5話
クーが落ち着いた所で、アンは一旦悪魔狩りの修行を打ち切り、代わりに塔で休息を取る時間を設けることにした。
クーは悪魔退治を続けたがったが、連日戦い続けた彼の中には確かに疲労が溜まっており、無理をして倒れる前にと素直に従った。
それらは全て、特に自分の事を話さず、通りすがりでクーを拾って復讐心を煽り、戦いを仕込み始めた事に対するアンからの謝罪だった。
突然クーの故郷の跡地に現れた謎の少女、『塔の娘』アンは、ここでようやく弟子となった少年にしっかりと自己紹介を始めたのだ。
「じゃ、改めて、あたしはアン。出身は……国の名前言ってもわかんないだろうから、この大陸のずっと西側って言っておくわ」
「西側……国?」
「そ、写真を見せた辺りね。あたしはそこの出身なの」
クーは首を傾げた。
彼はそもそも、世界に国という共同体があったこと自体、アンに聞くまで知らなかったのだ。
物心ついた時には実家の畑の外側はほとんど荒野であり、かつて人がいたらしい遺跡群だけがうち捨てられているだけだった。
思えばあの建物群こそかつてあった国の名残なのだろうが、それは百年前、悪魔たちの出現と共に悉く失われた筈だった。
どこそこの集落、ではなくはっきり国と明言した以上、アンはその共同体の出身なのだろう。
ならばこの世界にはまだ国家なる概念が残っている事になる。
そう思ってクーは質問を重ねた。
「アンの国、まだあるの?」
「いいえ、もうないわ。他と同じで百年くらい前に滅んだ……でもあたしはそこの出身よ」
「……?」
クーはなおも首を傾げている。
アンはどう見てもクーと同い年くらい。それが百年前に滅びた国の出身とは否な話だ。
百年前ならあるいはどこかに生き残りがいるかもしれないが、仮にそうだとしてもこんなに若い少女の筈がない。
自分より大きな悪魔たちを軽く達磨にし、巨大な建造物を背負って歩くなど不思議なところは多々あるが、いくら何でも年齢にまで詐称があるとは思えなかった。
「ふふ……若く見てくれてありがとう。でも本当よ、あたしは外見通りの年齢じゃない」
クーの素直な反応に、アンは微かに微笑んだ。
「あたしね、アンデッドなの」
「アン……? アンでっど……? なあに、それ」
「まぁ、わかりやすく言うとゾンビ兼地縛霊みたいな……わかんないか。とにかくあたし、百年前にもう死んでるのよ」
クーが目をぱちくりさせた。
頭の整理に時間がかかって言葉に出ないが、彼の言いたいことはわかりやすい。
死んでいるとはどういう事か。
アンは今目の前にいるではないか。
死んでいるなら会話などできないではないか……など、十中八九そういう内容だろう。
恐らく誰が聞いても思うことは同じの筈だ。
だからアンは先んじてその疑問に答える事に慣れていた。
「例えばだけど……悪魔どもだって本当はもう死んでるのよ。だけど人々の恨みで天国から追い出されて地上に生き返り、化け物になった。あたしも似たような感じなの」
「アン、何か悪いことをしたの」
クーが本当に哀しそうな顔になったので、アンすぐに否定し、笑った。
「そうじゃないわ。あたしは悪魔になるほど人に恨まれていないもの。ただ死んでも死にきれなかったから、ここにいるだけ……まぁ、難しい話は後でするけど、あんたに最初に言いたかったのはね」
アンはテーブルに鎖とカンテラを置き、クーに見せた。
どちらも使い込まれた年代物だ。
この二つの品が長い時間を過ごしたことは、幼子のクーにもよくわかる。
ずっと戦いの前線にあって悪魔たちを引き裂き、その身を焼いてきた。
それも百年も主を変えずに。
「あんた、あたしの戦いを見て悔しがったでしょ。なんで同い年くらいの女の子と同じようにできないのかって。でもそうじゃないのよ。あたしはあんたと違って、百年の経験値がある」
「……だから、悔しがるなって?」
「えぇ、そうよ。子供のあんたにいきなり百年来の悪魔狩りの技なんか使われたら、あたしの方が自信を無くすわよ。戦いの度あんたの代わりに不貞寝するわね」
アンの言い草にクーは笑った。
ここしばらく彼は落ち込んでいたが、先の戦いの後思うさま泣いたことでいくらか態度が軟化していた。
