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世界一簡単な世界滅亡  作者: 篠渕暗渠
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肆 密会




     肆 密会




 私立楠條院大学に今年の春から入った一年生であり、同じ長野県の室瀬町出身の白戸姉弟と波切江都の三人組の中で、一人だけ一浪したという経歴を持つ白戸光樹。彼は今、『甘い唇』を意味する店名のフランス料理店のおいて、日暮荘における隣人である浦井叶絵の正面に座ったところだ。逢瀬であった。密会であった。時間帯はディナー。本日は金曜日。カジュアルな店内の彼ら以外の客はいかにも恋人同士という雰囲気の男女ばかりであった。

 そんなシチュエーションではあったが、この瞬間、光樹の頭の中を過ぎっているのは『人間の幸福とは一体何なのだろうか?』という疑問だった。日暮荘の隣人であり、十分に美人の範疇にある大人なOL(しかも巨乳)から棚から牡丹餅的な感覚で夕食に誘われたというのは、嬉しい出来事のはずだったが、しかし、同時にそんな事態になったというのに、喜び切れない自分がいた。『隣人の女性と夕食に行っただけで姉に殺される恐怖に苛まれないといけない僕は幸福と言えるだろうか?』と彼は考える。が、『間違いなく幸福とは言えないよね』とすぐに結論は出た。

 ちなみにこの店に着くまでは『姉さんにこのことがバレたら間違いなく殺される……どうしよう』という思考が延々とループしていた。しかし、光樹は結果としてこの店まで叶絵と一緒に来てしまった。もはやどうにもならない。バレたら殺されるしかなかった。

 そもそも叶絵はどうして光樹を誘ったのだろうか? 誘い文句も「白戸くんにお話があるんです」というばかりだった。光樹はそれをまるで『高校で屋上に呼び出されて告白されるみたいだ』と連想した。冷静に考えれば愛の告白であるはずがないのに、叶絵の童顔と巨乳が光輝の思考を狂わせていた。しかし、それにしてもこの恋人ばっかりの店内と、『甘い唇』という店名はどうなのだろう。もしかしてワンチャンあるのだろうか。ないのだろうか。あったとしてもないとしても姉さんには殺される。もうしょうがないや、腹を括ろう。そう考えて、初めて光樹は真正面から叶絵を見据えた。

 叶絵は緊張した面持ちをしていた。その顔はどちらかというとシリアス寄りで、恋や愛に頬を染めている感じではなさそうだ。残念なことだった。

 その時、ウエイターが丁度水を運んできた。グラスは一つきりで、それは光樹の前だけに置かれた。光樹は不思議に思ったが、叶絵はそれを当然のこととして受け止めていた。その態度があまりに堂々としていたために、光樹からウエイターに水の数について注文をつけるのも躊躇われた。

「それで……お話なんですが」

「はい」

 いよいよ叶絵が喋り始めた。光樹は短く返事をしてから、少し気持ちを落ち着ける意味も込めて、水で口を湿らせた。

「白戸くんがこの質問をどう捉えるかは分からないんですけれど、単刀直入に聞きます。貴方は102号室で誰かと同棲していますか?」

「………………?」

 光樹は叶絵の質問に拍子抜けした。その上、質問の意味がよく分からなかった。より正確に言うならば、どうしてもう分かっていることをわざわざ再度確認するのか? というのが分からなかったのだ。こんな洒落たフランス料理店にまで呼び出した上に、質問することがそれ? という感じ。だから、長らく沈黙を返すことになった。

「ええと……、その紹介はこの間、済んだと思っていたんですけれど」

 ああそういえば、と光樹は思い出す。姉を紹介した後、叶絵は急に挙動不審になり、いきなり駆けていってしまったのだ。それから叶絵とは朝の通学時間に会うこともなく、いきなりこのレストランに連れ出された形になる。

「あの時バタバタしていましたものね。姉はちょっと人間不信で、あまり人付き合いを好まないので……。だから、叶絵さんと顔を合わせることがなかなかなかったと思うんですけれど、でも僕と一緒に確かに住んでいるんですよ。というか、そもそも姉の部屋に上京してきた僕が雪崩れ込んだっていうのが正確なところです。姉は去年から住んでいますよ」

