テラスに上がっていた。レンズの向こうにはコースを走るユッカとサトミノヒメの姿が見える。
ユッカの背にはヤマさん。そして、サトミノヒメの背にはオーナーである元騎手の石先さん。
ここ一か月、何度もサトミノヒメをコースで走らせてくれていただけあって、ぴたりと息が合っている。
両馬が馬体を併せ、最後の直線も駆け抜けていく。
双眼鏡からスマホへと目を移す。
画面には映るタイムは――15.3と29.2とある。
2人の手綱は動ずとも、上がり2ハロン(400メートル)が29.2で1ハロンずつでいえば、15.3できて、ラストが13.8だったことを示している。
それを先生に見せるとにこりとしながらうなずいた。
さすがに元とはいえ名手(ヤマさんは?)。先生がお願いした時計どおりに上がって(走って)きている。
先生とともに、すぐに下りていき、戻ってきた両馬の状態を確認した。
「どうだ? おやじ」
ヤマさんの声に、先生は「何の問題もありません」と目を細めている。そして、石先さんへと顔を向けて、「本当にここまでしていただき、ありがとうございました」と頭を下げた。
それに対し、石先さんは、「いやいや」と照れくさそうにしている。
本当に、石先さんのおかげだ。毎年冬場のヒメは体が硬くなり、レースを使えない状況だったが、しかっりとケアしながら硬さをだすことなく仕上げてくれていた。
「言っとくけど、俺も腰が痛いのに、結構乗ってやったんだけどな」
すぐに自分の手柄にしたがる。でも、確かにヤマさんも北海道に行く前は通いでやってきては、サトミノヒメに乗ってくれていた。
「まあ、石先さんと俺。それと早めにレースからの切り上げを決断したおやじのおかげだな」
まさに先生の英断のおかげだ。無理してレースに使っていたら、どうなっていたかわからない。
それに石先さんとヤマさんのおかげ。それも確かだ。
って、じゃあ俺は?
「俺もがんばったんですけど」
「えーっと。こちらの方は従業員さんですか。うちの馬たちがお世話になりました」
こっ、この野郎!
「従業員って……。確かに働けせてもらってましたけど。でも、俺だって海岸で毎朝ユッカの運動をしてましたし、ヒメのアフターケアだって毎日海岸でしてたんですよ」
ヤマさんは鼻で笑って受け流すと、
「さあ、2頭とも入厩で忙しくなるぞ」
無視かよ!
2頭の引綱を手にして、馬舎に向かおうとしている。
だが、俺のほうに顔を向けると、「ほら」とユッカの引綱を掲げるように持ち上げた。
俺が近づきそれを手にすると、小さな声が、
「お前のおかげだ。ありがとな」
ヤマさんは言葉だけ残して、ヒメの引綱を持って歩きだしている。
ユッカが俺へと顔を向けている。『よかったね』、そんなことを言ってくれながら。
俺は胸があたたかくなるのを感じながら、ヤマさんにつづいた。
【小林牧場】
入厩して日は浅いが、両馬とも乗り運動での動きは軽快だ。運動後や先生との朝散歩の後も、先生が毎回入念に脚を確認しているが、ソエの心配はすっかりなくなっている。
俺にはわからなかった、先生が感じていた脚への不安や違和感も解消されているそうだ。
まさにこの短期間での急成長であり、脚も体もしっかりしてきたということだ。
それを確かめるためにも、今日は追い切りをかける。
双眼鏡をとおして、併せて走るユッカとヒメの姿が見える。
その背には、乗馬クラブの時と同様、ヤマさんと石先さんの姿がある。石先さんは、人手不足の我が厩舎を思ってくれてか、「もう少し、面倒見させてもらうよ」とわざわざ駆けつけてくれていた。
本当にありがたい。
目に見えて、2頭が加速している。そして、坂路へ。
先に手が動いたのは石先さん。ユッカに乗るヤマさんはまだ手綱を持ったままだ。
残り100メートルほどになるとヤマさんの手が動き、ユッカが1馬身ほど前にでて、坂路を上がりきった。
先生と思わず顔を見合わせる。きっと俺も、にこやかに微笑む先生と同じ顔になっている。
すぐに下へと向かい、戻ってくるのを出迎える。
そして、ユッカの脚に手を当てた先生はにっこり微笑んだ。問題なしのいつものサインだ。
ヒメも強い調教の後はこずむこともあるのだが、歩様もスムーズで問題ない。
俺はユッカに顔を寄せ、そっと声をかけてみる。「状態はどうだい?」
『問題なくばっちりよ』
力強い声が返ってくる。
となれば、いよいよ再出発だ。




