ドアベル
この男は、まさに俺の神様だった。
俺には、忘れられない奴がいる。いつでも人のために身を投げ出すような、バカな奴だ。あいつが俺の前に現れてから、俺は少しだけ、世界が広く見えるようになった。
夢が叶う国、アメリカ。輝かしい未来を夢見る者が集まる場所。ハリウッドやニューヨークのような、華やかな街で活躍し、有名になり、大金持ちになる。誰だって夢見るだろう。だって、ここはアメリカなのだ。
不思議な巡り合わせもあるもんだ。
耳の中には、ざらりとした感触のドアベルの音が、しつこく耳にこびりついていた。
店の主人らしい男は、カウンターでなにやら作業をしているようだった。話しかけるか、否か。声をかけなければ、きっと男は気づかない。
けれど、俺はミルクを買って帰らなければいけないのだ。最近痛み出した腰には、少々酷な仕事。
店内は雑然としていた。棚はほとんどが埋まっていたが、時折空間も見つける。酒を売っているあたりの裸電球は切れかかっていて、チカチカと目に痛い。
お目当てのものを見つけて、手をかける。ハーフガロンならまだ腰にも優しいだろうか。しかし恐らく娘に怒られる。年寄りをあまりこき使ってくれるなよ。母親がいない分、あの子はずいぶんとしっかり者に育ってしまった。今ではすっかり尻に敷かれている始末だ。まあ、いい。1ガロン分買っていってやろう。
よっこいしょ、と腕に抱えたミルクを持って、レジへ向かう。話しかけるか、否か。
ドン、とカウンターにミルクを落とした。作業していた手を止めて、男が顔を上げる。
シワは増えた。目は変わっていない。少し、いや、かなり痩せたか。
カウンターには、小さなネジが三つばかり転がっていた。おもちゃのブリキを直しているらしい。錆びた空色のボディが古めかしい。
「2ドル」
しわがれた声だった。こん、と咳をすると、痰が絡んでいたらしく、喉の奥からゴロリと音がする。
「随分と老けたな」
自然と声をかけることができた。
「昔と変わらず嫌味な言い方するよな」
「人間、そう変わってられるか」
男は笑った。
「最近どうなんだ」
「まあ、なんとかやってるさ」
ぽい、とポケットから取り出した紙幣を投げた。くしゃくしゃのそれを、男が丁寧に手のひらで広げる。
「確かに」
レトロなレジスターをいじると、機械音とともにレシートが吐き出された。それを差し出す男の薬指には、貧相な銀色の指輪が光っていた。
この男は、まさに俺の神様だった。
老いてしわがれ、頭は禿げ上がり、小さな商店で数少ない客を待ち続ける、この男こそが、俺の神様なのだ。
俺の実家は昔、アメリカでも名の知れた、かなり有名な会社だった。シカゴの中心地にオフィスを持ち、社員数はその中でも一、二を争うほどにはいた。
当時通っていたボーディング・スクール――上流階級の子供が通う寄宿舎併設の学校のことだが――にもそれは反映されていて、俺の立場はカーストの限りなく上位にあった。
今だから言えることだが、その時の俺は苦労を知らず、傲慢で、愚かな子供だったのだ。親の権威があるからこそ今の立場があるのであって、俺自身にはなんの力もないのだと、知らなかった。そのくせ口だけは達者で、いかにも人生を悟っているような、中身の無い文句を垂れていた。俺はそんな、どこにでもいるような、面倒くさい思春期の子供だった。
ボーディング・スクールでは――いや、アメリカの多くの学校や社会全般において言えることだが――立場の低い者の尊厳は、無いに等しかった。特に、新興の成金会社の息子などは、格好のイジメの対象だった。その中のひとりが、この男――アランだった。
アランを始めて知ったきっかけは、寄宿舎の裏にある、倉庫の影で、彼が中層階級の上学年ふたりにいじめられていたのを見つけたことだった。目立った外傷はないものの、口の端が切れて、血が出ていたように思う。
