18話
クーはしばらく悪魔たちと睨み合っていたが、『赤猪豚』が突進を始めると敵に背を向け、塔の方向へ駆け出した。
アンを放置しての逃亡だ。
悪魔たちは一瞬戸惑ったが、ややあって敵の臆病を笑い始めた。
「なんだこの小僧、啖呵を切っておいて逃げ出したぞ!」
「腰抜けめ!」
「やっと将軍様のお力がわかったか!」
「………」
クーは幼いが意志が強く、人並みに誇りを持ち、それを傷つけられれば怒る。
敵のものとはいえ罵声を浴びながら走るのは辛い筈だ。
更にその背を、巨大な猪豚が土煙を上げながら猛追していた。
「ぶふふふ……当てとは逃げ道の当てか。たとえ道があっても私より速く走らなくては意味が無いぞ」
小さな人間の子供と、巨大な四つ足の獣の競争だ。結果は見えている。
全力で走るクーの背に、少しずつ『赤猪豚』の牙が迫ってきた。
だが、
「……お前は自分が豚なのに、わからないのか」
「なに?」
絶体絶命の状況で、クーは微かに笑っていた。
強大な力を持つ大悪魔だが、彼らの能力は化身した生き物由来だ。
この『赤猪豚』も膂力と体躯の大きさに優れるだけで、『愚総統』の銃のように特殊な力を持つわけではないらしい。
この世界に緑地は数少ないが、クーはその貴重な農村の出身だ。
畑を荒らす猪や、家畜の豚の特性は幼いながらもよく知っている。
その弱点も勿論だ。
全力疾走していたクーは突然体を急停止させ、
「猪は走り出したら、曲がれないんだっ!」
思い切り地面を蹴って、全身で真横に跳ね飛んだ。
脚力はあるが脚が短く、重心が低い猪豚は、重さのせいで一度勢いづくと制動が聞かない。
要するに曲がる事もできなければ、何かに激突しないかぎり急停止もできないのだ。
正面から標的が消え、しかし『赤猪豚』は止まれない。
その上クーが逃げた方向には、障害物の影があった。
アンが下ろした、巨大な石塔。
物理的な破壊ができない、移動式かつ堅牢を誇る壁。
クーの狙い通り『赤猪豚』はそこに向かって走り続け、
「ぶひぃっ!?」
顔面から石の壁に激突し、豚さながらの情けない悲鳴を上げた。
巨体の全体重を乗せた突撃は、失敗すれば反動も相応だ。
突進の威力の全てを自滅の格好で受けた『赤猪豚』は地響きと共に地面に倒れ、短い四肢をばたつかせて悶えた。
「し、将軍様!」
「おのれ小僧、よくも……!」
これを見た周りの兵士たちは、驚いたと同時に怒り心頭である。
彼らからすれば大将直々の公開処刑、要するにある種の催し物を見ている気分だったのだ。
戦いで血気に逸った者たちの趣味は、時に過激で残虐だ。
彼らは自分たちの長が生意気な子供を踏み潰すのを楽しみに待っていた。それがこの結果では興覚めである。
楽しみに水を差されて怒る兵士たちは、再びクーを取り囲もうと迫ってきた。
「クー! よくやったわ。よくやったからもう逃げなさいっての! あたしと違ってあんたは死んじゃうのよ、早く!」
逃げるなら今と見たアンは、相棒の健闘を称えると共に必死で叫んだ。
クーの一手は足止めはできるがそれ以上の効果は無い。
様子を見るに痛みは感じるようだが、本当なら顔面からぺしゃんこに潰れていなければおかしいのだ。
しかし『赤猪豚』は苦痛を味わった以外は無傷。
やはり大悪魔を傷付けるためには、対悪魔武器か、同じ大悪魔の攻撃を浴びせるしかないらしい。
あっという間に回復し、のっそりと立ち上がる大豚を見て、クーは深く息を吐いた。
「……わかってるよ、アン」
「クー……そうよ、もうお逃げ」
「これで倒せないことは、わかってる……!」
「!?」
迫る兵士たちと、立て直した『赤猪豚』を睨みながら、クーは塔の入り口に駆け出した。
「逃げ込むぞ、止めろ!」
「立て籠もらせるな!」
アンの許可なしに塔の扉は開かない。つまり彼女の味方にとって、この建物の中は安全地帯だという。
先の話を聞いていた兵士たちは、クーをそこまで行かせまいと必死で阻止を試みた。
だが大悪魔さえいなければ悪魔狩りにとっては慣れた戦いだ。
今更一兵卒に足止めされるクーではない。
「雑魚はどけっ!」
背後からは再び『赤猪豚』が迫ってくるが、前さえ塞がれなければ進むことはできる。
立ちはだかった兵士たちは木剣を振り回して達磨にし、拓いた血路を走り抜け、クーはすぐに見慣れた鉄の大扉に辿り着いた。
