壱 姉弟
壱 姉弟
言うまでもない前提、世界的な常識、共有出来なければそれは人間ではないというレベルの真理として、姉弟以上の関係はないとされる。
勿論、姉弟愛こそが人間愛の中で至高にして究極の物であるし、そもそも『姉弟』という単語の二つの文字の組み合わせ、そのバランスが素晴らしいと思わないだろうか? 思わないという人は目が腐っているのでどうぞ眼科へ。
……とそんなことを常々考えているところのクレイジーブラコンバカ・白戸光羽は最近落ち込んでいた。弟がおかしいからである。弟の自分に対する愛が足りない……このままでは正気を失ってしまいそうだ。三等親の壁を乗り越えて夜這いを掛けて出来ちゃった婚とかしちゃいそうだ。ヤバい、このままではヤバい……と無闇矢鱈にハイテンションを気取ってみてもなかなか光羽は普段の調子を取り戻せなかった。重症である。
光羽の弟、白戸光樹はこの春に光羽が通っている大学に一浪で合格した。白戸姉弟の実家は地方にあるので、光樹も光羽同様に入学と同時に上京した。
そして、白戸姉弟による夢の同棲生活が始まる筈だったのだが――しかし今の破滅的な現状を見よ。弟が今見せているのは愛ではなくて、実家生活ではひた隠しにしてきた本性なのだ。
光羽の肌には見える所にすら、もう殴られた痣の痕があった。ちょっとしたDV彼氏気取りで、今の光羽は夏だというのに長い袖の服を着なければ大学に行くことすら憚られる。
……どうしてこうなったんだろうか。
光羽もこれまで憧れ望んできた同棲生活中に、何かと制約が多いように感じられた実家での日々を『あの頃は良かった……』等と回想する羽目になるとは思ってもみなかった。
でも、あの頃は良かったよなぁ……。
光羽にとって光樹は、実家においては『授業中以外は常に一緒にいる存在』だった。でも、自宅での部屋は別々だったりした。だから、親の監視下がなくなった上で、自宅でも同じ部屋で寝る(何分白戸姉弟が住んでいる日暮荘はボロアパートで狭いため、寝室を共有している……流石にベッドは別だが)ともなれば、その関係性は一段階くらい進化するのではないか、という期待感があった。夜這い掛けられるとか朝に勃っているとかそんな感じの。寝ている間にパジャマのボタンを外されて、ついでにブラを外されて胸を揉まれるだとか、そんな事を光樹にされたとしても光羽は許すし、むしろやって欲しかった。ずっとそういう事を光羽は妄想してきたのだから。
でも光羽が常々思う事だけれど、現実とは妄想の通りには運ばない物だ。個人的な理想をいつも裏切ってくるのが現実って奴である。
光樹はどうやら光羽の事が嫌いのようだ。今の光羽はそう認識している。
光樹は実の姉を殴りたかったし、侮蔑の視線を向けたかったし、道具扱いしたかったし、肉体的にも精神的にも痛め付けたくて仕方なかったのだ。でも、別にそれは耐えられる。光羽は光樹に向けられるなら、どんな感情でも受容出来るし許容出来る。
究極的に言って、このまま殴られた痕が増えていって、そして何らかの弾みで何処かに頭を打ち付けて自分が光樹に殺されてしまっても、別に光羽は構わないと思っている。
一番許せないのは、弟に他の女の影が見える所だった。しかも一人じゃなくて複数いる。東京に来て、光樹は根本的に変わってしまった。その理由が、どうしてそうなってしまったかの根幹が、光羽には見えていない。
今日も朝が来る。何も変わらない、いつも通りの朝だ。居間の机に朝食の品々が並んでいる。
「ね、ねぇ、今朝も一緒に朝食を食べて行ってくれないの? 光樹……せっかく貴方が作ったんじゃない、サラダを……」