優越感を感じるための、汚い、下劣な行為。
鈍い打撲音が続く。足が振るわれる度に転がる体は小さくて、衝撃の度にもつれる髪が土埃に汚れていた。
「うるさい」
ぴたり、と下卑た笑い声が止まった。こちらを振り向いたふたりは、俺の顔を見るなり顔色を変えた。俺のことを知っていたらしい。
この学校は、表向きは身分の差別を認めていない。このことを先生に報告すれば、このふたりは確実に謹慎か、停学の処分を受ける。もっと嫌なのは、親に連絡が入ることだろう。忙しい両親をわざわざ呼びつける理由が醜聞とは、なんとも情けないではないか。
ふたりは狼狽え、意味を為さない声を漏らしながら早々に走り去った。
「ありがとう」
間抜けな背中を見送っていると、体を起こしたらしい男子生徒がこちらを見ていた。
その時の彼の目を、俺は一生忘れられないだろう。
イジメを受けている人は大勢見た。けれど、彼ほど強い目をしている人は知らない。大きなグリーンの瞳は全く珍しいものではないけれど、なにか芯をもっているような目が、当時の俺にはひどく恐ろしかった。ぐらぐらと揺れるばかりの、俺の弱いところを見透かされているような、そんな心地がした。
「うるさかったから、そう言っただけだ」
そうとだけ言って、俺は逃げるようにその場を離れた。その姿はきっと、さっきの間抜けな上級生と似たり寄ったりだったのだろう。
二回目に彼を見たのは、クラス合同での体育の授業の時だった。
その日は四チームに分かれて野球をすることになっていたが、俺はそれを木陰から眺めていただけだった。
汗をかくのは嫌いだ。バカみたいに駆け回るのも、騒ぐのも。
だから、ズル休みをしたのだ。そこから見た彼は、楽しそうだった。バットを振り上げてボールを打ち、ファウルになっても悔しそうに、楽しそうにチームメイトの元へ駆けていった。
三回目は、孤児院だった。
大嫌いな父に連れられて、郊外の小さな孤児院に慈善活動として訪れたのだ。錆びた半円状のアーチをくぐると、管理する気があるんだかないんだか、よく分からない庭が広がっていた。一方には花が咲いているのが見えるが、また一方は荒れ放題なのだ。どこからか細く水が流れ込んできて、細い小川ができている。今朝方降っていた雨のせいだろう。父はほんの少し眉をひそめて、ぬかるんだ道を進んだ。
それは、決して純粋な慈善意識から来る行為ではなかった。そうやって福祉活動をしていることを対外的にアピールし、会社のイメージアップを狙う、戦略的行為。
要するに、見栄と、媚びと、打算だ。
それが、俺は嫌でたまらなかった。父のこういうところが大嫌いだった。
大人は汚い。見慣れない、にこやかな笑顔の仮面に虫酸が走る。
当時の俺は、思春期特有の繊細と潔癖に支配されていた。目を輝かせて走り寄る薄汚れた服を着た子供たちも、貼り付けた笑みと小綺麗なスーツでそれを眺める父親も、なにを見ても動揺と困惑しか感じなかった。しかし、それをそのまま表現して他者に伝えてしまえるほど、俺は成長していなかった。
そして、「俺は上位の、優れた人間なのだ」という優越は、確かに甘美だった。所詮、俺も父の子供なのだ。いくつになっても、この頃に知った毒の味は、俺の中を巡っている。
父は、院長と一緒にどこかへ行ってしまった。「適当に見てまわれ」なんて言われたって、見るものなんてない。結局、なんとなく小さく区切られた部屋を巡って、ぼんやりと子供たちを見ているだけ。
捨てられた子供、ひとりになった子供、自ら望んでここに来た子供。それぞれ複雑な事情を抱えているのだと言う。しかし、彼らはそんなことは関係ないとばかりに遊び回る。時折重く沈んだような顔をしている者もいたが、誰かが声をかけ、気づけば笑顔で庭を駆け回っていたりする。
子供というものはよく分からない。俺も子供だけれど、彼らとは生い立ちがあまりにも違った。俺は学校に入学する前から、毎日のように家庭教師に師事して、机の上に張り付いてばかりいた。
