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52ヘルツの涙

作者: kuzuryu

【昨夜、午後九時頃に起きた、渋谷スクランブル交差点での無差別殺人事件から一日が経ちました。犯人はすでに逮捕され、現在警察は犯人の身元を調べているとのことです。現時点でわかっていることは……】


無表情で携帯から流れるニュースを見る男。

最小量で流されている音は隣に立つ男には聞こえず、画面に流れるテロップとアナウンサーの様子から言っていることを予想する。

大方間違ってないだろう。

桜庭は長椅子に座る男を横目に見て、心中でため息をついた。

齢三十の若さで警視長になった四十万屋剛しじまやまさし

冷酷無情という言葉がスーツ着て歩いてるみたいだと陰口を叩かれているだけのことはある。

これから遺族に対して聞き込みだというのにまったくもって不安そうな顔をしていない。

そもそも警察官僚である四十万屋が聞き込みなんていう下っ端の仕事をする必要などない。

相棒として組まされている桜庭は頭が痛かった。

なんでこの人ここにいるんだよ…。


「考えごとか、桜庭警部」


どうせ自分のことなんて眼中にないだろうと思い、桜庭はぼんやりと四十万屋の顔を盗み見てると不意打ちをくらった。

慌てて居住まいをただす。


「いいえ、なんでもありません」

「そうか。では、なぜ嫌そうな顔をする」


顔に出したつもりはなかったが出ていたらしい。

嫌な理由その一はキャリア組の何考えてるかよくわからん上司様と一緒に聞き込みをしなくちゃいけないこと。

だが、もちろんそれをそのまま言うわけにもいかないので、理由その二を口にした。


「昨日息子を亡くした遺族に、亡くなられた息子さんは誰かに恨まれていませんでしたか? 麻薬などを売っていませんでしたか? なんて聞かなくちゃならないんです。誰だって嫌です」

「事件解決のためだ」


そう言い切ると四十万屋はスマートフォンをしまい、席を立った。

そしておもむろに遺体安置室の扉に手をかける。


「まだショックが大きくて話せないと思いますよ。せめて出てくるまで待ったほうが…」


桜庭の制止も聞かず、四十万屋は扉を引く。

わずかに軋む音をたて、扉は開かれた。

部屋の中からはすすり泣く声だけが聞こえ、静かな部屋に扉が開く音が響く。

けれど、中からはなんの反応もない。

桜庭とて、遺族と話したことがないとはいわないが、さすがに遺体の確認に来ている遺族の邪魔をしてまで話を聞いたことはなかった。

こいつには人の心ってもんはないのか…と冷たい目で遺族の背中を眺める四十万屋を横目に見て思った。


「お取込み中、失礼します。立花ご夫妻、少しお話よろしいでしょうか」


四十万屋が部屋に踏み入り声をかけると、ちょうど父親が亡くなった息子の顔に白い布をかけるところだった。

母親は涙に濡れたハンカチをぎゅっと握りしめ、呆然と布をかけられた息子の遺体を見つめている。


「…どなたか知りませんが後にしてください」

「私どもは警察のものです」


四十万屋は警察手帳を取り出してみせる。

四十万屋にならって、桜庭も手帳を出し顔の前に掲げた。警察、という言葉に父親はたじろいだ。


「警察の方が何の用ですか。今は、そっとしておいてくれませんか。息子を亡くしたばかりなんです」

「申し訳ありませんが急を要します」


ひとり息子を亡くした親に向かっていわれた言葉とは思えない冷たさだった。

父親はもちろん、桜庭も気分を害し、わずかに眉間に皺を寄せる。

しかし、四十万屋は父親の反応など気にもとめず、きっぱりとした口調でとんでも無いことを言った。


「息子さんはあなた方ご夫婦の実の子ではありませんね」


突然の暴露に、父親も、呆然としていた母親ですら息を飲んだ。

そして、一時的にではあるが相棒として組んでいる桜庭も驚き、目を見開いた。

事件が発生してからまだ二十四時間も経っていない。

桜庭と行動を共にするよりも先に、四十万屋は事前に被害者について調べあげていたようだ。

養子縁組をするだいたいの人は、たいてい自分の名前を伏せる。

引き取ったあとの子供のため、世間からの好奇の目を避けるためである。

そのため、養子縁組をする夫婦の情報はよっぽどのことが無い限り秘密にされる。

けれど、四十万屋はその情報を知っていた。

呆然とする中、いち早く動揺から立ち直った父親が苛立ちを隠そうともせず、棘のある口調で言った。


「養子縁組は違法じゃない。そもそも、そのことは第三者に明かしてはいけないはず。なぜあなたは知っているんですか」


職権乱用ですか、警察だったら何をやってもいいんですか、と目が訴えている。

四十万屋の気遣いなどの優しさの欠片もない態度から、そう罵られても仕方がないだろう。

だが、四十万屋と桜庭が被害者の一人である立花建のもとにわざわざ訪れたのにはそれなりのわけがあった。

亡くなったと告げられてから、まだ丸一日も経っていない。

それにもかかわらず、死んだ息子の両親に突きつけるには辛すぎる問いを警察はしなくてはならなかった。

桜庭が言い出すのを渋っていると、四十万屋が冷たい声で告げた。


「息子さんは犯罪に関わっていた可能性があります。そのため、申し訳ありませんが少し調べさせて頂きました」


亡くなった息子が犯罪に関わっていた疑いがある。

夫婦は、息子が実の息子でないと言われた時よりも動揺していた。

けれど、今までずっと黙っていた母親が声を裏返しながらも、きっぱりと言った。


「息子は正しい人間です。犯罪など犯すはずがありません。何かの間違いです」


息子の無実を主張するあまり、口からは息のもれる音がする。

桜庭は母親が過呼吸にならないように、落ち着かせようと声をかけ謝罪した。


「落ち着いてください、立花さん。失礼なことを言っていると重々承知してます。ですが、これは犯人逮捕のために必要なことなんです」

「犯人逮捕って…。犯人はもう捕まったじゃないですか」


さっき見たニュースでも言っていた通り、犯人はすでに捕まっている。

しかし、だからといって事件が解決したわけではないのだ。

逮捕された男は薬物を使用しており、正気ではなかった。

身元や動機を探るため、携帯を調べたところ、事件を起こす直前に電話をしていた。

その電話は犯行を誰かにそそのかされているものだった。

つまり、捕まえるべき者はまだいる。


「捜査により実行犯の男のうしろに、犯行を促す誰かがいることがわかりました。そいつを捕まえない限り、事件は解決しません」


犯人がまだいると聞かされ、夫婦は驚き、そして悲しみに目を伏せた。


「私たちにどうしろって言うんですか」


犯人逮捕のためならば、とようやく協力する姿勢を見せてくれた二人に、桜庭はなるべく優しげな口調で話を進める。


「建さんのことを調べました。品行方正で性格も優しく、とても犯罪を犯す人には思えません。ですが、もしかしたら知らない間に犯罪の片棒を担がされていた可能性もあります。建さんの友人に思い当たる人はいませんか」

「息子の友人はみんな良い人ばかりです。中学や高校からの付き合いの人ばかりで……」


母親はふと、口をつぐむと目を泳がせた。

話の先を促すように目を合わせれば、話すべきかどうか迷っている様子が見て取れた。


「思い当たる人がいるんですね」


話してください、と目で訴えれば夫婦は顔を見合わせ、父親が静かに頷く。

母親はおそるおそるといった様子で口を開いた。


「息子の友人は全員知ってます。ですが、一人だけ…どうしても会わせられない人がいるって息子に言われているんです」

「会わせられない…。会ったことがないのに、その友人の存在は知っているんですね」

「息子は本当に良い子で…嘘や隠し事が出来ないんです。息子が隠し事をすればすぐにわかります。このことも、息子の様子が変だったので話しをたら打ち明けてくれました。でも、その友達との約束とかで会わせることも、どんな人なのかも教えられないって…」