「入らせるな!」
子供には重い扉を、クーは無骨な手すりを両手で掴み、全身の体重をかけて引っ張る。
アンは軽々と開けるが、十歳の少年には開閉だけでもかなりの手間だ。
苦労するクーの後ろから軍刀を持った兵士が迫り、更にその脇から銃弾が飛んできた。
「ぐっ」
「クー!」
銃弾が当たって小さな左肩が血を噴き、鉄扉に当たった弾が火花を散らした。
アンは悲鳴を上げたが、クーは構わず、手の力も抜かなかった。
彼の言う『当て』はこの塔の中だ。
入ることさえできれば入手に邪魔は入らず、それを得る事さえできれば『赤猪豚』を倒すことも可能なはずだ。
そうすれば家族の仇を討てる。
何よりアンの救出も叶う。
この場を乗り越えさえすれば、全てが上手くいくのだ。
その確信を持つクーは、不退の覚悟で扉に挑み続け、
「ぐ、お、お、おっ!」
背中に浅い一太刀を浴びながらも、何とか塔の中に転がり込んだ。
数名の兵士が塔の中に侵入を試みたが、その前に細切れにされて排除された。
追手が追いつく前に扉は閉められ、かくしてクーはひとまずの籠城に成功したのだ。
「ちぃ、おのれ小僧め、我らをコケにしおって!」
「出てこい! 出てこないとこの小娘八つ裂きにするぞ!」
やはりというべきか、兵士たちは怒って塔の中に恫喝を繰り返したが、返答はない。
数名が塔の壁面に、扉に体当たりをかけたり、銃を撃ち込んだりして建物の破壊を試みたが、石の塔は無謬の様子でその地に鎮座し続けた。
「良い、止めよ、同志たち……」
「将軍様!」
「ご無事で……ひぃっ」
声音こそ静かだったが『赤猪豚』は醜い顔をこれ以上ないほどの怒りに歪めていた。
これだけ血気盛んな集団の長だ。敵に、それも小さな子供に良いようにされるのは総統の屈辱らしい。
自分の突進が通じない以上、部下の攻撃も塔には効かない。
兵士たちを制止した以上そこまでの分析はできるようだが、だからといって冷静という訳でも無いのだろう。
振り上げた拳をぶつける先を無くし、激情に駆られた軍団の長は、
「いつまでも食料は持つまい……それに、いつまで相棒の悲鳴を聞いていられるかな」
元々赤い豚面を更に真っ赤に染めながら、凶悪な顔でアンに振り返った。
一方、塔に立て籠もったクーは荷物から大急ぎで包帯を引っ掴み、肩と背中の手当をした。
これからの作業はいつまでかかるかわからない。
折角塔までたどり着いておいて、為すべきことを為せず失血死では間抜けざまだ。
ひとまず止血をして自分の命を確保した後で、クーは重い身体を何とか動かし、中庭を目指してよろよろと歩いた。
「……ここに来るまで、読んでたんだ……わかる場所に、あるはず……」
独り呟きながら辿り着いたのは、いつものテーブル。
勉強に茶会にとこの一月、アンと二人で囲んだ小さな円卓。
冷めきった紅茶のポットの隣にはクーが目指した『当て』がしっかりと置いてあった。
それは、二人をこの地へ導いた大悪魔『腰巻爺』の禁書。
道案内としては大活躍したが、中に二人の署名が無かったために戦力としての使用はできないとされたものだった。
しかし、クーにはこの大悪魔の力を戦いに使う算段があったのだ。
「……お前の事を何も知らなければ、どうしようもなかったけど……一度戦ったからな」
クーは眼を閉じ、あの日の戦いを、初めての大悪魔との激突を回想した。
あの時のクーは、まだ銃弾も弾けなかった。
アンと塔の陰に隠れ、倒れた悪魔にひたすら火を点けることしかできなかった。
クーはそんな自分の無力を嘆き、そして悪魔たちは彼を嘲笑った。
悔しかった。
屈辱だった。
子供なりの必死の努力、それを笑う悪魔たちがどうしようもなく憎かった。
胸の奥に宿る暗い思い出。
忘れ去りたい屈辱。
しかし、
――思い出せ。怒れ。憎め。
クーはそんな記憶を必死に思い出し、その苦しみで自らを焼いた。
怒りに、憎しみに身を焦がした。
そうして生まれた暗い感情を、目の前の本にひたすら向けたのだ。
人を殺して恥じる事もなく、幼い努力を踏み躙って嘲う、本物の悪魔に、純粋な怒りを込めて。
――刻むんだ……呪いの、署名を……!
この蛇男を、呪いの契約で縛るために。
クーは禁書の最後のページを開き、血眼になって紙面を睨み続けた。