陸 最強
陸 最強
黒隠黒斬を名乗る陰陽師、笹原雅日は考える。最強とは一体どういう事なのだろう、と。勿論、言うまでもなく雅日は最強の陰陽師であった。しかし、自らが最強だからといって、『最強とは何か?』という問い掛けを放棄していいとは雅日には思われない。最強で在り続ける為には、最強を追い求め続けなければならないからだ。
『弱肉強食』という言葉に象徴されるように、弱い者は自らの肉を差し出し、強い者に喰われるしかない。しかし、弱いヤツだって別に喰われたい訳ではないだろう。つまり、弱い方の意志を踏み躙り、その価値を奪う事こそ強いという言葉の意義だ。
他人を害し、自分の都合を押し付けられる者は強い。そんな強さは、どのような手段で得られるのだろうか? その方法について、雅日は一つの結論を出している。
――それはつまり、黒くなる事だ。
死を忌避しない者はいない。完全なる闇の中では人は視界と行動を失い恐慌に陥る。汚れて腐敗した者を全ての人は蔑視する。犯罪者を民衆は責め立てる。
結局、それは雅日にとって同じ事だ。皆々、黒が怖い。黒に侵食され侵害されるのが怖い。だから近くに寄らないで欲しい。
だから、そういう半端な白だか灰色だかの人間達よりも強くなるには。そいつらを食い物にしてやる為には。
そいつらが怖れる黒そのものにならなくてはならない。
つまり、何かに死を与える死神でなくてはならず、人の目が見えない暗黒の中に生きるべきだ。まるで腐敗しているかのような汚れに塗れて生きるべきだし、罪を犯す事を当然の選択肢に入れるべきだ。
――それが、強いという事なのだから。
最近、雅日には気掛かりがあった。雅日に気掛かりがあるなんて事は、極めて珍しい事である。
何故なら彼女はどんな悪霊でも一撃で葬り去る実力がある陰陽師なのだから。多少気に障る事があろうと、一撃で食い荒らしてしまえばいいだけの事なのだ。
今回の件について、雅日がそういった強引な手法を取れない原因は、今追っている悪霊を発見した時に感じた、あまりにも不吉な予兆にある。
悪霊は一人の人間に取り憑いていた。だが、その憑依には極めて巧妙な偽装が施されており、一般人は何らかの違和感を抱く事すらも不可能だろう。ましてやその違和感の元が悪霊の憑依にある等、見抜く事等、到底無理だ。
しかし、凡人がどれだけ無能を示そうと、それは雅日には興味のない領域である。問題は、偽装のせいで雅日もその悪霊の本質を完全に見抜いたとは言い難い……かもしれないからだった。
いやいや、雅日ほどの実力になると悪霊の本質を見抜けない等という事はあり得ないのだが、しかし、万が一ということもなくはないかもしれない。というか、今回の場合、雅日が見抜いた本質が真実であった方が問題で……。
雅日は悪霊を一目見ただけで、大体の力量を、『強さ』をビジュアルで受け取る。
その悪霊がその力を尽くして悪事を行った場合、どれくらいの損害を人間社会が受けるのかが映像で見えるのだ。
それは例えば、人が二、三人血塗れで倒れているだとか、廃屋が一つ倒壊しているとか、そんな感じだ。
今回の悪霊を見た時、雅日に見えた映像は、東京が、いや首都圏が丸ごと滅んでいるようなイメージだった。いやまさか、そんな馬鹿な、と雅日は目を疑った。
自分の直観もとうとう致命的なエラーを弾き出してしまったか、と驚愕した。雅日がどんなに天才であっても、生涯で一度くらいは誤る事もあるかもしれない。その可能性は否定出来ない。
だって、その悪霊が取り憑いている人間は、あまりにも普通だったから。脆くて儚くて弱い一般人とまるで同じの振る舞いをしていたから。にも関わらず、首都圏を壊滅させるだけの力を秘めている、秘める為の偽装を行っている? あり得ない。
