信一 ♠ あんただって馬と生きる人間だろうが!
【7月×日~信一行きつけの居酒屋】
居酒屋の賑わいに反して、俺はひとりビールジョッキをあおっている。あの人(調教師)の顔を見ると、どうしても冷静でいられなくなってしまう。
今日もそうだった。
北海道から戻るとその足で大井競馬場に隣接する厩舎へと向かった。そして、中牧調教師の元ヘ。
そこで俺が何かを言う前に、「部外者がなんの用ですか」と言われ、さらに近くにいた人へ「不法侵入ですから警備員を呼んでください」とまで言われると、一気に頭に血がのぼってしまい、
「たいした用じゃありません。けじめとして辞表を持ってきただけです」
「そうですか。それなら、さっさと置いて帰ってください」
いかにも部外者だとばかりに普段とは違って敬語でいってくるのが鼻につく。とそこで、はっと気付いた。
辞表なんてもの持ってきていない。謝ろうと思っていたのだから……。
「どうしたんですか?」
「いや、何事も新鮮なほうがいいと思いまして、ここで書きますんで、紙とペンをお願いできますか?」
そんなこんなで、拇印まで押して、正式に辞めてきてしまった。
辞表を渡した時の、無視するかのようにポンと机に投げ捨てた調教師の姿が浮かび、また腹が立ってくる。
あんなやつのせいで……。
メリー(メリーホープ)の姿が浮かんでくる。心に残る痛みとともに。
メリーホープは入厩当初から体質が弱く、熱発や腹痛を起こすことも多々あり、馬舎で寝ずに看病したりと手のかかるやつだった。
それでも休み休みながらも成績は残していたし、成長とともに体質も強くなっていた。だが、近頃は脚元に不安がでるようになってしまい、以前のような走りはできず、成績は下降し、入着すらできないまでになってしまった。
すると、調教師は他場に遠征までして月に2回、さらにはそれ以上と無茶な使い方をするようになっていった。
脚元は悪化し、レース後には脚に熱をもち、慢性的に腫れがひかないまでになっていた。
何度も休養させてほしいと頭を下げたが受け入れてはもらえなかった。
俺はただ無事に戻ってきてくれることを祈るしかできなかった。
あの日もそうだった。
朝の引き運動に向かおうとすると、いつにも増して歩様がおかしい。脚元をさわってみると熱はひいていない。
冷却とレーザー治療でなんとかケアしてきたが、さすがに限界かもしれない。
引き運動はやめ、調教師のところへと向かった。今日の出走はなんとかやめさせなくてはならない。
40歳そこそこの調教師はパソコンに目を向けている。
俺が馬の状態を伝え、出走取消をお願いすると、「わかった」という言葉が返ってきた。本当にわかったというのか、パソコンに目を向けたままだ。
「取り消してくれるんですよね?」
念を押すように聞くと、
「ああ、大丈夫。いつもよりバンテージを強めにして締め上げておけば大丈夫だから」
俺は言葉を失った。
メリーが脚を気にするようになってからは、保護のために脚元にバンテージを巻いている。それで締め上げろって……。
この人がこういう人だということは、まだ何年かの付き合いだがわかっている。他の馬でも成績が落ちれば無理使いすることも。
入着賞金も稼げないようなら、出走手当で稼げというのが、この人の考え方だ。それが馬主のためだと。
だとしても、メリーの脚は限界だ。この状態で走るなんて危険すぎる。
俺は、調教師からの「もう戻っていいぞ」という声を無視して詰め寄った。なんとしてでも出走させないために。
「もう、うるさいやつだな。歩けるんだろ。それなら走れるだろうが」
「いや、無理です。危険すぎます」
思わず語気が強くなっていた。
調教師は、「はいはい。この話はおしまい。仕事に戻って」
虫でも追い払うように手ではらわれた。
それでもメリーのためにぐっとこらえた。
でも、つぶやき声が耳へと突き刺さるように――「馬なんて所詮、消耗品だろが」
俺は調教師の胸元を掴み上げていた。そして、立ち上がらせると後ろの壁に押し付けていた。
調教師が助けを呼ぶように大声を上げて叫んでいる。