「それは…怪しいですね」


身元を明かせない友人など、普通なら友達をやめろと言うものじゃないかと桜庭は思ったが、本当に仲の良い親子だったんだろう。

息子の言うことを信じて友達関係を続けることを許したのだ。

親子の仲の良さ、というか懐の深さを聞かされ桜庭は少しだけ呆れた。

幸いにも、桜庭が呆れていることに夫婦は気づかず、息子の無実を主張するだけだった。


「でも、息子は何もしてません。息子は被害者です。なんで、なんで建がこんな目に…」


そこまで言うと、母親は目から涙を溢れさせ、ぼろぼろと泣いた。

母親の様子に思わず、すみませんとこぼしそうになった桜庭を遮るように黙って話を聞いていた四十万屋が冷たい声で言った。


「息子さんの秘密の友人が誰か、わかりますか」

「わかりません」


夫婦は首を横に振り、目を伏せた。

母親はハンカチで顔を覆い、見ているほうが気の毒になるくらいの泣き崩れた。

桜庭は捜査のためとはいえ、やはり後味の悪い仕事だったと思い、さっさと退散しようと夫婦に頭を下げた。


「そうですか。ご協力感謝します。お取込み中のところ失礼しました」


一応、礼儀として形だけ遺体の前で軽く手を合わせる。

父親は息子に合掌する桜庭に会釈をし、遺体のほうを見ようともしない四十万屋を睨む。

空気を読めない相棒の行動を予想していた桜庭はさっさと四十万屋を連れて部屋から出て行こうとした。

だが、桜庭の後に四十万屋が付いてくる気配はない。

桜庭はどうしたのかと振り返れば、四十万屋は口を開いた。


「立花さん、本当のことを教えてください。息子さんの友人について、本当は誰なのか検討がついているのではありませんか」


無感動に言い放たれた言葉に父親は苛立ったように声を荒げた。


「嘘なんてついてません。私は本当に…」

「旦那さんはそうかもしれませんが、奥さんはどうですか。地方に出張ばかりの父親よりも、常に家にいる母親のほうが息子について詳しいのではありませんか」


父親の言葉を遮りいわれた言葉に、母親は肩を震わせる。

顔を覆っていたハンカチは握り締められ、四十万屋を伺うように見る瞳は、突然の言いがかりに困惑している…ようには見えなかった。はっきりとした驚きと秘密を言い当てられた恐怖の色が浮かんでいた。

その様子に気づいていないのか父親は、苛立ちの声をあげる。


「確かに私は出張で家にいないことが多いが、家族の間に秘密などない。わかったらさっさと帰ってくれ」

「息子さんの友人について知っていることがあるのではないですか」


形こそ問いかけるものだが、四十万屋はすでに真実を知っているかのように見えた。

母親は四十万屋の追及の目を逃れるように顔を背ける。

帰れ、と喚く声が聞こえないかのように平然として話を進める四十万屋に、父親の我慢の限界がきた。

いつまでたっても部屋から出て行こうとしない四十万屋に焦れ、無理やり部屋から追い出そうと四十万屋に掴みかかった。


「今すぐ出て行け!」

「すみません、すぐに帰りますんで。四十万屋警視長行きましょう」


突き飛ばしたり、乱暴をするようなら捜査妨害として逮捕することができてしまう。

どう考えても配慮にかける四十万屋に責任があるのに、この悲しみにくれる夫婦が被害を受けるのはかわいそうだ。

そう考えた桜庭は慌てて四十万屋と父親との間に割って入り、顔を伏せる母親をじっと見て動こうとしない四十万屋の腕を引っ張った。

けれど、四十万屋はその場を動こうとせず、追い打ちをかけるように言った。


「私はすでに全て知っています。ですが、私はあなたの口から聞くのが正しいと考えます。今が話す時なのではありませんか」


話さずにいて後悔しませんか、と四十万屋の声が響く。

しん、と静まりかえる部屋。父親はずっと黙ったままで何も言わない自分の妻を振り返った。

すると、そっと顔を上げた妻と目が合う。

一瞬見つめあったかと思えば、ごめんなさい、と謝罪の言葉を唇が描いた。


「…建には、血の繋がった兄がいると聞きました。養子として建を迎えるときに児童養護施設の人が口を滑らせたのを聞きました。歳が少し離れていて、しっかりとしたお兄さんだとか…。私たちが建を引き取った時、建はまだ小さかったので覚えてないだろうと思ってたんです。ある時…建が小学六年生の時、学校で家族について書いたことがあります。建は作文コンクールで賞をとって、その作品を私たちにも読ませてくれました。建には自分が養子だということは伝えてありました。でも、建は私たち夫婦のことを本当の父親、母親のように思っていると書いてくれて…嬉しくて、建は恥ずかしいって言ったんですが額に入れてリビングに飾りました。私たちの宝物です」


まるで昨日のことのように思い出せます、と母親は涙ながらに微笑んだ。そして、すぐに目を伏せると夫にも隠していた事実を明かした。


「…でも、実は建はもう一つ別に家族について書いていました。建の本当の兄についてです。建は施設で優しくしてくれた兄のこと、別れ際に兄が必ずまた会えると約束してくれたことを覚えていました。建は私たちには決して言いませんが、実の兄のことを忘れられずにいました」

「そんな話、俺には一度も…」

「ごめんなさい…。私も確信がなかったから、あなたに話せずにいたの」


どうやら、息子が兄のことを覚えていて、且つ再会することを望んでいたということを夫は知らなかったようだ。

呆然としている夫に申し訳なさそうに謝ると、立花建の母親は話を続けた。


「建が高校生になったばかりの頃だったでしょうか。ある日、建が興奮した様子で家に帰ってきたことがありました。何があったのか聞いても嬉しそうに笑うばかりで教えてくれませんでした。いつか話せる日がくるからそれまで待ってて、と」