それは雅日の考える『強さ』を誇る存在の定義からズレていた。
生まれ持っての力が強さを保障する。それはいい。雅日も才能があったからこそ最強を誇れる。
雅日が気に入らないのは、この悪霊がもし仮に凄まじい悪の実力を持っていたとして、それを隠して存在している事だ。力を振るう機会を、棒に振っている。凡俗の振りにかまけている事だった。
それは雅日には許せない事だから。彼女はその日からずっと、その悪霊を追っている。
雅日の中にある悪霊への思いは混沌としている。
しかし、まず前提として、悪霊が首都圏崩壊レベルの実力を持っているというビジュアルは、雅日の生涯一度きりの読み間違いにほぼ間違いはない、という事。
次にもし仮に、本当にその強さを悪霊が身に着けているとしたら、それを隠し、弱い振りをしている事が雅日には許せない事。
そして、最後に最悪の仮定、雅日が呼んだ『首都圏崩壊レベルの実力』というビジュアルすらも、偽装によって撹乱された物で、その映像すらも見込みが甘く、悪霊が更に大きな破壊でも行える程度の災厄であった場合。
雅日はその最後の仮定に、自分でも気付かない振りをしたままで、悪霊を追いかける。
雅日に手の負えない悪霊がいるなんて事は、あってはならないのだから。
雅日の悪霊憑きの人間の追跡は徹底を極めた。雅日はファッションとして、全裸に黒い襤褸切れをグルグル巻いただけの格好を選んでいるから、昼間では悪目立ちしてしまう。だが、悪霊憑きが大学に通学する時は、道路脇側溝に掛けられた格子、グレーチングの下からそのスカートの中身を観察してみたりはした。なかなかのセンスの良い下着を履いていた。
雅日は人間そのものには興味がなかったが、追跡を続ける中でデータは揃ってきた。
性別は女だ(見れば分かる)。私立楠條院大学に通っているから、恐らく大学生だろう。
日暮荘とかいう名前の、クソみたいなボロアパートに住んでいる。こういう廃墟になりかけみたいな場所には、雅日の嫌いなゴミが良く転がっているので困る。102号室を観察するのに適した部屋は二つあったが、隣室の方は掃除する気も起きないゴミが存在した為、上階の方に居座る事にした。
どうやら男と同棲しているようだ。男の方には何の興味もない。男が女の家族だろうと恋人だろうと奴隷だろうとペットだろうと一向に気にしない。
何度か102号室そのものにも侵入してみた。寝静まった深夜に這入った際、戯れで財布を探って、学生証から二人の名前を特定した。女の方は白戸光羽、男の方は白戸光樹と言うらしい。男の名前に興味はなかったが、たまたま最初に発見した方の財布が男の物だったのだ。苗字が同じという事は姉弟だろうか。成人近い姉弟がこんな狭いボロアパートの一室に同居しているというのは不健全な匂いを感じるし、はっきり言って気持ち悪いと一般には看做されるだろう。故にその点において、雅日はこの二人を少しばかり好ましく思った。他人に後ろ指さされる道、常識外の気持ち悪い道を、あえて選ぶ事が出来る――それはこの二人が雅日の基準における『強さ』を多少なりとも有しているという事を示しているからだ。
ちなみに立ち去ろうとした時、弟の方が目を覚ましたのか短くくぐもった悲鳴を上げていたが、雅日は一切動ずる事はなく、そのまま部屋を出た。どうせ悪夢でも見たとか思うだけだろうし。自分がどのように見られようと、雅日にはどうでもよかった。
また日中忍び込んだ折、何か虫がいると思って雅日が指先で潰すと、それは盗撮用の超小型カメラだった。
どうやら雅日以外にも、女に注意を向けている人間はいるらしい。もっとも、雅日のように悪霊の憑依という本質に気付いているかどうかは定かではない。しかし、悪霊に気付くかどうかは置いておくとしても、女が人間を誘引するような要素を有している事は覚えておいて良さそうだ。それは悪霊が憑依している事の副産物的な効果だろうから。