俺は胸元を持つ両拳を突き上げた。
調教師の声がやむ。
「ふざけるな! あんただって馬と生きる人間だろうが。口が裂けてもそんなこと――」
怒りに言葉がつまる。
もう一度壁へとその体を叩きつけた。
ずるずると調教師の体が沈んでいく。その姿を横目に向きを変えた。
幾人かの人が姿を現し、俺に視線を向けつつ調教師の元へと駆け寄っていく。
俺は、調教師の「首だ!」と叫ぶ声を背に、その場を後にした。
俺は再びグッとビールをあおった。
今でもあの時のことを後悔している。結局、あのまま厩舎を後にしてしまったことを。
メリーホープは出走してしまい、4コーナー手前で限界となり、左前脚の靭帯断裂と粉砕骨折によって予後不良となってしまった。
あの時、もっと冷静に話していれば、土下座してでも頼み込み続けていれば、馬房の前で座り込んででも反対すれば……なにかできたんじゃないかという思いが消えない。
残りのビールも一気にあおった。
ふと、崩れ落ちる姿が重なる。テレビで見たルビームーンのあの姿。
競馬には防げる事故と、どうにもならない事故がある。メリーの事故は防げた。
だからこそ、悔しい。だからこそ、悲しい。だからこそ、愛おしい。
彼女はルビームーンが、もっともっと走りたかったという声を聞いたと言っていた。
メリー。君はどうだったんだい?
こみ上げてきたものが鼻水となるのを、ずるっと吸い上げた。
せめて、ルビームーンの、田所雪香の思いはなんとかしてあげたい。
だけど困ったもんだ。彼女に、まかせとけ、なんて言ってきてしまったのに……。
ため息とともに、もう一杯ビールを注文した時に、声をかけてくる人の姿が。
「ひとり?」
振り返ると見知った顔が、
「ああ、健太さん」
大井競馬場公認の場立ち予想屋さんだ。知り合ったのは大学生の時で、アパートから近いこともあって、競馬にどはまりしていた頃だ。すぐに意気投合し、時より飲みに行くようになっていた。
今日は健太さんもひとりなのか、横でいい、と聞かれ、一緒に飲むことになった。
予想屋と厩務員という関係になってからは、こんなことはほとんどなくなっていた。
「信くん、いなくなったって聞いてたけど、なんか今日厩舎に現れていろいろあったって?」
健太さんのところにまで、前回のことも含めて、変な噂が広がっている? 思えば、今日だって競馬場の厩舎で行き交う人の目がなんだか……。
ほんと、ため息がでる。地方競馬の厩務員は基本的に調教師による直接雇用なので、別の厩舎に移籍という考えも心のどこかにあったが、変な噂のせいで、その可能性もなくなっているかもしれない。
とにかく小さな社会なので、噂はすぐに広まるのだ。
「まあまあ、今日は飲もうよ」
健太さんの声に、こくりとうなずいた。
飲む中で思わぬ話が。
なんと、ある調教師を紹介してくれるというのだ。
嬉しい。嬉しすぎる。
どんな人だかも知らずに、「ぜひ紹介してください」と頭を下げていた。
そして、翌日には紹介された厩舎へと向かっていた。
紹介されたのは小林にある厩舎だった
小林というのは、正式には大井競馬場小林牧場といい千葉県にある。坂路などもあるトレーニング施設で、小林分厩舎もある。厩舎の所属は大井でレースがあるとここから輸送され出走することになる。
【小林牧場入口】
入口に警備員がいたので、健太さんが言っていた調教師につないでもらうと、すぐに連絡が取れたようで、厩舎に来てくださいということだった。
警備員に厩舎の場所を聞き、その場所を目指した。不安から手汗が止まらない。その調教師というのが……。
現れたのは近所のおじいさんという感じの人だった。
「厩務員をしたいというのは君かい?」
優し気な声に思わずうなずいてしまう。スマホで厩舎について調べると、とんでもない事実があったのにだ。
「まあ、お茶でも飲みますか」
にこりと笑った姿は、まさに人のいい優しいおじいさんという感じだ。
だが、それがとんでもない調教師だった。
まさか、今年の勝ち星が0って……。しかも、さらに驚き事実が待ち受けていた。