 ちなみに光羽が人間不信というのは嘘であり、光樹と関わる可能性のある女性全員が病的に嫌いなだけだ。だから光羽は、理由がない限り女友達を作ることがない。ああいや……と光樹は思い出す。楠條院大学では珍しく一人女友達が出来たらしいけれど。

「そうですか……」

 これで説明は十分足りていると思ったのだけれど、相変わらず叶絵の表情は晴れない。それどころか深刻さを増しているように光樹には見えた。そこで光樹は気付いたのだけれど、もしかしたら叶絵が気にしているのは、光樹が姉と同棲しているかどうか、その真偽ではないのかもしれない。考えてみれば当然だ。既に叶絵に対して光羽は紹介済みなのだから。叶絵がそれを信じられなかった、いや、限りなく信じにくかったとすれば、それは叶絵にとって既知の情報と、光樹と姉が同棲しているという事実が著しく噛み合わなかったからではないのか?

 そして、叶絵にとっての情報源といえば隣室にほぼ筒抜けの薄い壁で……。

「…………」

 まあ、姉さんに隠すって概念はないからなぁ、とか、それにしても浦井さんの部屋の方から音が聞こえてきたことって不思議とないなぁ、とか現実逃避してしまう光樹だった。

 なるほどつまり。

 叶絵からすれば隣室から聞こえてくる異様に親密な男女の関係性が、姉弟ではあり得ないだとかそんなところだろうか。つまり、叶絵も日本人では一般的な近親相姦には理解のない人間ということであり、それは残念なことだが……と、光樹が好き勝手に叶絵の言いたいことを想像していると、彼女は全く別の方向性からの言葉を発した。

「気を悪くしないで欲しいんですけど……白戸くんのお姉さんって本当に現実に実在しているんですか?」

「へ? 姉が非実在青少年ってことですか? だとしたらいくらでもエロいことが出来て、むしろサイコーって感じですけれどね。なにせ現実には被害者が存在しないってことになりますから……」

 叶絵は光樹の言うことに幾分顔を顰めたが、すぐに首を振った。

「私が言いたいのはそういうことじゃないです。ねえ、光樹くん。私、あの朝、貴方にお姉さんを紹介されたあの日ね。示された場所に、ただ虚空が広がっているようにしか見えなかったのよ」

「はい……??」

 荒唐無稽な発言に、光樹も顔を顰める。叶絵のことはよく知らないなりに、世間話を重ねてきた隣人として、多少なりとも信頼をしてきたのだが、それが今、軽く崩れかけていた。

「それは姉がまるで幽霊か透明人間みたいに、浦井さんには認識出来なかった話ですか……?」

「そうです。私は光樹くんのお姉さんというのが、光樹くんの頭の中にしか存在していないのではないか、と考えています」

「はあ……!?」

 信頼はこの瞬間に完全に崩れ去った。

 その時、前菜が運ばれてきた。彩りが豊かなテリーヌだった。ウエイターが持ってきたのはまたも一人分だけで、その皿は光樹の前に置かれた。

 叶絵は自らには料理が提供されないのに悠然と座っている。光樹は叶絵がこのレストランの関係者なのではないかと想像する。だから、光樹をもてなすためにこの店に連れてきたのだ。

 しかし、そんな想像は光樹にとって今はどうでもいいことだった。

 テリーヌにすぐ手をつける気にもならない。

 光樹は一度大きく息をつき、努めて冷静になろうとした。

「姉は確実にこの現実に存在していますよ。浦井さんの目に仮に姉が見えないのだとしたら、楠條院大学の学生証をコピーして見せたっていいし、僕ら姉弟と同郷の波切って奴の話を聞かせたっていいですよ。僕としては逆に、姉さんが見えないっていう浦井さんの認識の方に問題があるんじゃないかと思うんですが……」

「そうですか……そうなのかもしれませんね……」

 どこか消沈した様子の叶絵に、光樹は少しだけ罪悪感を覚え、それを誤魔化すかのようにテリーヌに手をつけた。フランス料理にはそれほど詳しくない光樹だけれど、口の中に広がる酸味は心地よく思えた。

「いや、僕としてただ紹介の時に、うまくタイミングが合わなかっただけのように思うんですけどね。姉が玄関先で靴を履き替えている途中なのに、あたかも玄関の扉の外に今出てきたかのように、浦井さんに紹介してしまったとか。浦井さんも出社前で忙しかったでしょう。それでちょっと勘違いが生まれてしまっただけなんじゃないですかね?」