この部屋に注意を向けているのは盗撮カメラを配置した人間だけではない。隣の101号室からも鬱陶しい気配を感じる。ここまで来ると雅日が直接潰したくなってくる。しかし、女に取り憑いた悪霊を祓う為に、今はなるべく力を温存し集中力を高めておきたいところだ。雅日は盗聴カメラや隣室の存在等、そういった余計な要素は一度認識した上で、意識から排除する事にした。
これ以上の足踏みは必要がない。もう雅日にとっては例がないくらいに下調べを積み重ねた。
週末、土曜日。
女も、ついでに言えば男も在宅なのは確認済みだった。
雅日は日暮荘102号室の真ん前に立ち、溜息にも近い気怠い息を一つ吐くと、瞬時に状況に集中、扉に回し蹴りを見舞った。蝶番ごと外れ、内側に向かって倒れ込む扉を踏み越えるようにして叫ぶ。
「警察だ!」
これは半分は雅日なりの持ちネタで冗談、半分は中にいる面々が一瞬虚を突かれるのを狙っての事だった。
「け、警察……? い、いやドア蹴破ってるし、貴方警察じゃないですよね……?! 明らかに格好も変だし、一体何……」
焦って勢い込んで喋る男を、拳の一撃で壁に叩き付ける。すると静かになった。
居間の奥の寝室にまで踏み込む。
そのベッドの一つには昼間だというのに、女が半身起こした状態で寝ていた。
「な、なんなの……」
「私が用があるのは正確にはお前じゃない。お前の中にいるモノだ」
雅日は出来得る限りの霊能力を発現させる。霊視は最高のレベルになった。更には『正体を看破している』と取れる雅日の言葉に反応したのか、女の身体から女を支配している存在が――悪霊が、滲み出してきた。
それは存在の初めから、周囲の生きている存在の絶滅を宿命付けられたかのような、悪意を越えた悪意。存在そのものの悪。絶対悪。
どうしようもない理不尽であり、避ける事を許されない災厄。
女の身体の表面は無数の黒い綿胞子のようなナニカに完全に覆われた。もうその姿を窺う事は出来ない。
その現れた本性に、雅日であっても身震いを禁じ得なかった。
自分の力が及ぶかどうか一瞬の躊躇が生まれる。それでも彼女の自身が最強であるという事への確信が、それ以上そのまま身動きを止める事を許さない。
「喰らえ、天火黒王」
雅日は自らに憑依させている悪霊、天火黒王に自らの寿命の一欠片を喰わせて叩き起こすと、目の前の女を覆う黒い闇にぶつけた。
天火黒王は、山奥で眠っていた地神の内の一体だ。地神とは大昔に飢饉で食料が得られない時に、豊穣を祈る人々から捧げられる生け贄の魂を喰らって生きていた存在を指す。力を持つ大悪霊で、しかも人の魂の味を覚えている。そういった風習が廃れるにつれ、地神は眠りに就いた。それを雅日が発見し、無理矢理に起こし、自らの魂に取り込んだ。普段は完全に雅日のコントロール下にあり、山奥にいた時と同様に眠っている。それに雅日の寿命の一欠片――魂の一部を喰わせる事によって、一時的に使役させる。
天火黒王は黒い闇を前にして、一瞬怯んだように見えた。しかし、天火黒王は大昔の人間の風習によって成立した地神だ。ただただ喰らう事しか知らない。少しでも闇を取り込もうと喰らい掛かる。
だが、女から溢れ出す膨大過ぎる闇は、地神である天火黒王の容量ですらすぐに満たしてしまった。お腹いっぱいってヤツか、と雅日は軽く嘲りの愚痴でも零したくなったが、そんなことをしても埒が明かないだろう。
天火黒王でも手に負えないというのなら、いよいよ雅日本人が相対するしかない。