敵への怒りは力にもなるが、味方への暗い感情は不和を生むだけで得が無い。
見た目通りの年齢でないアンは、長い人生経験からその事をよく知っていた。
その点、幼いクーはまだ素直で、それらの感情を払拭するのも早かった。
これがあと二つも大きな子供だったら上手くいかなかっただろうが、彼の顔から微かに影が晴れた事はアンにとって十分な安心材料だった。
だが、これ以上彼に不安を植え付けないためには、話せることは話しておく必要がある。
そのためにこうして席を設けたアンは、塔の中で育てた紅茶を淹れながら改めて事情を話し始めた。
「あたしの目的は話したわね。この旅は、殺せない『大悪魔』を殺す手段を……悪魔の根絶を目指す旅よ。コイツの存在が、あたしの未練だった」
「未練?」
「そ、未練……これよ」
アンはテーブルの上に本を置いた。
それは先の戦いで、骸骨巨人の悪魔が出てきた本。
『禁書』との名で呼ばれていたが、それの意味するところをクーはまだ知らない。
アンは表紙をめくって話し始めた。
「この悪魔よ……あたしと家族を殺したのは。あたしの一族を迫害したのは……」
「はくがい?」
「まぁ、平たく言えば凄い大規模のいじめね。止めてくれる大人もいないし、平気で殺しまでやるから子供のとは比べ物にならないくらい質が悪いけど……あたしの一族は、生前のコイツの一派に迫害され、殺された」
「人殺し……」
人間が人間と相殺し合うなど、そもそも人口の少ない現代においてはとんでもない話だった。
だが百年前、国という勢力同士で大規模な争いがあった当時は、さほど珍しい話ではなかったという。
アンはいつかの歴史書を取り出して、再び当時の解説を始めた。
「当時のあたしの国は貧しくてね。戦争に負けて、相手の国が復興するための支払いをすることになって、国民は皆食べるのに困っていたわ。そんな時コイツが現れた」
アンは見覚えのある写真が並んだページを開き、その内の一枚を示した。
映っているのは銃を持った兵士たちと、それに囲まれ、列を為して歩く人々。
曰く、彼らはどこかへ連行される最中であり、彼らこそがアンの一族だという。
そして、軍服の中に混じって、確かに一際大きな男がいた。
服の仕立ては他の兵士たちと同じ。
背は高いが、何となく線が細い。
そのくせ顔の彫は深く、貧弱な体躯の割に妙な威圧感がある。
アンは震える手でその男を指さし、怨嗟に満ちた声を上げたのだ。
「国の貧困は……戦のせいよ。だから当然それを煽った指導者が一番悪いことになる。でもコイツは国民の不満を、あたしたちの一族に押し付けたのよ。国が不景気なのはあたしの一族が金を囲い込んでるせいだってね」
クーは金、即ち通貨なる概念も知らなかったが、アンの只ならぬ様子を見て質問を控えた。
自分で言い始めた事だが、彼女にとっては相当忌まわしい過去なのだろう。
しばらく何も言えずに黙っていたが、やがて一息吐くと骸骨巨人の禁書を持ち、立ち上がった。
「……ちょっと気晴らしに行ってくるから、待ってなさい。五分くらいで終わるから」
「う、うん」
「返事は」
「あ、イエス、アン」
アンは微かに微笑んで、禁書と、それからなぜか鎖鞭を持って塔の外に出ていった。
何をするのか気になったクーは一瞬見に行こうかとも考えたが、この少年は学が無いだけで賢明だ。どう見ても怒っていた保護者分を刺激するまいと、黙って紅茶を飲んで待つことにした。
そうして一人、静かなティータイムとなった直後だった。
「ぎゃあああああっ……!」
「!?」
突如、門の外から聞き覚えのある男の声が聞こえた。
その中に混じるのは風切り音。最早聞き慣れたアンの鞭の響きだ。
がしゃんとか、ぐしゃんとか、まるで陶器かガラス細工を叩き壊すような音が連続して門の外から響き渡り、
「やめ……この……劣等民ぞ……あぎゃああああっ!」
数度こんな具合で、罵り言葉か命乞い、そしてその後に凄まじい悲鳴が塔の中に反響した。
どうやら何かを殴っているらしい。
気晴らしに行くとは言っていたが十中八九、憂さ晴らしの的は持っていった禁書の中身だろう。
それも相当手酷くいたぶっているようだ。
クーは恐怖と戸惑いでカップを持ったまま固まり、閉じた扉を呆然と見つめていた。