「実の兄と再会した、ということですか」


そんな奇跡あるのか、と半ば疑問に思いながら桜庭が声を上げると、母親は小さく頷く。


「私は、直感でそう思いました。でも建だけの問題じゃなく、建のお兄さんのほうにも準備が必要だと思い、建から言い出すのを待ってたんです」


今だと建が大学四年生ですから、お兄さんはもう社会人のはずです。

養子であることを秘密にしているのなら、建や私たちの存在は慎重に進めなくてはいけない事ですから、と母親は静かに口にした。

話せる時がくるのをずっと待っていたのだ。

それなのに、もう話してくれる人はいない。

また、母親の目から涙が溢れた。

四十万屋は無言で母親を眺めていたと思えば、無感情な声で言った。


「昨日、息子さんはなぜあの場に居たのかご存知ですか」

「友人と…会ってくる、って」

「秘密の友人…兄とですね」


薄々気づいていたけれど、わからないふりをしようとしていたのだろう。

桜庭がはっきりと口にすれば母親は顔を歪めた。

立花建は実の兄と会う約束をして事件に巻き込まれたのだ。


「はい。それと昨日、家を出る前に…父さんが出張から帰ってきたら大切な話があるから、って…なのに」


私が無理矢理にでも実の兄の話を聞き出してれば、こんなことには…。

自分の責任かもしれないと、自分を責める母親。

涙を流して震える肩を、突然告げられた事実に困惑していた父親がそっと抱きしめた。

なんと声をかけるべきか桜庭は迷い、口を開いては何も思い浮かばず、口をつぐんだ。

そんな桜庭を尻目に四十万屋は微塵も気持ちがこもっていない声で言う。


「お悔やみ申し上げます」


それでは失礼させて頂きます。

お時間ありがとうございました、と言うととっとと部屋から出て行こうとする四十万屋。

あんまりな話の終わらせ方に桜庭は思わず目を見張った。

父親も同じ気持ちだったらしく、四十万屋の背中をぎっと睨みつける。

仕方なく、桜庭が代わりに夫婦に向かって深く頭を下げ、扉に手をかけ出て行こうとしている四十万屋の後を追った。

けれど、四十万屋が扉を開けようとした時、母親が縋るような声で言った。


「待ってください。…建の実の兄をみつけることは、出来ますか」


ちらりと背後を振り返ると、四十万屋は冷徹な声で言った。


「可能です。ですが、誰なのかお伝えすることは出来ません」

「どうして…」

「捜査上の機密情報だからです。それに、知ってどうするおつもりですか。あなた方と息子さんの実の兄を繋ぐ唯一の人物である方はもういらっしゃられないのですよ」


亡くなっているのですから、と言外に言い放たれた。

四十万屋の失礼極まりない物言いに母親は鋭く息を飲む。

そして、涙に濡れた瞳で四十万屋を強く睨みつけると、はっきりとした口調で言った。


「帰ってください」


本当に申し訳有りません。

ひとの心っていうものがこの人にはないんです。

いますぐ出て行きますと桜庭が急いで扉を開け、四十万屋に出て行くように促す。

謝罪の一つでも出来ないものか、と四十万屋の顔を睨んでるように見えないくらいにじっとりと凝視すれば、あからさまに形だけの謝罪がされた。


「失礼しました」


背後からようやくいなくなってくれる失礼な刑事に夫婦が息をつくのが聞こえる。

そう思われても仕方ない態度の数々だったので、桜庭は申し訳なさそうな顔で、もう一度頭を下げた。

そして、桜庭も部屋を後にしようとした時、部屋を出てすぐのところにいた四十万屋が振り返った。


「余談ですが、息子さんの葬儀はいつ行われる予定ですか」


まったく事件に関わりのない突然の問いに、夫婦は一瞬きょとんとした顔をした。

だが、すぐに険しい表情になったかと思えば、棘のある声で返した。


「あなたに何の関係があるんですか」

「いえ、なんでもありません」


教えるものか、という雰囲気に四十万屋はあっさり引き下がり、今度こそ遺体安置室を後にした。



もう一人、今日のうちに話しを聞く予定の被害者遺族のもとに車で向かわなくてはならない。

はじめて四十万屋を乗せた時も思ったが、四十万屋はお偉いさんらしく後部座席に座るのかと思えば、さっさと助手席に座りシートベルトを締め、早く乗れと言わんばかりの目で桜庭を見る。

桜庭が運転するのは構わないが、助手席に座るとは思っていなかったのでつくづく変わったお偉いさんが来たものだと少し呆れたのも記憶に新しい。

二度目の乗車では、もう驚くこともなく、二人して各々運転席と助手席にすんなり乗り込み、車を発進させた。


「いつの間に調べたんですか」


駐車場を出てすぐ、桜庭は口を開いた。

何について、など言う必要がないくらい四十万屋は桜庭が被害者について知らない多くのことを知っていた。事件が発生してすぐに調べ始めたにしても、知りすぎている。

桜庭の疑問に四十万屋は変わらぬ無表情で淡々と口にする。


「知っての通り、この事件は裏社会絡みの事件だ。一般人が大勢巻き込まれているが、その一般人の中に犯人の狙った人物がいるはずだ。その人物が、事件解決の糸口になる」


疑問に対する答えになっていない返答をされ、四十万屋が何を言いたのかわからず、桜庭は首を傾げたくなった。

実際、首を傾げずとも顔に思っていることが出ていたのか、四十万屋は冷たい声で言葉を付け足した。


「この程度のことは事前に調べておいて当然のことだ」


つまり、桜庭が知らなかった方がおかしいと言いたいようだった。

不勉強ですみません、と口では謝る一方、桜庭は早々にこの事件を解決し、四十万屋と二度と会いたくないと思った。


      ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


立花夫妻の聞き込みから、三、四日が経った。

たったこれだけの短い時間で、桜庭は四十万屋の嫌な面とそれほど嫌いじゃない面を多数見ることができた。嫌な面とはもちろん初回の聞き込みの時の遺族への接し方や明から様に桜庭を馬鹿にするような目であり、それほど嫌いじゃない面とは警視長のお偉いさんのくせに礼儀正しかったり、仕事をちゃんとする点だ。

聞き込みで協力してくれた桜庭の部下にも一々礼をし、今までの上官なら嫌う地味な仕事もちゃんと自分でこなしていた。

それに、なによりここ数日共に行動したおかげで案外良い人なのかもしれないという場面に幾度か出くわしてしまった。

例えば、立花建の友人宅に聞き込みに行った時のことだ。

立ち話もなんだからと家に招かれ、遠慮したのだがお茶をもらいながら話をしていた時、その友人の妹がどこを気に入ったのかわからないが四十万屋にひどく懐いた。

勝手に四十万屋の膝の上によじ登ったかと思えば、どこから取り出したのか自分のお菓子であろうボーロを一つ四十万屋に差し出した。

桜庭はもちろん、兄である立花建の友人は妹の突然の行動に慄く。

慌てて謝罪をしながら妹を四十万屋から引きはがそうとし、桜庭は四十万屋が万が一にも子供に手を上げないようにと、いつでも抑え込めるように身構えていた。

だが、二人の慌てる様をよそに、四十万屋は子供からボーロを受け取ると自らの口の中に放り込む。

そして、ありがとう、と礼を口にし優しく子供の頭を撫でた。

予想していなかった行動に桜庭と兄はぽかんと惚けた。

そんな二人を放って、子供に大切な話の途中だから向こうで遊んでくるようにと四十万屋は言いつけ、子供を抱き上げると床に降ろした。

子供は素直に隣の部屋に移っていった。一連の流れを見て、呆然としている二人に気づくと、四十万屋はさっきまでの優しげな表情はどこにいったのか、話の続きをよろしいでしょうか、と冷たく言い放つと話を再開させた。

家を後にし、別の友人のもとに車を走らせてる道中、桜庭はおそるおそる四十万屋に子供が好きなのか聞いてみた。

桜庭からの私的な問いに四十万屋は少し目を細め桜庭を横目に見たが、わざとらしくため息をつくと好きに解釈すると良い、と言い捨て目を閉じた。

冷酷無比だと思っていた男が随分と身近に感じられ、思わず桜庭は子供には外面が良いんですね、と溢した。言ってから、さすがに怒られるかもしれないとちらりと四十万屋を伺うと、じっとりとした目で桜庭を見て、ぼそりと君は出世しないだろう、と呟かれた。

