そそっかしい新人の教育係になった看護師の話
パタパタパタッと、廊下を走る足音が聞こえる。
「長野先輩、たいへんです!」
ナースステーションに、新人の佐藤洋子が飛び込んで来た。
「洋子さん! 廊下は走らないでって、いつも言っているでしょう」
「ごめんなさい!」
洋子さんがボブカットの頭を下げる。
謝ることのできる、素直な子だ。
「それで、どうしたの?」
今年の四月から、教育係として私が指導にあたっている。
配属から五ヶ月が経ち、洋子さんも病院の仕事にも慣れてきたが、そそっかしさは変わらない。
「北側通路で、三○一号室の富山さんが、吐血です!」
反射的に、応急処置グッズが入れられたカゴを手にしていた。富山さんは、胃潰瘍で入院している患者だ。
「対応は!」
「明日香さんがっ」
経験七年目の看護師だ。
名字が同じ佐藤なので、下の名前で呼び分けている。医師にも佐藤先生が二人いるので、困ったものだ。
「洋子さん、佐藤先生に――信男先生のほうね、連絡して!」
「はい!」
パタパタと内線電話に駆け寄り、洋子さんがコールを鳴らす。
私は応急処置グッズを持って、患者の元へ急いだ。
別の日の、昼下がりだった。
ガシャンッ、と何かが衝突した音が廊下に響いた。
「どうしました!」
慌てて廊下の角を曲がる。
空の食器が散乱した傍に、洋子さんが蒼い顔をして立っていた。昼食を下げた配膳ワゴンが、壁にぶつかっている。
「長野先輩……、ごめんなさい!」
ボブカットの頭が、高速で下がった。
「配膳ワゴンが重くて、よろけちゃった?」
「はい……」
洋子さんに怪我もなく、他の人を巻き込んでもいないようなので、ひとまず胸を撫で下ろす。
何事かと、相部屋の病室から顔を出した患者さんたちへ説明をする。事情がわかれば、皆ほっとしたようで、笑ってくれた。
「まぁた、洋子さんか。そそっかしいなぁ」
検査入院の香川さんが、豪快に笑い飛ばす。
「オレの娘も、同じぐらい落ち着きがないぞぅ」
「あんたのとこは、まだ高校生じゃないか」
骨折した左腕を吊った、隣りのベッドの徳島さんが呆れたように言う。香川さんと徳島さんは同年代で、仲良くなったらしい。
「お騒がせして、すみませんでした!」
洋子さんが、また頭を下げる。
「いいよ、仕事に一所懸命の証じゃあないか」
「そうさ。頑張りなよ」
皆、口々に洋子さんを慰める。
はいっ、と元気な返事で応える彼女の人柄が、患者さんたちに受け入れられている。失敗しても、すぐに謝ることができる。落ち込むこともあるけれど、いつも笑顔を忘れない。素直な良い子だ。
「洋子さん、掃除用具を持って来てくれる?」
「はい!」
散乱した食器を拾う私の傍から、洋子さんが離れていく。パタパタパタッ、と軽快な足音。
「廊下は走らないで!」
「ごめんなさい!」
別の日の、夕方だった。
「洋子さん、明日は遅番ね。遅刻しないでよ?」
ナースステーションの奥。
ミーティングスペースで、数人の看護師と共に打ち合わせ。
くすくすと、明日香さんや他の看護師たちが笑う。洋子さんは拗ねたように、口を尖らせた。
「大丈夫です。目ざましを三つ、セットしていますから」
「それにしても、いつもギリギリね。時間に余裕持っての出勤、という考えはないの?」
私の言葉に、洋子さんは焦ったように首を横へ振った。
「ごめんなさい! ちゃんと起きているんです。でも、お財布がなかったり、スマホを忘れたり……家に戻ることが多くて」
「そそっかしいねー。今朝は、家の鍵が見つからなかったんだっけ」
明日香さんに言われ、しゅんと洋子さんが項垂れた。
「落ち着いて行動すること。これは日常生活だけじゃなくて、医療現場には絶対に必要なことよ」
暗い顔で、洋子さんは頷いた。彼女自身、しっかりしようと思っているのは、指導していても、ちゃんと感じられる。
