雪香 ☆ おかえり。いや、それはおかしいか。いらっしゃいかな
【8月×日 北海道の牧場・星天ファーム】
私は、はっ、として頭を起こした。
いつも以上に放牧地の傾斜の上り下りをし、疲れ果てて草の上に倒れ込むように寝転んでいた。
そのまま眠ってしまっていたのか……だから、あれは夢か……。
夢で見た彼(大前信一)の顔が残像のように残っている。
彼はそこにいたはずの馬を求めるように、がらんとした馬房を見つめていた。胸が押しつぶされるような悲しい顔で。
彼がここを去った後、おじいちゃんがひとり語りで、彼が厩舎を飛び出してきた理由を話していた。そのことが、ずっと気になり続けている。謝ってでも厩舎に戻って、と言ったことを後悔している。辛い場所へと戻してしまったことを。
もしかしたら、厩舎には戻ることさえできなかったかもしれない。それならそれで仕方がないこと。馬の死の辛さは私も痛いほど知っている。
私に今できることは――体を起こし、傾斜に向かって走っていく。
こんなトレーニングをしても意味がないかもしれない。彼も誰も見になんてきてくれないかもしれない。
なのに毎日走り続けている自分がいる。
斜面を上り切り、息を整えながらゆっくり振り返ると、目に止まる姿があった。
牧柵の向こうを歩いているのはおじいちゃん?
ぽんっと胸が跳ねた。
違う。遠くたってわかる。きっと――傾斜を駆け下りていく。
まずは謝らなきゃ。そう思っていたが、先に彼から声が、「おっ、久しぶり」
明るい声にすっと胸が軽くなっていく。
「あれ? もしかして、しゃべれなくなっちゃったとか? それとも俺が聞こえなくなっちまったのか?」
私はそんな姿に、ほっとしながらほほ笑んでいた(実際はどんな顔になっているのかわからないが)。
『違うわ』
語りかければ、言葉がちゃんと彼の心で響いてくれる。その証拠に彼の顔がにこりと和らいだ。
『おかえり。いや、それはおかしいか。いらっしゃいかな』
彼の顔はさらに和らぎ、「ただいま」
ふわりと柔らかな風が流れていく。
「ごめんな。ずいぶん待たせちゃったよな」
『そんなことないです。私の方こそごめんなさい。あなたが厩舎を飛びだした理由とか知りもしないくせに先生(調教師)に謝ってでもなんて言ってしまって』
「いやいや、いいんだ。どうせ、謝れずに辞めちまったし」
やっぱり……。そんな思いが胸の中に流れていく。でも、それでよかったんだと思う。たとえ、私が競馬場に行くことができなかったとしても……。
ふと、ビーちゃん(ルビームーン)の顔が浮かんできた。
ごめんね。ビーちゃんの思いを叶えられなくて……。
「ああ、辞めたといってもね――」
彼はどこか慌てたように早口で言葉を続けてきた。そして、私の知らないこれまでの日々を語ってくれた。
「――それでね、そのヤマさんとヒメが頑張ってくれて、賭けに勝てたんだよ」
彼は本当に楽しそうに語っている。
よかったね。いい厩舎に入れたんだね。
「だから今日、その馬主が君を見に来るんだよ」
『本当にありがとうございます』
心から頭を下げた。
きっと大変なこともあったと思う。それでも、こうして戻ってきてくれたことが何よりうれしい。
「いやいや、やめてくれよ。俺なんかなんもしてないんだから。あっ、そうだ。(牧)場主に挨拶してこなきや」
彼は照れ隠しのように早口で言うと、「また後で」と足早に去っていった。