事実、桜庭は上司に対する失言で昇進を逃したことがある。

けれど、なんとなく四十万屋の言葉は嫌味な感じがしなかった。

どちらかというと呆れている気がする。

そんなこんなで、初めて会った時はどうなることやらと思っていた相棒関係もどうにかうまくいっている。

今では軽口も叩けるくらいにもなった。

これは桜庭の物怖じのしなささと、四十万屋のお偉いさんにしては深い懐のおかげだろう。

そして、事件発生から五日、首謀者を捕まえることが叶った。

捕まえてみればなんてことはない、ただのヤクザの抗争だった。

普通と違うのは、ヤクザから違法な薬を買っていた男を鉄砲玉代わりに使ったという点だ。

事件を起こした男は薬を買う金が払えなくなり、金の代わりに言われた通りにすれば薬をやるとそそのかされたのだ。

薬のせいで正気を失っている男は精神科か、麻薬専門病棟がある刑務所いきだ。

どちらにせよまともに話を聞くことは難しい。

首謀者を聞き出すことは無理だと分かった上で、男に薬をやって事件を起こさせたのだ。

しかし、総力あげて捜査した甲斐があった。

実行犯の男の身元を隅々まで調べ、被害者のなかに一見カタギに見えて、カタギじゃない男がいることに気がついた。

そこからはあっさりすぎるくらい、簡単に事件は片付いた。

ただ一つを除いては…。


「犯人は捕まりましたけど…結局、立花建の兄貴は見つかってないんですよね」


事件は解決したので、最後に本部に戻って地味な書類仕事をすれば桜庭と四十万屋の一時的な相棒も終わる。そんな最後のドライブもどきを少しだけ名残おしいと思いながら、桜庭は車を運転していた。


「気になるのか」

「そりゃまあ、警察権力を行使して調べたのにデータが途中で消えてて分からず仕舞いじゃ誰だって気になりますよ。それに立花ご夫婦も自分の息子の兄貴が一体どんなやつだったのか分からないままでしょうし」


事件に関係があるかもしれないので、立花夫妻から話を聞いた後、桜庭はすぐに立花建の実の兄について調べた。

しかし、情報は途中でとぎれてしまっていた。

養子にもらわれた後に問題があり、たらい回しにされ、子供の行方が詳しくわからなくなるというのは残念ながらあることだった。

書類上、存在するはずの人間が所在地として記されている場所にいないのだ。

これでは探しようがなかった。

桜庭は粘って探し続けるつもりだったが、そんな矢先事件が解決したことを知らされた。

残念そうに言う桜庭に、四十万屋は特に気にした風でもなくあっさりと言う。


「事件に関係はなかった。これ以上探す必要はないだろう。そして、たとえデータが残っていて実の兄がわかったとしても捜査情報だ。民間人に漏らすわけにはいかないだろう」


もちろん、立花ご夫妻にも教えるわけにはいかない、とはっきりと言われ、桜庭は口淀んだ。


「教えるわけにはいかないですけど…少なくとも真っ当な人間だってわかれば、二人も満足するんじゃないかと思ったんですよ。可愛がっていた一人息子の兄貴が悪人だったら、なんだか報われないじゃないですか」

「…君は本当に出世しないな」


刑事にあるまじき私情を挟みまくった言葉に、四十万屋は心底呆れた様子で言った。


「ありがたいお言葉痛み入ります」


ここ数日で何度か四十万屋に言われていることなので、桜庭は笑いながら受け流した。

警視長と警部が交わすとは思えない軽口を言い合いながら、車は本部へと向かう。

あともう少しで本部に着くと思われた時だった。

四十万屋の携帯が鳴った。携帯を取り出し、画面を確認すると四十万屋は少し考えているようだった。

どうやら知らない番号のようだ。

出ないんですか、と桜庭が言おうかと思えば、四十万屋は携帯を耳に当てた。


「はい、どちらさまですか」


相手が誰だかわかり、四十万屋はわずかに顔色を変えたように見えた。

そして、相手の話を聞いて、四十万屋にしては珍しく歯切れの悪い返事をしている。

なにやら「事件は解決した」だの「そのことについては話せない」だの言っている。

電話相手が誰なのか気にならないといえば嘘になるが、話を盗み聞きする趣味はないので、桜庭は運転に集中することにした。

しばらく先の信号で止まった時、ようやく話が終わる気配を見せた。


「……わかりました。これから向かいます」

「目的地変更ですか」


本部に戻る道を進んでいた桜庭は、ナビを起動させ四十万屋に聞いた。

だが、四十万屋は携帯をしまいながら否定の言葉を口にする。


「いや、私だけで行く。適当なところで降ろしてくれ」

「捜査は二人一組って原則でしょう。降ろせませんよ」

「事件とは関係ない」

「嘘ですね。さっき事件がどうのって言ってるのが聞こえましたよ」


「盗み聞きとはいい趣味をしているな」

「聞こうとしなくても聞こえちゃったんですよ」


俺に罪はありません、と笑って言えば、四十万屋はどう桜庭を煙にまこうか考えているようだった。

そして、手っ取り早く権力に訴えてきた。


「上官命令だ」

「パワハラで訴えます。というか、そもそも捜査に関係ないこと仕事中にしちゃダメでしょうよ。俺も一緒に連れて行ってくれるなら報告したりしませんけど?」


わざとらしく、にこにこと微笑みを浮かべて言ってやれば、四十万屋は小さくため息をつき、降参した。


「…わかった。園原葬儀場に行ってくれ」

「葬儀場…立花建の葬儀に行くんですか」


立花夫妻との別れ際、葬儀の日取りについて四十万屋が関心を示していたことを思い出した。


「そうだ。母親がどうしても来て欲しいらしい」

「なんでまた突然。聞き込みの時じゃ二度と顔見せるなってくらい険悪だったのに」

「私が知りたいくらいだ」


まさか遺族に対する態度がないってクレームじゃないですか、と少し嫌味を含め言ってみれば、前を向いて運転しろっと素気無く返されてしまった。

大人しく、黙って目的地へと車を進め、葬儀場の近くまで来たところで桜庭は車を止めた。

葬儀場には駐車場があるので、途中で車を止める必要はない。

四十万屋は意図をうかがうように桜庭の顔を見るが、桜庭は車のエンジンを切ると鍵を抜き取り、外に出た。

おい、と声をかける四十万屋に桜庭は振り返ると、財布を見せて言う。


「お葬式に手ぶらで行くわけには行かないでしょう」



ありがとうございまーす、という店員の声を背中に受けながら二人はコンビニを出る。


「コンビニってなんでも売っててすごいですね。香典袋に数珠、黒ネクタイも買える」


葬儀場の近くだからネクタイも売ってんのかな、と呟く桜庭に四十万屋は呆れたように口を開く。


「葬儀にまで付いて来る気か」

「乗りかかった船です。それにあの夫婦がちょっと気になって」


歩きながら器用にネクタイを外し、喪服用のネクタイを締める桜庭。

血こそ繋がっていないが、幼いころから我が子同然に育てていた一人息子を亡くした喪失感は計り知れない。親よりも先に死ぬのは子供として最大の親不孝だとよくいうが、それだけ遺された親の悲しみは深い。