ふう、と息をつく。
「私だって、点滴スタンドを倒したことがあるのよ」
驚きの表情で、洋子さんが顔を上げた。
「新人の頃は、やりたいことと、やっていることが空回り。そそっかしくて、いつも皆に迷惑を掛けていたわ」
「長野先輩にも、そんな時期が……。想像、できません」
「今度、婦長にでも聞いてみなさい。あの人なら、こっそり私の失敗を教えてくれるわよ」
「はい! ……あ、いえ、そんなっ」
洋子さんは笑顔で頷き、すぐに顔色を変えた。
あたふたする新人看護師に、笑い声が上がる。ナースステーションの雰囲気は和やかだ。
翌日の、午後五時十三分。
救急搬送の呼び出し音が鳴った。
「県道でトラックと乗用車の衝突事故! 衝突のはずみで乗用車が歩道に乗り上げ、信号待ちの歩行者を巻き込んだ模様! 救急車三台、来ます!」
ナースステーションが騒然となる。
医師とともに、一台目の救急車を迎え入れる。
ストレッチャーに乗せられた、血まみれの男性。
帰宅途中で事故に巻き込まれたのか、グレーのスーツが赤黒く血で染まっている。意識があり、痛い痛い痛い痛いと呻いている。
「大丈夫ですよ! お名前、言えますか!」
痛い痛い痛い痛い、と繰り返すだけだ。
「どこが痛いですか!」
「痛い痛い痛い痛い。足が痛い!」
左足、膝下に止血バンドがきつく巻かれていた。バイタル等、申送りする若い救命士と目が合う。
「傷口は、骨まで達しています」
「……わかりました」
声を掛け合って、スーツの男性を手術台へ移動させる。
いち、にい、さん。四人で力とタイミングを合わせる。男性は呻き続けている。
「二台目、到着しました!」
明日香さんが叫ぶ。
「高齢者、女性、意識なし。心マ(心臓マッサージ)です!」
「AEDは!」
叫び返せば、通電を二回処置済み、と搬送するベテラン救命士の声が飛ぶ。
「外傷は、左上腕から出血!」
「わかりました。こっちへ!」
手術着の佐藤先生――信男先生が、男性のスーツのズボンをハサミで切り裂く。傷口を見ても、微塵も眉を動かさない。代わりに、軽口を叩く。
「戦場みたいだなぁ。こりゃ、三台目もすぐ来るぞ」
パタパタパタッと、騒がしい足音が聞こえた。
「洋子さん、走らないで!」
振り返らず、声だけで注意する。
「ごめんなさい!」
意識のない、おばあさんの痩せた体へ手早く機器を取り付ける。遠く、三台目の救急車のサイレンが近づいて来る。
「洋子ちゃんが焦るのも、わかるさ」
信男先生がぼやく。
「こんな大事故、初めてだろ?」
「そうですね。大動脈瘤破裂で、大量出血の緊急搬送は立ち合っていましたが」
バイタル機器の画面を睨みながら、その時のことを思い出す。初めての緊急搬送で、洋子さんは真っ青な顔で震えていた。私の怒鳴り声でやっと我に返り、指示された点滴を取りに行ったのだ。
パタパタパタッと、走る足音が聞こえる。
救急の現場では、誰もが慌ただしく動き回っている。
指示する声、機器の電子音、警告アラーム。緊張感に満ちる、騒々しさ。
「三台目、到着しました!」
明日香さんの声に、ストレッチャーの音が被さる。
おばあさんを別の看護師と代わり、救命士から申送りを受ける。
「二十代、女性、意識なし」
血まみれの女性の顔を見て、明日香さんが悲鳴を上げた。
「どうした!」
信男先生が叫ぶ。明日香さんはパクパクと口を動かすが、言葉にならない。
それは、私も同じだった。
しん、と人の声が止む。
ピッピッピッ、と電子音だけが室内に響く。
「……お知り合い、ですか?」
周囲の異様な反応に、おずおずと救命士が訊ねた。
この場の誰もが知っている。
佐藤洋子が、ストレッチャーに横たわっていた。
この物語はフィクションです。
医療関係の記述もフィクションですので、ご注意ください。