雪香 ☆ これが私です
しばらくすると、彼とおじいちゃんがやってきた。彼はおじいちゃんにも楽し気に厩舎やレースのことを話している。時より私に語りかけているが、おじいちゃんが気にする様子はない。
おじいちゃんも、いつもそうして私に話しかけてくれているからだろう。
そんなふうにしていると2人の男性が現れた。あれが社長さんと彼が反対君と呼んでいた経理の人だろう。なんにでも反対するやつだ、と苦笑いを浮かべて話していた。
どこかに寄ってからきたのか、挨拶を交わしながら、加工工場がどうのこうと話しをしている。
「まあまあ、それよりこちらが例の馬です」
彼の言葉で2人の視線が向かってくる。
「ほら、こんなふうに人にも慣れてまして」、彼は私の鼻づらを撫で、「本当に素直でいい子なんです」
かわいいですね、と言ってくれる社長さんに対し、反対君は無言で近づいてきて、
「小さいですね。これではパワーが必要な地方(砂の深い地方競馬のダート)では難しいんじゃないですか」
「いや、そんなことはないです。バランスの取れたいい体をしているじゃないですか。この広い放牧地を駆けまわり、ほら、あそこの傾斜だって駆け上っているんですよ。ねえ?」
彼がおじいちゃんのほうに顔を向けると、
「ええ。走るのが好きなのか、毎日駆けまわっております」
社長さんは、そうですか、とほほ笑んでくれているが、反対君は、ふ~ん、と鼻で笑うように聞き流している。
「ほら見てください。このケツ。プリプリでいいケツしてますでしょ」
ちょっと、い・い・かた。馬を扱うプロなんだからトモって言いなさいよ。
「それにこの胸。見事でしょ」
その胸の大きな人を表すようないやらしい手つきをやめなさい。これは胸じゃなくて胸前の筋肉ですからね。
「確かに素晴らしいですね」
社長さんは彼に対しそう言うと、おじいちゃんのほうへと顔を向け、
「本当にずっとここで?」
「お恥ずかしい話ですが、買い手がつかなかったもので育成にでることもなくて……」
「そこですよ社長。売れ残りなんですよ。結局のところはこれが問題なんですよ」
反対君は社長さんのほうに近づいていくと、手にしているクリアファイルから紙を取り出し渡しながら、
「母系にサンデーサイレンスも入っていなければ、ミスプロ系のスピードもない。要するに古いんですよ」
社長さんが手にしたは血統表なのだろう。それに目を落としながら、
「確かに時代遅れなのかもしれません。でも、懐かしくてわくわくする血があふれているじゃないですか。それに父親はキラボシですよ」
「それが売れなかった一番の原因ですよ。マイナーすぎるんですよ」
『もーう、反対君……』
なんとなく彼(信一)と顔が合い、つい、ため息混じりの声が漏れた。
彼からもため息が聞こえてきそうだったが、すぐに2人のほうへと顔を向け、
「血統は血統であって、良血馬が走るなんてのはあくまでも確率が高いだけで、マイナー血統の安馬が化けた例なんていくらでもあるじゃないですか。要するに実際に走ってなんぼですよ」
そう言った彼が顔を寄せてきて、囁くように、「今走れるか?」
うなずくように頭を動かしてみせると、突然パンッという音が。
何?
彼を見ると、同じ動作で手を叩き、あごを、ほら、という感じで突き出した。
走れってことね。
私は向きを変えて歩き、徐々にスピードを上げながら、広い放牧地を一周して戻った。
彼は、いいぞ、と腰の辺りで小さく親指を立てている。
おじいちゃんは驚きの表情で、「大前さん。いつのまにこんなことを」と声を漏らしている。
なんだか、しつけられたワンちゃんが投げられたボールを取って戻った感じで複雑な気分だ。
社長さんからは、「いい走りですね。岡谷君もそう思いませんか?」
「まあ、確かに……」
これって認めてくれた?
なんか私まで反対君なんて変な呼び方をしてすみませんでした。
「でも、社長。この馬はずっとここにいたということは馴致だって進んでいないということですよ。これから鞍を乗せられるようにしないといけないし、さらに人を乗せ、指示に従わせるためには膨大な時間と費用がかかりますよ。それを考えますと、とてもとても」
やっぱりあなたは反対君だ。
彼からは小声で吐き捨てるような、「あぁ、もう」
すぐに反対君から、「何かおっしゃりました」
「いえ、何も。それより彼女は大丈夫ですよ」
「彼女? まるで恋人のような言い方ですね」
「いっ、いや。何を言っているんですか。そんなんじゃありませんよ。なんというか……俺は厩務員ですから。馬好きなんで、そんなふうに言ったりしちゃうわけで」
『……。』
「そうですね。動物好きな方は犬や猫でもそういう言い方をする人はいますもんね。まあ、そんなことはどうでもいいんです。まあ、なんにしても購入代以外にも費用がかさむことですし」、反対君は社長さんへと顔を向け、「無理ということでよろしいですね」
社長さんはどこか困ったように黙り込んでいる。
とその時、声が、「大丈夫です」
力強く言い切った彼の言葉がつづく。
「この子はほんと手のかからない素直な子ですから。さっきも見ていただいたようにしつけもされていますから。それに」
なんか、しつけとか言われると、やっぱむかつくんですけど。
彼はおじいちゃんのほうへと顔を向け、「鞍ってありますか?」
まさか、実際に乗ってみせるの?
彼とおじいちゃんは古い鞍があるという物置のほうへと行ってしまった。
そして――
人を乗せて走るなんて初めてのことだが問題なさそうだ。
彼を背にダクを踏む程度にゆっくり走ってみせる。
「どうですか。ぜんぜん問題ありませんでしょ?」
社長さんたちの前を通ると、彼がそう声をかけた。
社長さんたちは、いきなりこんなことができるのか、といった感じで目を見開いている。それは長年馬に携わってきたおじいちゃんも一緒だった。
「ほんとこの子は凄い子なんです」
そんな彼の言葉が嬉しくて気持ちが上がり、つい脚まで上がってスピードが――彼から悲鳴にも似た声が聞こえていた。
これでなんとかなる。
彼が私の背から降りて反対君に声をかけると、渋々しながら首を縦に振ってくれた。
とその時、おじちゃんから小さな声が、
「申し訳ないが……」