聞き込みの時は気丈にも話しをちゃんとしてくれたが、息子を亡くした直後に話しが出来る夫婦は稀だ。

あの時、四十万屋を止められず、悲しさや怒りを抱かせてしまったのではないかと桜庭はずっと気にしていた。

桜庭のそんな気持ちがわかったのか、四十万屋は桜庭を見る目を細めると呆れたように、そして少しだけ眩しそうにもらした。


「君は、刑事には向かないな」


四十万屋の言葉に桜庭は苦笑いしてみせる。

私情を捨てきれないのは桜庭自身が一番よくわかっていた。

香典袋に気持ちだけの金を入れ、二人は葬儀場に足を踏み入れた。

受付で名前を書き、一礼とともに香典袋を渡す。名前を書く欄にはすでに多くの人の名で埋め尽くされ、香典袋を入れる盆も溢れている。

二人の他にも大勢の人が訪れているようだった。

さっさと用を済ませて帰ろうと思っているのか、四十万屋はきょろきょろと辺りを見回す桜庭を置いて行ってしまう。

慌てて四十万屋のあとについていき、桜庭は感心したように言う。


「本当に良い人だったみたいですね。こんなに人が来てるとは思いませんでした。…あ、テレビカメラだ」


大々的に放送されるほどの事件だったから参列者が多い、というにはいささか多すぎるくらいの人が来ている。

物見遊山で来ている人がいないとは言えないだろうが、見ている限りみんな立花建の死を本当に悲しみ悼んで

いるように思えた。



葬儀場の出入り口の近くにテレビカメラがあることに気がつき、桜庭は少し眉をひそめる。

人の死すらも視聴率にかえようとするメディアの動きにはあまりいい気がしないものだった。


「あんな事件だ。メディアの餌になっても仕方ないだろう。…遺族からしたら迷惑なことこの上ないだろうが」


遺族を思いやるようなことを言う四十万屋に桜庭は思わず目を見張った。

その遺族に対して散々失礼なことを言ったのはどこのどなたですか、と思わず言ってしまいそうになったが、今やっていることが捜査と関係がないからこそいえる言葉なのかもしれない、と横槍をいれるのはやめておいた。

葬儀場の奥へと進めば、ようやく入り口が見えてきた。

大きな立花建の写真と花々、そして棺。

中に入ろうとした桜庭は四十万屋が中に入る気がないのか、突っ立っていることに気づき振り返った。


「参列しないんですか」

「話をしに来ただけだ」


てっきり、お焼香をあげるものだと思っていたが、四十万屋はそこまでする気はないようで、参列者の列から外れてしまった。

桜庭は迷ったが、立花夫婦に到着を伝えるのも兼ねてお焼香をあげることにした。

列は少しずつ進み、桜庭の番になる。

遺族の席に頭を下げれば、立花夫婦と目があった。

四十万屋を呼んだはずなのに、桜庭までいるとは思っていなかった立花夫婦は驚いた様子だったが、これで四十万屋が到着していることが伝わっただろう。

無事焼香をあげ、外に出れば、四十万屋が携帯を眺めていた。

無言で桜庭が隣に立っても何も言わず、ただ二人で葬儀が終わるのを待つ。

朝からやっていただろう葬儀は昼過ぎには終わりを迎えた。

身内や特に親しかった者以外は帰路につき、テレビカメラも帰って行った。

この後、出棺して葬式は本当の意味で終わるだろう。

ふと、ざりざりと砂利を踏みしめる音が聞こえ、顔を上げた。立花建の父親が急ぎ足でこちらに来ていた。


「お悔やみ申し上げます」

「桜庭さん…と言いましたか。あなたまで来てくださるとは思ってませんでした。息子の葬儀に参列してくださりありがとうございます」

「いえ、自分が勝手についてきたんです。その…あれ以来、大丈夫ですか」


あれ以来、とは聞き込みで四十万屋の心中お察ししない物言いだ。

それに、失礼な発言の数々も気になるが、それよりも息子をなくして自暴自棄になどなっていないかが桜庭は不安だった。

失礼を働いた上司を横に言うことではなかったかもしれないが、桜庭は言わずにはいられなかった。心配そうに言う桜庭に父親は目を細めた。


「警察の方はみんな冷たい人だと思ってましたが、桜庭さんみたいな人もいるんですね」

「自分は例外中の例外です。そのおかげで出世も出来ません」


自虐的に笑う桜庭につられ、父親も笑みを浮かべた。


「お気遣いありがとうございます。大丈夫、とは言えませんが、息子が私たちに遺してくれたものはたくさんあります。これから二人で頑張っていこうと、前向きに考えられるようになりました」

「お強いですね…」

「私は全然…家内が言ったんです。しゃんとしないと、建に顔向けできないって」

「母は強しってやつですね」

「えぇ。…ところで、建の実の兄が誰かわかりましたか」


うかがうような目でこちらを見やり、無意識に声を落として尋ねてきた。

あぁ…と桜庭は声をもらし、言いにくそうに口を開く。


「わかっても誰なのか言うことはできないんです」


すみません、と頭を下げる桜庭に父親は慌てて、頭を上げるよう肩に手を置いた。

労わりの手が余計桜庭の良心をチクチクと刺した。


「いえ、無理を言ってすみませんでした」

「あ、いや違うんです。実は結局誰なのかわからなく──」

「それで、私を呼んだ理由はなんでしょうか」


申し訳なさそうに謝る父親に、思わず言わなくてもいいことを言いそうになる桜庭を制して四十万屋は口を開いた。


「いや、実は私は知らないんです。家内があなたを呼んだことは後から聞きまして…もし私が知っていれば…」


お前なんか呼ぶものか、という目で四十万屋を睨みつける。聞き込みの時の態度を見ればそう思われても仕方がないだろう。

むしろ母親の方がそう強く思っていそうなものだ。

なぜ、母親は四十万屋を呼んだのか。

そう桜庭が疑問に思っていれば、ちょうど母親が現れた。


「お呼びだてしたにもかかわらず、お待たせしてしまい申し訳ありませんでした」

「いえ。それで、なぜ私を呼ばれたのでしょうか」

「ニュースを見ました。犯人、捕まえられたんですね」

「はい。お二人にはご協力感謝します。そして、息子さんにはご冥福をお祈りします」

「…息子は、建はお兄さんのせいで殺されたんですか」

「いえ、テレビでも言っていた通り、あれはヤクザの抗争の一部です。構成員の一人が売っていた麻薬を使用して暴走し──」

「でも、現場に警察官官僚がいれば話は別ですよね」


四十万屋の声を遮って母親は固い声で言った。

その目はしっかりと四十万屋を見据え、まるで目で射殺そうとしているかのように見えた。

警察官官僚…四十万屋が現場に居た、と母親は言いたいのだ。

桜庭は混乱で思考を停止しそうになる頭をなんとな使って、言葉を振り絞った。


「それは…どういうことですか」

「建の持ち物に手紙があったんです」


ポケットから取り出された手紙は二通。どちらも同じ便箋で、どこにでもある茶封筒だ。


「手紙は二通ありました。表に何も書いてなかったので、建が大切な話があるときに自分用に使うメモだとすぐにわかりました。出て行く時に、話があるとも言ってましたので…」

「おい、そんな話聞いてないぞ」

「ごめんなさい…。でも、あなたに言ったら…あなた、警察に殴り込みに行くんじゃないかと思って…」

「どういうことだ、なにが書いてあったんだ」


少なくとも手紙の内容は父親が警察に文句を言いに来るものである、ということだけはわかった。

桜庭は何がその手紙に書いてあるのか気になると同時に、その手紙に四十万屋が関係しているのかと思うと、手紙の内容を知りたいような、知りたくないような複雑な気持ちに駆られた。

だが、桜庭の気持ちを虚しく話は先に進んで行く。

思わず隣に立つ四十万屋を盗み見るが、相変わらずの無表情だった。


「一通は私たち夫婦宛でした。建はメモを読みながら私たちに向けて話す気だったから、手紙は話し口調で書かれてました。…まるで建がまだ生きてて、私たちに向かって話しかけてるかのように思えました」


大事そうに手紙を握って、母親は目に涙を浮かべた。

だが、前とは違いその涙を流すことはせず、ぐっと飲み込み話を続ける。


「手紙には、ずっと秘密にしていた友達のこと…実の兄について打ち明けたいという内容でした。名前は書かれていませんでした。きっとお兄さんを連れて話をするつもりだったからだと思います。建はあの日、お兄さんに会って、お兄さんを両親に紹介したいとお願いするつもりだったんです。…もう一通の手紙に、お兄さん宛の手紙にそう書いてありました」


