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世界一簡単な世界滅亡  作者: 篠渕暗渠
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弐 隣人




     弐 隣人




 浦井叶絵うらい・かなえは考えるOLである。彼女はあまりOLとしてはあまり出来が良いとは言えず、だからボロアパートであるところの日暮荘の101号室に住んでいたりしたのだが、それはともかく。

 叶絵は考えていた。近年、都会における隣人関係とはいかようであるべきなのか、と。

 勿論、一般論として都会におけるご近所付き合いが今は相当薄くなってしまっているのは前提である。個人主義が強まって、ご近所さんとロクに挨拶もしない、隣の家が何をしているのかなんてとんと知らない、なんてのは良く聞く話であるばかりか、身近にいくらでも転がっている現実だ。

 その上、このボロアパート日暮荘は人の出入りが激しいらしい。普通に引っ越す人間もいるし、夜逃げする人間もいるし、首吊り自殺する人間もいるらしい。それをまるで気安い冗談みたいに大家に言われた時は、地方から出てきた叶絵も戦慄を禁じ得なかったものだった。

 しかし、そんな昨今の隣人付き合いの薄さ故に、あるいは日暮荘の犯罪的環境故に、だからこそ隣人が何をしているか気になるということも、十分起こり得る考えだと思うのだ。

 一切の防音機能がなく、叶絵の女の細腕でも殴れば穴が開いてしまいそうなプライバシーの欠片も感じさせない壁の向こうとなれば尚更である。

 有り体に言ってしまえば。

 叶絵は日暮荘隣室・102号室で一体何が起こっているのかが気になっているのだった。

 もっと言えば、102号室住人である白戸光樹という青年のことが気になっていた。

 このボロアパートは先述の通り、人の流動性が激しいため、大家からも周囲の家に引っ越しの挨拶の類はしなくていいと言い含められており、叶絵も自分が越してきた時、誰かが隣室に越してきた時等にも特に挨拶の必要を感じなかったのだが、彼はあちらから越してきたことを挨拶に来た。

「あ、今日から隣の102号室でお世話になります、白戸光樹と言います。春から大学に入学します。……一浪で。あ、それとこれ良かったらどうぞ」

「こちらこそよろしくお願いしますね。私は浦井叶絵と言います。OLやってます。……えーと、で、これは?」

「地元の名産品です」

「…………」

 光樹はすぐに辞したために、それから叶絵はまじまじと貰った手土産を観察することになった。パッケージには、白戸村名産品・たわし饅頭と書いてある。たわしのイラストも描いてあった。気になって中を確認して味見をしてみると、普通の茶色の饅頭だった。可もなく不可もない感じの。

 ネットで調べてみると、どうやら『たわし饅頭』というのはジョークパッケージというか、冗談のために自分でプリントアウトしたパッケージを既成品のパッケージとすり替えるというネタのようだった。だから、この白戸村というのも存在しない地名なのだろう。冗談としては気になる破壊力を持っていた『たわし饅頭』だけれど、それをわざわざ引っ越しの手土産に使うというセンスがまた微妙なラインで、叶絵が仮に気難しい中年男だったら、烈火の如くの怒りを買い常識を問かれていてもおかしくなかったかもしれない。

 その初対面の時から、何となく、そう何となくなのだけれど、叶絵にとって白戸光樹という青年は気になる存在になった。たわし饅頭のインパクトで、光樹の顔の印象は若干薄れていたのだけれど、それでもその落ち着いた物腰、ふざけたことをやっているのに冷静そのものの口調等は、何だかギャップを感じさせて、叶絵は少し好ましく思っていたのかもしれない。

 それから、光樹の通学時間と叶絵の通勤時間は被ることが多いのか、朝に顔を合わせることが多かった。「おはようございます」と挨拶を交わし、日暮荘を出るまでの廊下で、若干二言三言世間話をするくらいの間柄。それでも、他の住人とは滅多に顔を合わせることがなく、更に仮に見かけたとしてもなるべく関わり合いになりたくないオーラを発しているこの日暮荘においては、光樹の存在が少しだけ頼りになる存在と感じたというか。叶絵が仮に困ったことになったとしても、相談くらいは出来そうな相手が隣人としてそこにいるというのは心強いことだった。