そうして、予告通りたっぷり五分。
辺りが鎮まると同時に門が開き、晴れ晴れとした表情のアンが戻ってきた。
「ふぅ……すっとしたわ。やっぱり悪党をぶちのめすのは気持ちいいわね」
「……もしかして、やっつけちゃったの、その悪魔」
「どうせ死にやしないから気にすることないわよ。殺せればとっくにそうしてるわ」
やはり、アンは禁書の中身である大悪魔『愚総統』を殴って遊んでいたらしい。
曰く、大悪魔は死ぬことはなく、身体を粉砕しても時間さえあれば元通り復活するという。
なのでいくら倒してもいいということだったが、それにしても自分の手駒に対してあんまりな扱いに見えた。
「……まぁ、言いたいことはわかるけどね」
まだまだ善良なクーの様子に、しかしアンは首を横に振って諭した。
「こいつらはあんたみたいな良い子ちゃんを食い物にして権力を得た、生きながら悪魔だった奴よ。何をされても文句を言う資格は無いわ。あんたもこれからこういうのを潰しに行くんだから、せめて悪党相手にはこれくらい容赦ない奴になりなさい」
「い、イエス」
ひとまず、思うさまに仇を殴った事で落ち着いたらしい。
アンは再び椅子に戻り、紅茶を温めなおしながら本題に戻った。
「まぁ……悪魔が他人からの呪いでこの世に縛られるように、あたしみたいに他者への呪いや心残りでこの世に縛られる人もいるわ。そういう人は百年前の知識で、今生きている人を助けているの。あたしはひたすら悪魔狩りだけど……皆、目指すところは一つよ」
アンはカンテラをテーブルの真ん中に置いた。
中で揺らめく明りは『エリシオンの灯』。
悪魔の身体を焼き焦がし、灰燼に帰する聖なる炎。
最近はクーもよく使っているが、概要についてはよく知らなかった。
アンが求める大悪魔根絶の手段は、この炎に関係するものだという。
「あたしが求めるのは、この炎の火種よ。遥か極東、この国の更に東の地にある『エリシオンの炉』。そこにいけば禁書の処分……大悪魔への止めが可能と言われているわ」
アンは再び席を離れ、壁面に供えられた梯子を手に取った。
長い梯子はレールで本棚と繋がっており、簡単に移動させることができるらしい。
アンは適当なところにそれを動かし、高い位置にある本を何冊か取ると降りてきた。
全部で五冊あるそれは、どうしてか全て針金のようなもので封印されている。
その針金も色合いからして鉄ではなく銀製のようだ。
アンは一冊の封を解くと、クーに差し出した。
「開いてみなさい」
渡された本はどこか見覚えのある装丁だった。
だがクーが禁書を開くのははじめての事だ。そもそも彼はまだ文字が読めないので、見ても内容はわからない。
それでも、と促されるまま開いてみると、その中身はクーでも異常がわかるほど奇妙なものだった。
「……なんだか文字が、二重に……?」
クーはぐっと目を凝らしてみた。
横文字で綴られた文が紙面一杯に書かれているが、それらの文字の上にかぶせるように短い単語のようなものがびっちりと書かれている。
さながら、一度印刷されたページの上から更に印刷を重ねたような奇妙な文だった。
封を解いてみると他の本も似たような状態であり、内容は違うものだが文字が雑多に散りばめられている。
これを読むのはアンでも苦労するらしく、クーの手から本を取り返すと再びの開設となった。
「そうね。これが禁書……『呪われた人生』よ。コレは昨日やっつけた蛇爺ね。名前は……『腰巻爺』? 死ぬ前から腰巾着だったのね、呆れたわ」
アンが開いた最初のページには短い一語が書かれていたが、これが悪魔の名前らしい。
しかしアンの『愚総統』もそうだが、名前にしては随分と侮辱的だ。
生前からこの名で呼ばれていたのだとすると同情すら覚えるが、流石にそんなことは無いようでアンが解説してくれた。
「これは『戒名』よ。大悪魔になった人間は、元の名前を『忌み名』にされて地上から消されるの。地の文がコイツの辿った人生で、上に書かれてるのがコイツに恨みを持つ人たちの署名ね。この数が多くてページが厚くなるほど、生前に悪行を重ねた強い悪魔なのよ」
「……じゃあコイツは大したことないんだね」
クーはアンの本を見ながら呟いた。