「サラダなんて千切っただけだよ」
「他にもご飯だって炊いてくれたし、味噌汁だって……」
「ご飯はレンジでチンしただけだし、味噌汁もお湯を沸かしただけ。ただのレトルトとインスタントだよ。姉さん、僕は朝食は作ったけれど、そこに手間も愛情もないんだよ。そして、姉さんと朝食を食べる時間もないんだ」
「なんで……」
「僕は姉さんが嫌いなんだよ。一緒の空気を吸っている時間を、少しでも短く留めたいんだ。それでも朝食を作っているのは、姉さんに生活能力がないから。せめてもの温情なんだ。仕送りも少ないから毎食外食する余裕はないしね」
「光樹、サラダもこんなにシャキシャキよ?」
光羽は光樹の口元に向けて、サラダの刺さったフォークを運ぶ。その声に反応し、鬱陶しそうに顔を振り向けた光樹の頬にフォークが刺さった。
「あ、ごめん、ごめんね、光樹……」
光羽の目は虚ろで、注意力散漫のように見えたし、その声にもまるで感情が篭ってなかった。
「ねえ、僕もちょっと流石に苛々してきたんだけど……」
はぁ、と光樹は溜め息を吐いて、数秒の間、光羽の顔を見ていた。その眼差しが険呑とした輝きを帯びる。
「姉さんも殴られたくてそんな振る舞いをしてるんでしょ? いちいちドン臭くてもううんざりだよ」
光樹は長く息を吐き、俯いた後に光羽を殴りつけた。光羽の身体は一脚の椅子を巻き込みつつ倒れた。
「大丈夫? 姉さん」
光樹はからかうような口調で言ってから、光羽の身体に馬乗りになる。
右頬を遠慮なしに殴った。
「大丈夫かなぁ? 姉さん」
左頬を殴った。
「大丈夫だよね、姉さん」
ゆっくりと立ち上がった光樹は、光羽の側頭部に足で圧力を掛け始める。
「大丈夫だよ、姉さんは……」
徐々に力を込める。光羽はギチギチと自分の頭蓋骨が鳴っているような感覚を覚える。
「こんな事をしても、姉さんは壊れないから」
やがて、全体重を乗せたかのような一瞬の後、ふっと重圧は解かれ、光樹は光羽から離れていく。
「さて、そろそろ僕は大学に行くよ。遅れちゃうから。今日も一日、頑張らなきゃね」
光羽は無気力に天井を眺めている。その目から涙が零れた。涙は髪を濡らし、徐々にその温度は下がる。ベッタリと光羽の頬に髪が貼りつく。
光羽はこれまでの光樹の暴力を反芻してしまう。「姉さんは髪が短いから、掴みやすくていいね」と髪を掴まれて壁に顔を押し付けられたことを思い出す。自分の身体的特徴が、全て光樹には弄んで踏み躙る為の要素であるという気がする。
でも、自分が光樹から如何なる暴力を振るわれても如何様に弄ばれても光羽は気にしない。けれど、徐々に光羽が大学に行きづらくなる中で、光樹は何をしているのか――誰と会っているのか、それを考えると胸が軋んだ。
それを考えると光樹を呪いたくもなる。弟のありとあらゆる自由を束縛したくなる。
光樹は『大丈夫だ』と繰り返していたけれど、とっくのとうに光羽は大丈夫じゃなくなっているのかもしれない。
いつまでも居間に横たわっている訳にはいかないと光羽も思うけれど、しかし光樹のように大学で『今日も頑張る』気にもなれない。立ち上がってしばし茫然とした後、光羽が向かったのは寝室だった。ベッドの下に潜り込む。自分の物ではなく、光樹のベッドの下だ。最近病んでいる、そして病む以前から重い姉である光羽が、こうして光樹のベッド下に潜り込むのはこれまで一度や二度ではない。布団から漂ってくる光樹の香りに何となく慰められつつ軽く興奮しつつ、しかし、ベッドそのものに入り込むのではなくベッドの下に潜り込んでいるこのシチュエーションが、自分の今の対弟関係における立ち位置の低さという物を実感させてくれる。自虐的な気分にもなった。