 だから、そんな光樹が、夜な夜な苦しそうな呻き声を上げ、部屋にいる時に常に誰かと話している体の独り言を発しているとなれば、心配くらいはする。

 そう。叶絵は光樹が心配なのだ。

 隣人として心配なのだ。

 隣人ならこれくらいの心配はして当然だ、むしろするべきだ。

 別に叶絵は光樹に対して特別な感情を抱きつつあるわけではないし、OLと大学生というのは近いようでいて、社会人と学生という意味で明確に分け隔てられている存在であるということをきちんと意識する必要がある。そんな必要があるくらいに、意識的に壁を作り遠ざけないといけないくらいに、彼のことを気になっちゃってるわけ? という自分への問いかけは悪魔の囁きに近いから無視した方が良さそうだ。

 まず、叶絵としても、それがたった一日のことであれば何も気にすることはなかっただろう。誰かと喋るような声音の言葉。それは誰かと電話しているとも考えられるし、ちょっと痛いけれど、例えばヘッドホンをしながら見ているテレビに話しかけているとかそういう線も考えられた。

 しかし、それが毎日続けられると、ほぼ正確にその独り言の内容を拾うことのできる叶絵としては不安を掻き立てられた。光樹の話している内容は、少しばかり距離的に離れた、電話相手にしている内容ではあり得ないのだ。例えばだけれど、電話相手に「そこにあるリモコンとって?」などと言うだろうか? それは普通に考えておかしいのではないだろうか。光樹の話している内容は明らかに距離的に近くにいる誰かに向けられていた。そして、それが独り言であり、返答者がいないという点を除いて考えるならば、その会話内容は光樹が同棲している相手に向けられていると考えるのが自然だった。

 それは一体、誰なのだろうか? その誰かは現実に存在しているのだろうか?

 ――それとも、光樹の頭の中にしか存在していないのだろうか? 叶絵が知らない間に、光樹は精神を病んでしまったのだろうか。

 それは仕事以外で、叶絵にとって今一番切実な問題になりつつあった。

 だから、いつも通り、彼に挨拶してみようと思ったのだ。

 少しばかり世間話をして、それで光樹の精神の具合を計ってみようと。

 叶絵にとって、それは小手先調べのジャブというか、ちょっとした事前調査くらいのつもりだった。

 まだ、光樹の抱える問題に真正面から向き合うくらいの覚悟が、彼女にはなかったのだ。

 しかし、その朝に彼女は思い知ることになる。

 彼が以前の彼ではないことを。

 白戸光樹が変わってしまったことを。 


 木曜日の朝、家を出た叶絵は、その少し後に隣室から出てきた光樹を見た。

 今日ばかりはちょっと隣の家の声や物音に耳を澄ませて、タイミングを見計らい、偶然を装った。

「おはようございます」

「ああ、おはようございます。何だか久し振りな気がしますね。浦井さん」

「ええ、そうですね。それで白戸くん、私ちょっと気になっていることが――」

「え? なんですか? あ、そうだ。浦井さん。その前に人を紹介していいでしょうか?」

「……はい」

「何でか浦井さんとはこれまで顔を合わせたがらなかったんですけれど。これ、僕の姉の白戸光羽です」

 光樹は開いたままの玄関先を手で示していた。

 しかし、そこは虚空だった。

 誰もいなかった。

 叶絵は混乱し、とうとう光樹の頭のおかしさを目の当たりにしてしまったと思った。

 その直後、


「……おはようございます」


 何だかそんな不機嫌そうな硬い女性の声が聞こえたような気がして。

 現実が遠くなった。

 それくらいの真実味を感じさせるくらいに、光樹の妄想は完成度が高いということだ。

 なおも、その『誰か』と喋り続ける光樹に、

「あ、おはようございます。じゃ、また今度……」

 と、ごにょごにょもにゃもにゃと呟いて、日暮荘の廊下を走り抜けた。


 好感を抱いていた年下の大学生の男の子は、頭の中に空想上の姉を飼い始めたようです。


 叶絵は泣いた。

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