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アイドルジョッキー馬になる  作者: ゆらゆらゆらり
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信一 ♠ 衝撃

「うそだろ……」


 思わず声がもれる。

 双眼鏡を持つ手に力がこもり、レンズ越しの信じられない光景を見つめていた。

 耳にはヤマさんの怒りに満ちた声が届いてくる。


「あいつ! 勝手に何しやがる」


 だが、届いてきてたのはその言葉だけだった。

 ヤマさんも俺と同じなのか。ただただ、その光景に心を奪われている。




 ユッカとサクットネの併せ馬。そして、一瞬で置き去りにしたその姿。



 興奮している。勝手なことをした比嘉に対する怒りとか憤りとか、いろいろんな感情は吹っ飛び、ユッカの走りに酔いしれていた。


 だが、視線を横へと移した瞬間、酔いは覚めていった。いや、一瞬で消え去った。

 俺の目には初めて見る先生の姿が映っている。

 怖いほどに険しいその顔が。


 先生は無言のまま向きを変えると、足早に歩きだした。ヤマさんもつづいていく。


 俺も慌てて後を追った。





 ユッカの上の比嘉が、サクットネに乗る騎手と楽し気に話しながら向かってきている。


 先生もヤマさんも比嘉とは対照的な顔で近づいてくる姿を見つめている。

 先生の視線はただ一点。ユッカの前脚を見つめ続けている。


 俺たちの2、3メートル手前まで来ると、笑顔の比嘉から興奮気味の声が、「先生。こいつはほんま、すげえ馬ですよ」


 先生は無言のまま自らも近づいていく。

 俺も後につづいた。異様な空気を感じたのか、表情が曇っていく比嘉。それを横目にユッカの口元へと引綱をとおした。


「てめぇ、さっさとおりろ」


 ヤマさんの声に、比嘉が下馬しながらぼやく声が聞こえてくる。「なんやねん……」


 先生は腰を落とし、ユッカの前脚へと手を伸ばしている。

 その姿に、比嘉の表情はみるみる変わっていき、不安が満ちている。


「てめぇ、自分が何したかわかってんのか!」


 ヤマさんが怒りをぐっと抑えるように、押し殺した声を比嘉へと向けている。


「えっ? いや……」


 戸惑う比嘉に対し、ヤマさんは、「てめぇのせいで全て台無しだよ」


 比嘉も事の重大さを感じたのか、顔が青ざめ、つぶやくような小さな声で


「せやけど……こいつももっと走りたい思ってんねん。せやから走らせただけで……」


「はあ? ふざけんな!」


 怒鳴られた比嘉は顔を下げ、唇を嚙み締めた。

 だが顔を上げ、睨むようにヤマさんを見ると、


「あんた、あんな軽い調教ばっかで勝てるとでも思っとんのか。(次走)どれだけの強い馬が相手かわかってもの言っとんねん」


 比嘉も完全に頭に血が上っている。


 視界の片隅に見えるユッカの姿を見れば、比嘉が言うようにユッカが自ら動いたのかもしれない。反省でもしているように首がうなだれている。


 それだけならいいが、先生の表情が険しいままであることに、心臓の音が聞こえそうなほどに強くなっている。

 ユッカも反省とかそんなんじゃなくて、もし他に何か……脚になにか……。

 


「くそが」


 吐き捨てるように言ったヤマさんが、先生の横で腰を落とし、


「どうなんだよ。おやじ」

「何とも言えませんが、さっき戻って来る時の歩様が少し……」


 先生はすっと立ち上がると、「今回の出走は見送ることにします」


「ちょっと待ってください。戻って来る時もなんも異常はなかったし、問題なんてあらへん。これで最高の仕上がりになりますって」


「ばかやろう! てめぇの狭い視野と私欲でもの言ってんじゃねえよ」


 立ち上がったヤマさんは比嘉の胸元をつかみ上げ、さらに「こいつの将来をつぶす気か」


 ヤマさんの言葉は俺の胸にも突き刺さっていた。


 俺も目の前しか見えていなかった。先生のためという気持ちにうそはないが、いつしか私欲が混ざっていたのかもしれない。


 ふーっと、引綱が引かれる。


 ユッカがゆっくりと動き、比嘉の胸元を掴むヤマさんの手に鼻を寄せた。


『私のせい。私が……』


 ユッカからもれるように苦し気な声が聞こえてくる。


 ヤマさんにも、その声が届いたかのように手から力が抜け、比嘉の胸元からはなれていく。


「ユッカ、脚はどうなんだい?」


 俺は思わず、そう声をかけていた。

 ユッカから何も返ってこない。






 翌日、獣医による診断は管骨前面の軽度の炎症。いわゆる※ソエといわれるものだった。


 ユッカは数日様子を見て、サトミノヒメがいる乗馬クラブに放牧に出されることになった。


 ユッカを馬運車に乗せる前、先生はユッカの首をなでながら語り掛けるように、「私のせいでごめんね」と口にしていた。

 思わず顔を向けると、目が合い、先生はどこか儚い笑みを浮かべ、


「この子とならと、情けないことに年甲斐もなく夢を見てしまいました」


 そう言って、再び謝りながらユッカの首をなでた。

 比嘉が頭を下げに来た時も、先生はすべては自分のせいだと言っていた。まだまだ体ができていない段階でS1を目指してしまったせいだと。


『先生のせいじゃありません。私が勝手に……』


 うなだれるように首を下げたユッカからそんな声が聞こえてくる。

 先生には届かないその声を受け、俺は……なんと言えばいい。俺なんかじゃ先生の気持ちを和らげることも軽くすることもできない。


 だから、思うがままに、


「先生。ユッカの夢、俺たちの夢、先生の夢、終わっちゃいないです。まだまだ、これからずっと――」


 先生に、そして、先生の向こうに見えるユッカに向けて言葉に力を込めた。


 先生がにこりと、()()()()()()()微笑んでくれた。

 ユッカは力強くうなずき、先生へと頬を優しく寄せた。





 


※ソエ

 主な原因は骨が完全に化骨していない馬に強い調教など過度な負荷をかけることなどといわれている。ゆえに調教初期の若馬に多くみられる。

 軽度であれば出走する馬もいるが、悪化したり、その他の故障にもつながる恐れを含んでいる。


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