実の兄への手紙には、両親に紹介させて欲しいとあり、両親宛の手紙にはなぜ今まで秘密にしていたのかと、それに対する謝罪が書いてあったのだ。

桜庭は突然すぎる新たな事実に思わず声が震えそうになった。


「その手紙に、実の兄が誰なのか書いてあったんですか」

「そうだ。警察でもわからなかったことが、その手紙でわかるかもしれない。どうなんだ、美恵子」


実の兄の行方はわからなかった。

それは警察の力をもってしても明かせなかった。

だが、立花建の遺した手紙により、実の兄が誰なのかわかるかもしれない。

父親は食い入るように妻の名前を呼んだ。

だが、母親は首を横に振ると目を伏せた。


「さっきも言いましたけど、建は本人を前にして読むつもりで書いてました。だから、その人についてわざわざ詳しくは書いてありませんでした。…でも、なんで私たち両親に兄について話せなかったのかと、お兄さんに向けて、両親にお兄さんのことを話したいと説得の言葉が書いてありました。だから私はなんとなくお兄さんが誰で、どんな人なのかわかりました」

「それで、我々警察にご協力くださるということでよろしいのでしょうか」


立花建の兄が誰だか見当がついたと言う母親に、四十万屋は冷たい声でそう言うと、先を促した。

しかし、母親は四十万屋の目を見据えると、毅然とした態度で言った。


「私は今日、四十万屋さんを警察の方と思って、建の葬儀にお呼びしてません。建の実のお兄さんとしてお呼びしてるつもりです」


桜庭も父親も息を飲んだ。

そんなわけない、と言おうと開いた口は何も音を発せず、父親のほうも桜庭とまったく同じような姿になっていた。

何か言おうと口を開いては閉じ、開いては閉じ、結局何も言えず、ただ目を見張り、黙ってことの成り行きを見守るしかなかった。

話の張本人である四十万屋は、この状況でも相変わらずの無表情で、じっと四十万屋の目を見据える母親を見返すとゆっくりと口を開いた。


「申し訳ありませんが、それは勘違いです」


あっさりと自分は実の兄ではないと言い切った四十万屋。

だが、母親は食ってかかるわけでもなく、冷静に四十万屋の言葉を否定する。


「いいえ、勘違いなんかじゃありません。手紙にはこうあります」


かさり、と小さく音を立てて手紙が開かれる。

実の兄へ向けられた立花建の言葉が読み上げられた。


「『兄貴が警察官の偉い人なのはわかってるし、養子だってバレたら色々面倒なことになるっていうのもわかってる。でも、父さんや母さんに兄貴のことを知って欲しいんだ。もちろん二人には今まで育ててもらった恩があるし、本当の両親だとずっとずっと思ってる。でも、兄貴も俺の家族であることに変わりはないんだ。戸籍上はそうじゃなくても、兄貴は生まれた時から俺の兄貴で、俺の家族だ。大切な兄貴を、大切な両親に紹介したいんだよ。俺の兄貴は優しくて、すごい人なんだよ、って。だから、頼むよ。』」

「それだけで、私が立花建の実の兄だと思われたのですか」


涙声で読み上げられた立花建の手紙。

母親につられたのか、父親も涙ぐむなか、四十万屋の冷たい問いが響いた。

しかし、四十万屋の言いたいことも桜庭には理解できた。

確かに警察官で、そして位の高い人間が立花建の実の兄かもしれないが、これではあまりにも漠然としすぎている。


「さすがにそれだけじゃ四十万屋警視長が実の兄だとは──」

「質実剛健。あなたはこの言葉を自身のスローガンとして掲げられてますね。あなたのことを調べたら、過去の講演で度々出てきた言葉です」

「それがなにか」


桜庭を遮って言われたことは、身に覚えのあることだった。

四十万屋は仕事の一環として学校で講演などをする。

確かに、質実剛健は四十万屋が何度か口にした言葉である。


「建の好きな言葉もそれでした。小さい頃から好きな言葉は質実剛健。小学校の時からですよ。子供が好きだというにはあまりにも固い言葉だったので、どうして好きなのか聞きました。そしたら、合言葉なんだって」

「合言葉…」

「その時は意味がわかりませんでした。でも、今なら…。きっと建とお兄さんの生みの親がつけた名前の由来なんだと思います。質実剛健。飾らずに、まっすぐに真面目に…。そんな風に生きて欲しいって母親がつけた名前なんです」


言葉遊びのようにも思われるかもしれないが、母親が兄弟の名前に意味を持たせるのは別に珍しいことではない。

季節の言葉や漢語にしたり、四字熟語にしたり。

桜庭は四十万屋の下の名前を思い浮かべ、無意識につぶやいていた。


「剛健…。四十万屋剛と立花建…二人の名前を合わせれば、剛健になる」


母親もそれで四十万屋が実の兄だと確信を持ったのだろう。

桜庭のつぶやきに背中を押されるように四十万屋に強く言葉を投げかけた。


「あの日、建が会う予定だったのはあなたなんですね。建の兄は、あなたなんですね」


だが、四十万屋は呆れたように小さくため息をつくと、目を伏せ否定した。


「申し訳ありませんが、それは全て憶測に過ぎないことです。そして私はあなたの思い描いている人物ではありません。…失礼します」


もう用はないと四十万屋は出て行こうとする。

その四十万屋の腕にすがりつき、母親は強く言った。


「待ってください。建の兄じゃないと、建は弟じゃないと、私の目を見て言ってください。建の前で、言ってください!」


実の弟を前に、お前は弟じゃないと言え。

実の兄じゃないのなら、言えるだろう。

そう言ってもらえないと、信じられない。

すがりつく腕の強さと涙で揺れる瞳がそう物語っていた。

四十万屋は母親の剣幕にわずかに目を見開くと、諦めたように小さく言った。


「…わかりました」


相変わらずの無表情で、四十万屋は立花建の棺がある部屋に向かった。

その後に、今にも涙がこぼれそうな母親と呆然とした面持ちの父親、複雑な気持ちの桜庭が続く。

真っ白な礼服を着て、死化粧を施された立花建。

まだ若く、本当にただ寝ているだけなんじゃないだろうかと錯覚してしまうほど、その表情は穏やかだった。四十万屋はゆっくりと棺の近くに寄り、立花建の顔を見る。


「言ってください。私に向かって……建に向かって、弟じゃない、と」


母親の声がしん、と静まり返った部屋に響いた。

四十万屋は目覚めることのない眠りについている立花建をじっと見つめ、ゆっくりと目を閉じると口を開いた。


「言えません」


それは自分が立花建の実の兄であると認めたも同然だった。

棺の前で目を瞑り、立ち尽くす四十万屋。

その横顔は警視長、四十万屋剛ではなく、立花建の実の兄、四十万屋剛だった。

四十万屋に涙を流し、震える声で母親が声をかける。


「建の…お兄さんなの…?」


ぼろぼろと涙を流し、問いかける声に四十万屋は目を開けると、母親に向き直りはっきりと言った。


「はい」

「どうして、どうして今まで…」


黙っていたの。声にならない声に、四十万屋は力なく真実を話し始めた。


「あなたが最初に私に聞いたように、私も事件を知った時、建は私のせいで殺されたのではないかと考えました。詳細は話せませんが、ヤクザ同士の抗争に警察の手が加わっているのではないかという情報があり、私はその件についての一切を取り仕切っていました。結果、内部を粛清し、あるヤクザの組に大損失を与えることになりました」