こうやって暗い安寧に身を委ねていると、光樹との張り詰めた日常の流れの中では冷静に見つめる事の出来ない幾つかの要素を見つめる事が出来る。この寝室を含めた光羽と光樹のこの家には、数え切れないくらいの盗撮カメラと盗聴器が置いてある事。光羽が住んでいる部屋から見て、右隣である101号室、真上に位置する202号室、共に無人である筈のそれらの部屋から、こちらを伺っているような人の気配がする事。そして、それらは少なくとも全てが光羽の錯覚ではない事を、彼女は既に知っていた。
今の光羽と光樹は、彼女達以外の何人もの人間に包囲されているようなものだ。結局、それが一番の問題の根幹だ。それと比べれば、光樹がDVを振るってくる事などは、ただの気分の問題に過ぎないと思える。今はそういうムードになっているだけ。
こうやって上京してから、むしろ余計なしがらみが増えた気がする、と光羽は思う。光羽が注視する必要のある人間が増えた。最も管理下に置きたいのは光樹そのものではあったけれど――光樹を完全に拘束し、例えば猛獣用の檻とかに閉じ込めて監禁したとしたら、それはそれで何か違う気がする。『上京した弟と一緒の大学に通う同棲ライフ』というお題目から外れてしまう気もする。まあ、それは最近光羽が大学に通いづらくなってきている事で、既に崩れつつはあるのだけれど。
これだったら実家に住んでいた時の方が、平和だったし自由だった気もしてきた。あそこではなかなか邪魔も入らなかったし、光羽と光樹、そして幼馴染の波切江都ではしゃぎ回る日々は、何だかんだで楽しかった。大学に入ってからは江都ともあまり会わなくなってしまったけれど、彼すらも光羽から弟を取り上げようとしているのではないかと、警戒するのはやり過ぎだったかもしれない。
光羽は現実逃避的に実家での朝を頭に思い浮かべた。
しかし、そのせいで逆に今朝の光樹の対応の酷さが対比されて浮かび上がってしまい、光羽の気分は更に重く打ち沈んでしまう。
それにしてもあの頃、江都は結構図々しい奴だった。
「あ、光羽と光樹、まだ眠っているんですか? いえ、当然まだ六時ですから、登校には早いですけれど、今日はちょっと片付けないといけない用事があるんですよ。丁度朝ご飯を作り始めた所だからついでに食べて行く? 良いんですか? あ、まあいつも結構頂いちゃっていますよね。すいません。ありがとうございます」
奴はいつもこんな感じだった。
朝食の席に家族と江都が揃うと光樹も呆れる。
「今日も君は良く食べるね。この中で一番食べるのは江都だね」
「いやいや、お前らが食べなさ過ぎなんだよ。ホントに成長期か? 大きくなれないどころか、栄養失調で枯れ果てるぞ?」
「はあ……この態度の大きさは何なのかしら」
光羽は溜息を吐いた。
「態度デカくないって。いやホラ、白戸のお母さん的にも、一杯食べてくれた方が嬉しいというか、ね?」
「どんな量でも美味しく食べてくれれば私は嬉しいわ」
ニコニコと笑う光羽の母、白戸媛子はどこの誰でも許容する懐の広さを備えていた。
「美味しく食べられるに決まっているさ。今日も母さんの料理は絶品だからな!」
母の料理をベタ褒めする光羽の父、白戸映司はいつも楽しげで、更にいつでも愛妻家だった。
今でも光羽は、一般常識とはかけ離れた自分達のような姉弟が、あの明らかに善人然とした、逆に不自然なくらいに暗い所のない両親から産まれた事を不思議に思っている。
そして、あの頃は何よりまだ優しい光樹が居てくれた。