冷めた家庭だったから、俺自身もどこか達観した考え方ばかりをして、先生からは「もっと子供らしくしていいのよ」なんて言われたことがある。
はて、そういえばあの時の先生はいつから家に来なくなったのだったか。十中八九、父が辞めさせたのだろう。余計なことを吹き込むな、とでも言って。
遠くで歓声が聞こえたかと思えば、子供たちが一斉に一方向へ走っていった。俺の膝にやっと届くかどうか、という小さな子供もいたから、踏むか蹴り飛ばしてしまうんじゃないかと怖くて、廊下の壁にぴったりとくっついて、その流れに呑まれまいとした。
「おかえり!」
「ねえ、今日はなにするの?」
「新しい鉛筆持ってきてくれた?」
「なあ、今度こそ野球やろうぜ!」
「だめ! 僕と絵本読もう?」
行き先は玄関だったらしい。孤児院にいるほとんどの子供が集まっているらしく、ザワザワと喧しい。一体なんなんだ。ここに賓客がいるというのに、子供たちにはまるで意味がないようだった。
「おい待てって、押すな、一斉に喋るな、足を掴むな歩けないだろ!」
子供が群がる中心から、声変わり途中の掠れた声が聞こえた。幼い子供を腕に抱えて、仕方ないとでも言いたげな顔で立ち上がった男に、見覚えがあった。
「とにかく中に入れてくれよ。じゃないとお菓子をやらないぞ」
きゃあ、と歓声が上がって、子供たちはテレビを逆再生したように勢いよく散っていく。それを呆然と見送って、また振り返ると、男と目が合った。彼は軽く目を見開いて、怪訝そうな顔をしていた。恐らく、俺も同じような顔をしていたんだろうと思う。
「今日はお客さんが来るって聞いてたけど、お前のことだったのか」
「“お前”って……失礼なヤツだな」
「いや、だって、お前の名前知らないし」
そこでやっと、俺たちは知人になった。決して“友人”ではない。“知人”だ。
簡単に“友人”という関係で括るには、あまりにも微妙な仲だった。
それから俺は、ときおり孤児院を訪れることになった。はじめの頃は流されるように玄関を跨いで、じきに、自ら足を踏み入れるようになった。
不思議なことに、騒ぎまわる子供たちの喧しい声は、嫌いじゃなかった。子供相手なら、立場も肩書きも意味がない。それが心地よかった。
「お、今日も来てるのか」
「それを言うならお前もだろう。また家庭教師から逃げてきたのか」
アランは、何故か垣根の隙間から頭だけを突きだしていた。かく言う自分も茂みに隠れているわけだが、これは子供たちのかくれんぼに巻き込まれたから隠れているだけだ。いい加減に鬼になるのはやめたい。それでなくてもあいつらは小さくてすばしっこいのだ。また孤児院中を探し回るのなんて、勘弁してほしい。
「仕方ないだろ、経済学なんて分かんないって」
「なにが仕方ないんだ。あんなの計算してればすぐだろう」
「その計算が面倒臭いって言ってるんだよ!」
「さすが。数学で赤点を取るだけある」
そう言うと、彼は顔を真っ赤にした。
「あーもう、うるさいな、今かくれんぼの途中なんだろ? あいつらにお前がいる場所教えてやるからな!」
「待て! それはやめろ!」
アランはにやりと悪い笑みを浮かべると、ズボッと音をたてて垣根から顔を引き抜いた。この孤児院にはいくつか抜け穴があるようで、おそらくこの垣根の隙間もその一つなのだろう。つまり、俺はあいつが鬼役に俺の所在をバラすのを止められない。そこまで俺はこの場所に詳しくはない。隠れ場所を移すしかないか。
足音を立てないようにしながら隠れ場所を移している間、ふと気づいた。
俺は、案外この状況を楽しんでいる。子供の遊びに本気で取り組んで、汗で背中に張り付いているシャツなんて気にしないで、靴を泥だらけにしてまで子供たちの遊びに付き合っている。