「じゃあ、建は…お前のせいで…」


警視長の極秘事項を耳にしてしまい呆然としていた桜庭だったが、このままでは立花ご夫妻が息子の死を四十万屋のせいだと勘違いすると気づき、慌てて口を挟んだ。


「それは違います。今回の事件はまったく別の組の起こしたものです。四十万屋警視長直々の采配で、優秀な警察官が総力あげて調べました。四十万屋警視長に恨みを抱いてるヤクザ組は関係ありませんでした」


四十万屋が担当していたという汚職事件について詳しいことは知らないが、最近勢力を削がれたというヤクザについては桜庭も耳にしていた。なので、その組と今回の事件とがまったく関係がないことは、はっきりと言うことができた。


「桜庭警部の言った通り、今回の事件と私に恨みを持つ者とは関係ありませんでした。そもそも、この事件の指揮を私が執り、私自ら現場にいるのは建の濡れ衣を晴らすためです」

「建の濡れ衣…」

「はじめに、私が質問したことを覚えていますか。建には薬物密売の容疑がかけられていました。建の事件前の足取りがつかめないこと、会う予定だった人物の詳細がわからないことや今回の事件の実行犯が薬物中毒者だったこともあり、建には犯人が事件を起こす動機があったのではないかと警察の中で疑われていました」

「そんな…証拠もないのに」


息子に犯罪の容疑がかけられているとは知っていたが、そこまで疑われているとは思っておらず、夫婦はショックを受けているようだった。四十万屋は申し訳なさそうに頭を目を伏せた。


「あらゆる可能性を考えるのが我々の仕事です。…ですが、会う予定だった人物が私自身ですので、私には建の無実がわかっていました。しかし、無実である証拠を提出することは私には出来ません。なので私自ら、建が売人だと間違われることのないように現場に赴いたわけです」


だから本来なら現場で聞き込みなどしない立場の四十万屋が桜庭と組んで捜査をしていたのだ。

桜庭はようやく、今まで疑問に思っていたことがわかり、知らないうちにほっと息をついていた。

父親は息子が本格的に疑われていることを今更ながらに知り、恐る恐ると言ったように尋ねた。


「建が売人だなんて、警察は本気で思っているわけじゃないんでしょう?」

「確証はないので、なんとも出来ない…という感じですかね。でも、建さんの経歴に傷がつくことは絶対にありません」


公にされることはないが警察の中で立花建に対する疑いはいまだにある。

それがなくなるのはいつになるかはわからない。

一警察官として容疑を晴らせず申し訳なく思い、桜庭は沈む声で言った。


「それで十分です。私たち夫婦と実のお兄さん、それに優しい刑事さんがわかってくれてたら、それで十分ですよ」


優しく微笑む奥さんの笑顔に、桜庭はそれ以上何も言えなかった。

これで立花建の死は四十万屋のせいではないとわかり、一件落着、と思った矢先、四十万屋が瞳を伏せ、口を開いた。


「…建は命を狙われたわけではないですが…建の死は私の責任とも言えます」


突然の告白に桜庭はもちろん、夫婦も目を見開き、息を飲んだ。母親が震える声で尋ねる。


「どうして、そう思うんですか」

「ご存知でしょうが、あの日建は私と会う予定でした。ですが、私は予定の時間に遅れて…本当なら建はあの場にいなかったかもしれません。私のせいで…」


建は死んでしまったのかもしれない、と自分を責める四十万屋に母親は涙を拭いながら声をかけた。


「そんなの、あなたのせいじゃない。あなたと時間通りに会ってたとしても、建はあの事件に巻き込まれたかもしれない、もしかしたらあなたも一緒に事件にあってたかもしれない。そんなこと、誰にもわからないし、誰のせいでもないの」


だから、自分を責めないで。

涙ながらにそう微笑みかけられ、四十万屋はぐっと言葉に詰まった。

そんな四十万屋に奥さんはずっと聞きたくてたまらなかったという様子で尋ねた。


「ねぇ、建が弟だって、どうしてわかったの」

「一目見ればわかります。弟ですから」


そう言って目を細める四十万屋の姿は兄であることを誇りに思っているようだった。

昔を思い出し、微笑むと夫婦を見つめ話し始めた。


「建と初めて会ったのは建の高校の入学式でした。あの日、建が迷子になったことを覚えていますか」

「あぁ、確かに…あの日、建は少し目を離した隙にどこかに行ってしまって、式がはじまるぎりぎりに学校に着いたんだ」


いきなり、高校の入学式の話をされ、戸惑いながらも父親は昔を思い出した。

母親もそうそう、と楽しそうに笑う。

夫婦が覚えていることに四十万屋は安心したように微笑うと、夫婦の知らない真実を話した。


「建はその時、迷子の女の子を交番に送ってたんです。新しい学校に通うから自分だって道がわかってないのに…。それで、交番で学校までの道を聞けばいいのに慌ててたらしく、右も左ももわからないくせに走り出して…結局、自分も迷子に」


当時のことを思い出し、四十万屋はおかしそうに笑った。

そして、初めて弟と再会した時の気持ちを胸に目を輝かせた。


「そんな建と偶然出会ったのは本当に奇跡としか言えません。少し大きめのサイズの新しい制服を着た男の子が、携帯片手にうろうろしてました。すぐに入学式に行こうとして道に迷ったんだとわかりました。声をかけて、携帯に表示されている地図を見て、行き方を教えました。それまでろくに顔も見てませんでしたが、最後にお礼を言いお辞儀をしたその男の子の顔を見た瞬間わかりました。弟だ、って」

「建さんのほうも気づいたんですか」

「そうらしい。でも、お互い、本当に相手が兄弟かわからなかったし、その時は建が急いでたから何もせずに別れたんだ。その時は弟に会えたことで俺も呆然としてたから…そのあと建と連絡を取る方法や、もう一度会うための方法を考えてなくて、別れてから慌てた」


四十万屋は少し恥ずかしそうに桜庭に言った。


「どうやってその後、建と会ったんですか」

「建が着てた制服から学校を割り出しました。もちろん自力で、ですよ。警察権力は使ってません。それからは、不審者に間違われないようにいかに自然に下校中の生徒を見張るか頭を悩ませました」

「完全にストーカーですよ、それ」


犯罪一歩手前の行為に桜庭が呆れながら言いうと、四十万屋も苦笑いした。


「俺もそう思った。だから、二、三日張って無理だったら別の方法を取ろうと思ってた。けど、張り込み一日目に建が俺に気づいて声をかけてきたんだ」


その時のことを思い出したのか、四十万屋はふっと目を細めた。

その様子を見て、母親は楽しそうに言う。


「質実剛健、って言ったんじゃないですか」

「そうです。見ず知らず…って言っても一回会ってるんですけど、俺が兄貴じゃなかったらどう言い訳するつもりだったのか…。建は俺たちの間で合言葉にしてあった、名前の由来でもある質実剛健。質実剛健! って声をかけてきたんです」

「大胆ですね、建さん」


事情を知らない人から見たら異様な光景だ。

思い浮かべてみて、その異様さがよりわかり桜庭は思わず笑ってしまった。


「でも、そのおかげで、本当なら必要だった探り合いはなくなった。お互いの名前を言えば済むことだから。それからは連絡先を交換して…。あぁ、ちなみにですが、私のほうはプライベートな携帯での連絡先の交換だったので、建の携帯から私の携帯は調べ出せないように細工がしてあるんです」