この展開は当然読めて然るべきであったものの、近年全ての除霊を天火黒王に任せていた雅日としては身震いを禁じ得なかった。天火黒王を雅日が調伏出来たのは、眠っている所を狙ったとはいえ、天火黒王よりも雅日が単純に強かったからだ。雅日は自分の魂に天火黒王を封じ、それを完全にコントロールさえしてきた。そこら辺の低級霊はどれも天火黒王よりは弱かった。それは雅日との実力差がお話にならないレベルである事を意味していた。だから慢心し、傲っていた。自分に敵うモノなんて現れる筈がない。自身こそ最強、と。
しかし、とうとう天火黒王が敗れ、雅日が相手をしなければいけない悪霊が現れた。
これで負ければ、雅日の『強さ』は、否定される。そんな闘争の当たり前から、彼女は遠ざかり、ただ強さとは何かなんて抽象的なお題目を唱える事で自らを誤魔化してきたのだ。それが露呈してしまった。
けれど、だとしてもだからこそ雅日は、半ば捨て鉢な気分になりつつも、その場から身を翻す事はしない。今の彼女を支えているのはプライドであり、そして自分の脆さを覆い隠したい心理だ。ここで負けなければ、雅日はこれまで通りに最強で居られるのだから。
恐らく、悪霊を支えるエネルギーは天火黒王のように喰らって自らのモノと取り込むには多過ぎるのだろう。だから、天火黒王とは別の方法を試す必要がある。
霊威で両の拳を包み込み、悪霊の持つエネルギーそのものを消し飛ばす。
方針が決まって後はひたすらに殴打した。悪霊は女の周囲の空間そのものに今も噴出しており、だからそれを削り取る為に必ずしも女の身体を殴る必要はない。しかし、それでも大元は女の身体に宿っている悪霊である。だから、雅日は殴った。悲鳴が聞こえるが、それを聞き入れる雅日ではない。顔を身体を、腕を足を、全身隈なく満遍なく、いっそ女当人も死んで構わないという勢いで――殺すつもりで殴り続ける。もし死んだら殺人を犯すのは初めての経験になるが、この災厄を止められるとすれば、むしろ善行だ、と雅日は歪んだ笑みを顔に貼り付ける。首都圏全域を崩壊させる大地震を、女一人の生命で止めようと言うのだから。この女は生け贄のようなモノだ。
悲鳴は聞こえなくなった。
女の身体は依然黒い闇に覆われ、詳細は見えないが恐らくボロボロだろう。雅日の拳の皮膚も既に裂けていた。
大きく宙を空振るように拳を振り回し、一気に空間に溢れ出ていた悪霊の黒い気を消し飛ばす。
そして、そこで雅日は疑念に囚われた。
雅日がここまで攻撃しているというのに、一度も悪霊からは反撃がない。
今は晴れた黒い気の中心、女の深奥、悪霊の本質を雅日は一度見極めようとして、そして彼女は絶望した。
そこには虚無があった。
単純に言えば穴。
それは全てを呑み込む穴であり、同時に雅日が今苦労して消し飛ばした黒い気を延々吐き出しても尚尽きぬ混沌の溜まり。
雅日が今していた事は巨大な湖を、手で作った椀で全て掬い上げようとしていたようなモノ。
敵わない。『強さ』の次元がそもそも違った。
雅日はその場にぺたんと座り込んだ。悪に身を浸しながら、『強さ』を追い求めながら、彼女を今まで立たせてきたモノ、その柱は致命的なまでに根本から折れた。
その肩に「おいッ!」と乱暴に手が載せられる。男だ。この悪霊を身に宿す女と共に生活をしながら、何を気付く事もないどうしようもない男だ。
「ひぃぇえ、ぁ、あ」
そんな男に触れられているのに、雅日の喉から漏れるのは恐怖の悲鳴だけ。振り向きざまに男を強引に振り払うと、雅日は外に向かってただ駆け出した。男の怒声が追ってくる。どうでもよかった。雅日はただただ逃亡した。
――あの悪霊はどうして雅日に反撃しなかったのか?
簡単な事だった。反撃するにも当たらない羽虫程度の存在だったからだ。
あの悪霊にとって、雅日もただの有象無象だったからだ。
そして、結論は出た。
雅日は狭い路地で再び座り込み、もう立ち上がれない。
茫然とした頭に一つの言葉が浮かぶ。
私は、弱い。