雪香 ☆ 心であふれる涙
「ちょっと待ってください。さっきまでそんな事ひと言も言ってなかったじゃないですか」
突然、売らない、と言い出したおじいちゃんに彼が詰め寄っている。
「申し訳ない」
「理由、売らない理由はなんですか」
おじいちゃんが私のほうへと近づいてくる。そして、私を見つめながら、「わしのわがままじゃ」
彼も近寄ってきて、さらに問い詰めると、おじいちゃんは、
「わしも年を取ったということだな。なんだか、こいつと本当に離ればなれになるんだと思ったら急に寂しくなっちまって」
「そんな……そんなの当たり前じゃないですか。ここは生産牧場なんですから、競走馬としてここから旅立っていけるのは、むしろ喜ばしいことじゃないですか」
おじいちゃんは何度か小さくうなずき、
「わかっとる。わかっとるが、こいつは特別な気がしてな」
牧柵越しに私の鼻づらを優しく撫でてくれ、
「馬なのに孫みたいな気がしてな。わしが勝手に話しかけいるだけだが、いつもちゃんと聞いていてくれて話し相手になってくれている気がしてな……」
おじいちゃんの気持ちが嬉しくて胸がつまる。私もそうだと言葉で……言葉で伝えたい。
彼が唇を嚙みしめるように強く結んでいる。そこから漏れるように声が、「でも……」
『もう……いいんです』
自然と言葉がでていた。
彼の顔が私のほうへと向き、
「何がいいんだ。本当にいいのか」、彼の言葉が強くなっていく。「競馬場で走らなくていいのか。走りたいんだろ。ルビーの思いに応えたいんだろ!」
彼の思いが言葉となって弾けた。
私がビーちゃんの思いに応えたいと話した時、彼は言ってくれた。
「きっと思いを残していった馬たちの願いが君へと託されているかもしれないな。メリーの思いもきっと……」
彼が愛した馬と私が重なっているのかもしれない。だけど……私を撫でてくれているおじいちゃんの姿に心が苦しい。
「おいおい、どうした? 馬に向かって何を怒鳴っているんですか」
反対君は、頭でもおかしくなったか、と言いたげな声を上げている。
「いや、これは。なんというか、えーっと、マンガ。そう、マンガでこんな場面があって、つい真似なんかしちゃったりして」
しどろもどろの彼。
とその時、顔に感じていた感触が消えていった。おじちゃんの手がはなれ、彼のほうを見て、
「大前さん。あんたの言う通りだ。こいつも競走馬として生まれたからには競馬場で思いっ切り走りたいよな。それをこんなじいさんのわがままで奪っちゃいかんよな」
悲し気な笑みを浮かべたおじいちゃんは社長さんの前へと行き、深々と頭を下げた。「よろしくお願いします」
私は天を仰いだ。心であふれる涙がこぼれでないように。
【その日の晩】
ほろ酔いの彼が馬舎にやってきた。向こうではまだ、おばあちゃんの料理を肴に飲み会はつづいているらしい。
「君の売買価格は200万円で話がついたよ」
おじいちゃんは無償でもいいと言ったらしい。それを彼が100万でもとおじいちゃんに言ったそうだ。
それで話はまとまったが、小切手に書かれていたのは200万円だったという。
「ほんと社長は粋な江戸っ子っていうのかな。何も言わずにそんなことするなんて、かっこよすぎるだろ。それに比べて反対君。相変わらずブーブー文句ばっかでさ。あの程度の馬ならただでいいとずっと言ってんだよ。それに――」
彼の話が続いたが、思わず『えっ!』と声を上げて話を止めていた。
『ちょっと待ってよ。なんですかそれは?』
「なにがって何が?」
『呼び方ですよ。そのユッカってなんですか』
「いいだろ。君の馬名だよ。雪香を縮めてユッカ。俺が提案して反対君の反対も押し切って、社長のOKももらったから」
『え~。もっと外国語みたいなかっこいい名前なかったんですか』
「そんなもんあるか。もう決まったことだし、頑張ろうなユッカちゃん」
ちょっと、小ばかにしたような言い方がむかつく。そっちがそう言うならこっちだって、
『そうですね。信ちゃん』
「いいね。なんか距離がぐっと近くなったじゃん。よし、これからは敬語もなしで、それでいこう」
なんだかうれしそうに言ってくる。
いやいや、それはちょっと、と言いながらも少しうれしいい自分がいる。
彼、じゃなくて信ちゃんは急に真剣な顔になり、
「おじいちゃんのためにも頑張ろうな」
私は力を込めてうなずいた。