四十万屋の言葉に桜庭は、だから秘密の友人に関する捜査が難航していたのか…と納得した。

それと同時に、自分がその秘密の友人にもかかわらず、自分を見つけ出すための捜査の指揮を素知らぬ顔で執っていた四十万屋のポーカーフェイスぶりに呆れた。

桜庭の思っていることがわかったのだろう、四十万屋は苦笑した。


「俺を必死に探している部下には悪いと思ったが、これも仕事のうちだ。そもそも、君が今耳にしている情報は全て極秘だということを忘れるなよ」

「あぁ…了解です。俺は何も聞いてません」


四十万屋警視長が養子だったという情報は確かに警察の世界では不利になるだろう。

ただでさえ、親の七光りだとか、実子だからうんぬんという難癖をつけられている四十万屋だ。

これ以上他の腐った警察官僚どもに与えてやる餌はないだろう。

桜庭は極秘情報を耳にしながら、その極秘情報以上に四十万屋の本当の人柄が知れてよかったと心の中でそっと思った。

四十万屋と桜庭のやりとりを見ていた母親はおもむろに四十万屋に声をかけた。


「四十万屋さん、あなたしか知らない建のお話もっと聞かせてもらってもいいかしら」

「もちろんです。会って話をしたり、どこかに行ったのは決して多くないですが…。お二人の話も建からたくさん聞きました」

「私たちのことを…」

「本当に良い両親だと、自分は良い人に引き取ってもらった、と」

「そんなこと、建が…」


夫婦はもう出し切ったと思っていた涙を目に浮かべ、わずかに笑った。

息子の棺に手を添え、知らなかった息子の話を聞いた二人は、もう二度と二人に笑いかけることのない息子の姿にどうしても涙するしかなかった。

四十万屋は、そんな二人を前に姿勢を正すと声に喜びとも悲しみとも言えない思いを滲ませながら言った。


「こんな形になってしまい本当に残念ですが、言わせてください。建を…弟を、愛してくれて本当にありがとうございます」


深々と下げられた頭に、夫婦は驚いたように目を見開いた。

そして、母親は目からぼろぼろと涙を流しながら、頭を下げる四十万屋の肩に手を置き、顔を上げさせる。


「こちらこそ、建のお兄さんがこんなに立派な人で本当に良かった。建の自慢のお兄さんでいてくれて、ありがとう」


建の兄でいてくれてありがとう。

その言葉は、警察官である自分のせいで弟が死んだのではないかと思い、自分を責め続けていた四十万屋には胸にくる言葉だった。

四十万屋の目に、薄く涙の膜が張るのが見えた。

だが、四十万屋はゆっくりと目を閉じると、泣き笑いのような笑顔を見せた。

本当の意味で今、ようやく事件が解決した。そう桜庭は思った。



話は唐突に、立花家の誰かが立花夫婦を呼びくる形で終わった。

夫婦はまだ四十万屋に聞きたいことがあるようだったが、四十万屋が後日また伺うと言えば、会釈して場を後にした。

四十万屋と桜庭はだいぶ遅くなったが、本部に戻ることにし、車に向かった。

だが、駐車場に着いた時、後ろから四十万屋の名を呼ぶ声が聞こえた。


「四十万屋さん」


立花建の父親だった。

父親は、急いで来たらしく息を乱しながら、話した。


「建の棺に花を入れてやってくれないか。もう身内であらかた入れたんだが、今ちょっとだけ時間をもらって私たち夫婦だけにしてもらっているんだ。家内が是非、あんたに花を入れて欲しいって」

「いえ、私は…この場にいさせてもらえるだけで十分です」

「頼むよ。それから出棺も見送ってくれ。私も家内も、あんたにいて欲しいんだ」


実の兄が見送らないなんて寂しいじゃないか、と言われ四十万屋は渋々といった様子で承諾した。


「…わかりました。桜庭警部、先に帰っててくれ」

「ここまできて今更帰れはないでしょう。外で待ってますよ」


捜査は二人一組、と言い残し桜庭は葬儀場の入り口へと行ってしまった。


葬儀場に立ち入れば、立花建の母親だけがいた。

棺に寄り添い、愛おしそうに息子の頬に手を添える。

靴音が響き、顔をあげ、四十万屋の姿を見るとほっとしたように笑い、一輪の花を手渡す。


「四十万屋さん、来てくれて良かった。…思えば、ちゃんとしたお別れの時間、あなたにはなかったものね。建の顔だって、今日初めてちゃんと見れたでしょ」


遺体安置室では四十万屋が来た時には顔に布がされていて、桜庭と違い焼香もあげていない四十万屋は、先ほど母親に建の顔を見てと言われるまで、立花建を見ることも出来ていなかった。


「私たちは外にいるから、終わったら声をかけてくれ」


愛おしそうに、名残惜しそうに棺から離れた妻の肩を抱き、夫婦は葬儀場を後にした。



残された四十万屋はしばらくの間、ただ黙って弟を見つめていた。

そして、おもむろに手渡された花をもて余すよう持ち直し、意を決したように口を開いた。


「本当に、良い人のところに来たな。俺もちゃんとした人に引き取ってもらえたけど、こんなにあたたかくなかったよ」


そこまで言い、さらに何か言おうと口を開くが、何も言葉が出てこない。

息だけが吐き出されるばかりで、声にならない。

四十万屋は自虐的に笑うと目を瞑った。


「…おかしいな。建に言いたい事をいっぱいあったのに、いざ言おうとすると言葉に出来ない。俺も建みたいに口下手になったのかな」


ふと、俺みたいにカンペ用の手紙を書けばいいんだよ、と建の声が聞こえるような気がした。

その手紙のせいで…おかげで四十万屋が実の兄だとわかってしまった。

四十万屋はおかしそうに笑うと、建に向かって言う。


「そもそも、あの手紙おかしいだろ。なんであの日俺に会って、紹介することを、俺が了承するの前提にご両親に手紙書いてるんだよ」


だって、兄貴はきっといいよって言ってくれると思ってさ。

建ならこう言うだろう、なんてそんな憶測じゃなく、本当に建が話しているかのような気分になる。

四十万屋はどこからともなく聞こえる気がする声に向かって呆れたように、そして愛おしそうに笑った。


「…そうだな。たぶん建の思惑通り、俺が根負けして、あの二人に会ってただろうな。だとしても、勝手に日取りを決めるなよ。あれじゃあ、俺は翌日には建の両親と会うことになってただろ。俺の心の準備も計算に入れとけ」


兄貴なら大丈夫だって、だって俺の自慢の兄貴だから。


「自慢の兄貴か…。俺の立場上、自慢なんて誰にもさせてやれなかったのに、建はいつもそう言ってたよな」


警察官僚だから色々ある。

そう言って誰にも明かせなかった実の兄。

秘密にすることは建にとって辛いことだとわかっていたけれど、弟の気持ちよりも自分の立場をとってしまった。

仕事だから仕方ないとわかってはいても、やはり自分が許せなかった。

後悔ばかりがこみ上げる。


「俺も建みたいに言っとけば良かったな…自慢の弟だって…」


目頭があつくなり、思わずこぼれそうになる涙に気づいているが、あえて拭うことはしなかった。

閉じていた目を開き、ねむっている建に向かい合い、微笑みかける。


「建と再会して、兄弟でいられた時間なんて短かったはずなのに、建と会って、話をしたりした時間のほうが、ずっと多い気がする」


色とりどりの花に囲まれた弟。

冷たくなった弟の、組まれた手に触れ、少しでも自分の体温が残るよう何度も撫でる。

そして、そっと手の上に花を置き、目を閉じた。


「…もう建の声が聞けないのかと思うと──」



寂しいよ




花の上にあたたかい雨が、少しの間だけ降り注いだ。

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