こんなこと、以前はあり得なかった。子供たちなんて放っておいて、帰ってしまえばいいのに。寮に帰れば、宿題が山積みになって待っているんだ。早くアレを片付けないと。
けれど、いま俺がなにも言わずに帰ってしまったら、子供たちは延々と俺を探し続けるのだろう。それを想像すると、足が動かない。
「あ、見つけた!」
すぐ近くで、嬉しそうな高い声がした。かすかに声を漏らして振り返ると、ドン、という衝撃と共に、小さな体が衝突してきた。ここにいる奴らはみんな、遠慮というものを知らない。そんな勢いで飛びついて来る奴があるか。
「一番最初に私に見つかったから、次はあなたが鬼よ!」
水色のスカートをひらめかせて、マルタが嬉しそうに言う。またか、とうんざりしながら呟くと、ゲラゲラと大きな笑い声が聞こえた。アランだ。
「……笑いすぎだ」
「いや、だって、仕方ないだろ! これで通算何回目の鬼役なんだ? 毎回お前が走り回ってるのを見てる気がするぞ」
ブッと下品な音をたてて吹き出したアランの笑いは止まる様子がない。
仕方がないだろう、誰かと一緒に遊ぶなんて、初めてなんだ。
腹立ち紛れにアランの肩を叩こうとするにも、マルタが足下にしがみついて離れない。未だ笑い転げるアランを盗み見るその視線には、見覚えがあった。
この男とも、少しは仲良くなったと思う。
それでも、まだ“友人”と呼べるわけではないと思う。学校ですれ違っても、挨拶はしない。視線を少しくれてやるぐらいはするが。
存外、彼は自分の家が成り上がりであることにコンプレックスを抱いているようだった。その反面、会社を盛り立てた父のことを誇りに思っている。彼に父のことを語らせたら、最低でも三十分は時間を取られるから注意だ。
この孤児院も、彼の父が、潰れかけていたところを買い取って支援しているのだという。この孤児院を存続させることに対して、得られる利益は皆無。むしろ改修工事などの補修費用が嵩むため、赤字経営が続いているのではないだろうか。
アランの家は、どこまでも俺の家とは違う。
「あー、面白かった! さーて、俺は用事があるんだ。マルタ、後で俺もかくれんぼに参加させてくれよ」
ひらりと手を振ったアランは、さっさとどこかに言ってしまった。用事があった割に、俺をからかう時間はあったのか。腹の立つ。
つい先日五歳になったばかりのジョンと、未だ見つからない子供たちを探す。一体これで孤児院の中を何周したことになるのか。これだから鬼役は嫌なんだ、と愚痴をこぼすが、ジョンは楽しそうだ。この子は何故か俺に懐いている。こんな愛想のないヤツのどこを気に入ったのか、さっぱり分からない。
ねえ、と声をかけられた。少し黄ばんだ白いワンピースを着た少女だった。
彼女の名前は、セレーナという。彼女は、長いプラチナブロンドの髪が美しい、孤児院一の美人だった。その上勉強家で、今は年齢より二学年上のレベルの勉強を進めているそうだ。
「アランを見なかった? そろそろ来るはずなんだけど」
「かなり前に見た。なにか用事があるとか言ってたけど」
「きっと私のことよ。鉛筆を使い切ってしまったから、それを貰う予定なの。ありがとう、もう少し探してみるわ」
一瞬背を向けて、また振り返る。
なるほど、勉強家で努力家というのは本当らしい。彼女は、自身が最も魅力的に見える動作というものを完全に把握し、モノにしている。
「ね、今日は誰に会いに来たの?」
「ジョンに」
セレーナの白い顔に陽が差して、一瞬彼女の表情が消えた。
遠くから、アランがセレーナを呼ぶ声が聞こえた。やっと見つかったらしい。セレーナはその声に間延びした声で応えると、もう一度こちらに笑顔を向けて、駆けていった。その綺麗すぎる笑みは、俺の母に似ていた。
今日は何を持って行こうか。
小遣いが入った財布を持って、学校の売店に並ぶ、見るからに甘ったるそうな菓子を眺める。