この『腰巻爺』の禁書は、アンの持つ『愚総統』と比べると半分くらいの厚さだ。
実際、戦った時は骸骨巨人が終始圧倒していたので、アンの使役する悪魔は相当強いのだろう。『腰巻爺』が弱いとも取れたが、アンに確認すると多分に前者のようだった。
「まぁ、在り様が腰巾着だからね。主人の暴走を止めなかった優柔不断野郎……ってところかしら。だから直接人に恨まれる機会は少なかったんでしょう。それでも大悪魔になるんだから救いようがないけどね」
アンはパラパラとページをめくって何やら凄い速度で文字を追っている。
何をしているのか聞こうとした頃には既に一冊が終わりかけており、あっという間にページを終えると溜息を吐いた。
「ふん……あんたの名前は無いわね。これは死者も生者も関係なく、対象に恨みを持つ人の署名が書かれるんだけど」
「名前が書いてあったらどうなの?」
聞かれたアンは、再び『愚総統』の本を開き、その内の一文を指で示した。
「これがあたしの署名……こんな風に禁書に名前が記されている人は、その悪魔を縛って操ることができるの。あたしはコイツを直接仇にしてるから当然名前があるんだけど……この蛇爺は戦力増加にはならなかったわね」
でも、とアンは元の本に眼を戻した。
どうやら本当にきちんと読んでいたようで、『腰巻爺』の禁書の真ん中から手前側のページを正確に開き、じっと文を睨んだ。
「禁書の文は、悪魔にされた者の人生。コイツが腰巾着だったなら、当然くっつく相手の名前も書かれてるわ。本名は失われてるけどね……」
示された文字を見てみると、確かにもやがかかったように歪んで見える。
大悪魔として本名を『忌み名』とされた場合、元々それが記してあった文献などではこういう反応が起こるという。
代わりにもやの上に浮かんでいる文字は、どういうわけかクーにも読むことができた。
「れっど……ぼ、あ……?」
頭の中に入ってきた音を、口が勝手に発音する。
これも『戒名』を見た者の反応だという。
文字の読めない農村の少年の中に入ってきたのは、一度姿を見た、とある悪魔の名前。
「そう、『赤猪豚』……あんたの敵よ」
それは知る由もなかった、クーの家族の仇の名だった。
クーの脳裏に、半月前の記憶が蘇る。
彼の家族を踏みつぶし、集落を蹂躙した巨大な怪物は、確かに豚の姿をしていた。
はちきれんばかりの肉を軍服で覆い、二角に翼も生えていた。
あれが『赤猪豚』。
家族を奪った忌まわしい仇。
あれを禁書に封じれば、クーが思うままに操ることができる。
アンがそうしたように、好きに報いを与えることもできる。
幼い少年の胸の奥を、再び暗い炎が熱くした。
「僕があいつを……しもべにすればいいの?」
「そう、だからあんたを拾った。遅くなったけど、あたしの事情はこうなのよ」
アンは席を立ち、クーの傍に寄って、そして膝を突いた。
突然恭しく扱われてクーは戸惑ったが、これは彼女なりの誠意だ。
半ば事後になってしまったが、アンは目の前の少年に一つの事を希った。
彼女の使命への加勢を求めるために。
「あたしは極力多くの大悪魔を潰して、禁書を集め『エリシオンの炉』で焼き殺す。この塔は、言っちゃえばそれまでの保管場所なの。そのために、多くの悪魔狩りが欲しい。大悪魔を下した強力な悪魔狩りが。そして、ここの親玉の使役は、今やあんたにしかできない……」
「………」
「この世から悪魔を根絶するために、力を貸して頂戴……どうかしら」
「……ずるい質問」
クーは毒づいたが、その顔は薄く笑っていた。
是非もない事だ。
どうせ自分は彼女に拾われたのだし、仇も討てる。何も憂いは無い。クーはそう思った。
今更断れない頼みだが、断る理由もまたない。
返す答えは決まっていた。
「イエス、アン……その代わり」
「うん?」
「これからも僕に、悪魔狩りを教えて」
「……まずはあんたの敵討ちからね。その後は祝杯。お稽古は更にその後よ」
二人はティーカップを手に取った。
話の間に紅茶は適度に温くなっていたが、今は都合がいい。
アンが本当は行儀が悪い、と前置いて、
「やるわよ、クー。生意気な豚ちゃんは丸焼きの刑よ」
「イエス、アン」
二人は前祝いのようにカップの中身を一息で呷った。