 言ってからテリーヌを平らげた。どうもフランス料理はちまちましているな、という印象を光樹は持った。が、それはこれまで彼が牛丼屋くらいにしか足を運ぶ機会がなかったからだろう。一品主食が出てくるだけの味気ない日々に彼が慣れ切っていたためでありフランス料理に罪はない。

「そうなんでしょうか……」

 叶絵は一気にしょんぼり落ち込んでしまったように見えた。

「それにしても浦井さんは、どうして姉が僕の妄想だなんて思い込んでしまったんですか?」

「……始まりは白戸くんの独り言でした。私はそもそも、白戸くんのお姉さんに会ったことはないですし、その実在を一度も認識したことがありません」

 音が筒抜けの隣室に住んでいるのに?

「どうしてこうもお互いの認識が食い違うのか不思議ですね」

 光樹はあまり独り言を言うタイプではなかった。つまり、姉との会話がなぜか叶絵には独り言として聞こえている、ということなのだろうか。

「そうですけれど……。ええと、私は最近までずっと102号室には白戸くん一人しか住んでいないと思っていたんですよ。それが最近、急に誰かと話しているかのような独り言が聞こえることが増えてきて……」

「はあ……なるほど」

 今度もまた光樹の方にだけヴィシソワーズが来た。もはや、叶絵の話についてはそこまで興味を抱くことが出来なかった。102号室で同棲している白戸姉弟を、何故か叶絵は白戸光樹一人だけだと認識する。しかし、現実に姉が存在する以上、間違っているのは叶絵の認識ということになる。その認識のズレについては、光樹はもう自分では正せないだろうと判断した。カウンセラーか精神科医の仕事ということになるだろう。

 それからも、叶絵は光樹の気を惹くように喋り続けた。タラのムニエル、豚肉のロースト、食後にはクリームブリュレとコーヒーが出た。叶絵との密会は少しばかり期待した流れには全然ならなかったけれど、しかし料理に罪はないので、光樹は全て完食した。

 相変わらず、叶絵の方に料理が運ばれてくることはなかった。

 そして、会計時に光樹の中ではこのレストランの関係者ということになっていた叶絵がごちそうしてくれるという展開もなく、普通に自分の分を精算することになった。料理を食べたのは光樹だけなのだから、支払いをするのも光樹だけだ。当然の流れではあるが、何故か釈然としない気持ちになった。

 店を出た後、光樹は叶絵に一度だけ聞いてみた。

「浦井さんって、この店のオーナーの娘とかではないんですよね?」

「いいえ。どうしてそんなことを思われたんですか?」

「だって、料理が一度も出されなかったし、ウエイターにも意識されていないようだったから、それくらい身近な人間なのかと……」

 いや、ちょっと待て、と光樹は思う。自分の『浦井さんはレストランの関係者だから料理を出されない』という考えは誤りだったとさっき考えたばかりじゃないか。そして、客がいるのに水も出さない、料理も出さないというのは接客業としてあり得ない。

 それはつまり。

 辿り着いたのはシンプルな事実だった。

 ――店員には叶絵のことが見えていなかったのではないか?

 叶絵は自分には光羽のことが認識出来ない、ということを言っていたが、それは逆で、あべこべで。

 歯牙にもかけていなかった姉の発言を思い出す。

「ねぇ、光樹、あんたいつも朝誰と喋ってんの? この間さ、紹介された浦井って女、私には姿形も見えなかったけど、あれって新手の冗談か何か?」

 姉が光樹に近づく女を無視するなんて日常茶飯事だ。だから気にも留めなかった。しかし、仮にあの時だけは姉が本当のことを言っていたとしたら?

『光樹の頭の中だけにしか存在しない女』というのは姉、光羽ではなくて、隣人の美人OL、浦井叶絵の方なのではないか――

 その疑念が生じた瞬間、一人きりで独り言を言いながら、フランス料理をパクついている自分の姿が明瞭に脳裏にイメージされ、光樹は悲鳴を押し留めることが出来なかった。

 まるであの朝を逆転させるかのように、叶絵から逃げるように駆ける光樹。

 そんな彼のことを、叶絵はいつまでも見送っていた。

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