以前、孤児院の子供の中のひとりが誕生日だというから、ホールケーキを買っていってやった。そうしたら、思った以上に子供たちが喜んだから、時々こうして小遣いで買える程度の菓子を買って、持って行くことにしている。俺としては毎度持って行ってもいいのだが、「甘やかしてはなりません」と院長からたしなめられている。
アランも、あまり高価な物は与えていないようだった。使いかけのノートや鉛筆、本棚で眠っていた絵本など、手持ちの仲から与えることもしばしばだとか。「苦労しないでもなにかを得られるなんて思わせたら、ダメだろ」なんて偉そうなことを言っていたが、恐らくそのセリフは、彼の父親の受け売りだろう。目が泳いでいたから分かる。
これにしよう、とブドウジャムのクッキーを手に取ったところで、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。廊下は走るな、と厳しい視線を向けると、その音の主は俺の友人だった。ひどく困惑した様子で、俺の名前を呼んでいる。
「先生が呼んでる、実家から電話だって言ってた、早く!」
ぼうっと、家から家財が運び出されるのを眺めていた。
父は放心し、母はわめき散らしていた。
「それは私のドレッサーよ! そのネックレスにどれだけ価値があるか分かっているの? ああ、ドレスまで! 待ちなさい、許さないわ、許さないわ――」
うるさい。
母は矜持が高い人で、元は没落寸前の社長令嬢だった。それを父に見初められ、母の実家には援助金が入ることになっていた。しかし、我が家は今、家財道具だけならともかく、家まで売り払おうとしている。今もまだ家の電話が繋がっていたとしたら、近親者からの電話が鳴り止まなかっただろうな、とぼんやり思う。
簡単に言えば、俺の家は没落した。
水面下で行なわれていた不正がバレたのだという。それに父が荷担していたのは分からない。罠にハマっただけなのかもしれない。すべては闇の中だ。
信用を失った企業は、それ以上の発展を望めない。会社は落ちぶれ、あらゆる方向から裁判を持ちかけられて負け、損害賠償金を支払い、その果てがこれだ。
父は不気味なほどに表情を変えず、運び出されるものたちを見ている。二度目の没落の危機に、母は少々おかしくなってしまった。半狂乱になって家財にしがみつく母は、醜い。それから先も、この時の母よりもおぞましいものを、俺は見たことがない。血走った切れ長の目が、威嚇する蛇に似ていた。
その時俺は、いつか見たアランの両親を思い出していた。アランの両親は、変わり者で有名だった。金はあるはずなのに、見苦しくない程度の小さな一軒家に三人で暮らしていて、庭には野菜が植えられていた。そうやって節約した分はすべて慈善活動に注いで、自分たちは贅沢をしない。それでも彼らは幸せそうに笑っている。アランは、幼い頃の、家が貧しかった時の記憶が残っていると語ってくれた。それを聞いて、苦しみを知る人は、誰かに優しくできるのだと知った。
我が家が傾こうという時、巻き込まれまいと俺たちを見捨てる人たちの中で、唯一援助を申し出てくれたのも、彼らだった。父はそれを断固として断ったが、それはなぜだったのだろうか。父はいつも仮面を被っている。けれど、今はどうしてか、その顔がひどく安堵しているように見えた。
ガシャン、と固い金属音が響いて、俺の帰る場所はなくなった。
目の前で、自分の家だった場所が知らない誰かの手によって閉ざされるのを見ていた。門の鍵を閉めた男は、こちらを嘲るように眺めている。
「行くぞ」
父は、母の肩を抱いている。虚ろな目をした母は、蝋人形のようだった。
それ以降、俺はアランと会うことはなかった。
「今は隠居生活か?」
ジジ、と耳元で羽音が聞こえた。手を振って適当にそれを追い払う。
「ああ。会社は息子にやって、俺は呑気に店番がてら、修理をやってる」