江都が一足先に外に出た玄関先で、
「ねぇ、今日は行ってきますのキスをしてはいけないの?」
言いながら光樹が私の唇をなぞる。
「今は駄目。江都にバレちゃうでしょ?」
それでも私は、唇を押す光樹の指の感触に、胸がときめかずにはいられなかった。
あの頃には多分、愛があった。父母に似たベタベタと甘い、それでも幸せな相思相愛な関係が。
しかし、それはただ単に父母の良い影響を受けてそうなっていたに過ぎないのか。
実家を出て、二人きりの同棲生活を始めた姉弟の関係は、暗く、陰鬱で、どうしようもなく重い。
光羽は、仕方ないのかな、と思う。
光羽と光樹は二人ぼっちではどこまでも堕ちていくしかないような、そんな姉弟関係を築いていくしかないような、そんな人間性をお互いに有してしまっているのか、と諦めの境地に至りそうになった。
ベッドの下の光羽から時間感覚が消えていく。
時計を見れば、『まだこれしか時間が経っていないのか』と暗くなり、あるいは『もうこんなに無駄な時間を過ごしてしまったのか』と落ち込んでしまう。どちらにしても良い影響はない。
光羽の頭の中を、今の生活の中で繰り返されたDVの数々と、実家での幸せな日々が、延々とループする。
ループして。ループして。ループして。
どうしようもないくらいにイメージが混在し、ドロドログチャグチャにミキサーで撹拌したみたいになって。
それで、光羽は何だかあの頃に戻れるような気がしてきた。
そう思えるようになった時には、時刻は光羽が気付かない内に深夜を迎えている。
光羽が潜んでいるベッドの上には、光樹が寝転がっている。
寝顔は、実家と何ら変わりがないように思える。しかし、光樹が起きればまた地獄のような時間が始まるのだ。
光羽は冴えた案を思いついた。
この安らかで穏やかな光樹を、永遠に保持する方法。
あぁ……光樹の息の根を止めてしまえばいいんじゃない?
グチャグチャの脳味噌から沢山の汁が溢れ出てくる気がする。全身の細胞がそのグッドアイディアに快哉を叫んでいる。
「そうだ……光樹なんて、死ねばいい」
光羽は静かに光樹に馬乗りになった。光樹が目覚めるのを心配するような余裕は彼女に既にない。ただ、これは大切な儀式だから。密やかに行われる必要があると理解していた。
光羽の手が光樹の首に掛かる。ゆっくり、じわじわと力が篭っていく。
光羽の口から意図しないままにブツブツと呪詛が漏れる。
「死んじゃえ……死ねばいい。もういい。私の思い通りにならないならいい。あの頃のままでいてくれないなら、いい。もうどうでもいい。死んでいい。死ねばいい。死んじゃえ、死ね、あ、は。あぁ……はぁ……死ね……ふふ」
苦しそうに悶える光樹の顔が可愛いと思った。もっとこの顔を眺めていたい。ずっとずっと、光樹の首を絞めていたい。
しかし、この行為を続けていれば、必然的にその時間は終わってしまう。
その事を光羽の頭は実にノロノロとしたスピードで理解した。
首から手を離す。
光樹の首には、光羽の手の跡がくっきりと残っている。
光羽は光樹に問い掛ける。
「起きてるんでしょ?」
光羽は部屋に仕掛けられた無数の監視カメラに問い掛ける。
「見てるんでしょ?」
光羽は上階である202号室と101号室において、壁や床に耳を押し当て息を潜めている誰かに問い掛ける。
「聞いてるんでしょ?」
深夜の102号室に、重く押し殺したような、それでも堪え切れないというような、光羽の笑い声だけが響く。
「あは、は、ぁ……、ふ、ふふ……あ、はは、はは、は……」
そしてその様子を、声を、光羽に指摘された全ての対象が見聞きしていた。