マメの目立つ手でブリキのロボットを引き寄せる。ぽっかりと空いた穴に小さなネジを差し込んでドライバーを回す。
「これはジョンの孫にやるんだ。頼まれてな。……ジョンのこと、覚えてるか?」
「覚えてるよ。やたらと懐いてくれた子だろう。カエルを捕まえるのが上手かった」
「はは、そうそう。忘れてるんじゃないかと思ってたよ」
「そこまで薄情じゃないさ」
実のところ、嬉しかったのだ。俺には兄弟がいなかったし、親からの愛情も感じていなかった。無条件に好意を示してくる小さな存在が、不思議でたまらなかった。
「孤児院の子供たち……今は子供じゃないのか、あいつらとも連絡を取ってるんだな」
「近くに住んでるやつらとはな。他の州に出た奴らとは、なかなか」
あいつはどうだ、こいつはどうだと聞くと、何だかんだで行く末を知っているようだった。あの孤児院がすでにないことは知っている。あの口うるさい院長は、とっくにいないのか、と気づいて、少し呆然としたりもした。
「じゃあ、セレーナはどこに?」
「死んだよ」
しん、と一瞬の間があった。
「三十にならないくらいの歳に、クスリで」
「クスリ?」
「玉の輿に乗ったはいいが、そこの旦那がクスリに手を出していたらしい。それに引きずられて、あいつも中毒で死んだ」
そうか、と答えるほか無かった。媚びを売る視線が好かなかったのは確かだが、そう言われると、微妙だ。
「……マルタは?」
「俺の奥さんやってるよ」
会話の流れを変えようと口に出したはずだった。今日は驚くことばかりだ。
「おめでとう」
「ありがとう。で、お前は?」
「結婚はしたがすぐに離婚した。今は娘と暮らしてる」
「ああ、尻に敷かれてるんだろう」
「腰を痛めた老人に、この重さのミルクをお使いさせるような子だよ」
わざとらしくため息をついてやると、男はひどく楽しそうに笑った。
「ああ、いや、安心したよ。案外楽しそうじゃないか」
「……まあ、あの頃よりはな」
心底安心したような声色で言われてしまって、居心地が悪くなった。
「お前、あの頃は笑うってことがなかっただろう。最初にお前を見た時、自分を殺してるように見えて、気味が悪かったんだ」
男はドライバーを手の中で転がした。小さなネジが、またひとつ嵌まる。
「お節介焼いといて、良かった」
子供たちおけしかけてお前をかくれんぼに巻き込ませたのは私なんだよ、と男が笑う。
なんて今更な告白だ。鼻の頭がツンとした。
「ああ、そうだ」
ぽんと手を叩いた男が、カウンターの下に頭を突っ込む。取り出したのは、優しい橙色の紙袋だった。
「マルタが焼いたクッキーだ。店番をやる日は毎回おやつに持たされるんだが、最近食欲がなくなってきて、食べきれないんだ。歳だな……。だから、娘さんにでもやってくれよ」
「ありがとう。きっと喜ぶ」
受け取った紙袋は、持ち上げると少々の重さがあった。赤い顔で男を見上げていた少女の姿が、瞼の裏に甦る。
「じゃあ、マルタによろしく」
「ああ。また会おう」
重い荷物を腕に抱え、出口へ向かう。肩で扉を押し開くと、カラン、とドアベルが軽やかに鳴った。それと同時に、通行者の話し声やら車の走行音やら、街の音が耳の中を埋め尽くす。
空は灰色だった。一雨くるかもしれない。
濡れてしまうかもしれない、とバッグに適当に突っ込んだままだった紙袋をさらに奥に押しやった。
ふと思い立って、その中からひとつ取り出して、口の中に放り込む。ブドウジャムのクッキーだった。優しい甘さが舌に染みる。
この男は、まさに俺の神様だった。
老いてしわがれ、頭は禿げ上がり、小さな商店で数少ない客を待ち続ける、この男こそが、俺の神様なのだ。
きっと、他の誰に話しても信じてはもらえまい。
偶然の再会から数ヶ月。彼の訃報を聞いた。
少し泣いて、不思議にまた会えるような気がして、笑った。
お久しぶりです。
どれだけ投稿していないのやら…。
楽しんでいただけたなら幸いです。