拾壱 正体
拾壱 正体
白いカーテンがはためいている。光羽は一人部屋の病室の窓を全開に開き、それによって靡くカーテンが窓際のベッドで身体を起こす自分の顔に当たるままにしていた。何だかそうしてただただぼーっと、何をするでもなくじっとしている。
光羽は光樹が病室の引き戸を開けてから数秒後に、
「……あら、来たの」
そんな風に言って微笑んだ。
何だか妙だ、と光樹は思う。カーテンが顔に当たってもそのままに放置する等、そういった奇異な行いは光羽らしいと感じられる。にも関わらず、いつもと違う、と光樹は思う。それはこの東京に出て来てから、ずっと光樹が光羽に抱いてきた違和感のような物が、初めて明確に形になったかのような感触だった。これまでもどこか東京の光羽と地元にいた頃の光羽は違うと思っていた。だけれど、今くらいに明確に光羽がこれまでと別人になってしまったかのような、そんな疑念に囚われた事はない。しかし、光樹は自分が何故そんな風な感触を得たのか、光羽の具体的な何処が変わったのか、それを指摘する事も出来なかった。
「あらあら、江都も来たの。貴方、光樹とのBL疑惑を払拭しないとぶっ殺すわよ」
「そんな身体じゃあ無理だろ。お前、ホントに大丈夫だったのかよ、ミツ」
光羽の右手、左腕には包帯が巻かれ、その顔もガーゼや湿布で半ば隠されている。
「大丈夫じゃないから入院しているんでしょうよ。はあ……しばらくは身動き取れないでしょうね」
「姉さん、最近みたいなヤンデレ彼女演技はいいの?」
「いいの。今は江都がいるし、あれは二人きりの時限定よ。というか、まあ流石に今の状態だとDVごっことか笑えないしね……」
「そうだね。流石に僕も今の姉さんに暴力を振るったりだとか、あるいは首を絞められたいとは思わないよ」
「……おいおい。俺の目の前だっていうのに瞬時に姉弟のディープな会話に入るのやめてくんない?」
「あはは。まあいいじゃないか、江都」
「何がいいんだよ」
江都が光樹の事を小突いてきた。
「ああ……取り合えず光羽が健在で安心したよ。後、一つ聞きたい事があるんだが」
「分かってるわよ。一応、光樹から江都を見舞いに連れて行くかもって聞いてから、話す準備はしてたから。私達の心中自殺の噂の事でしょ?」
「日暮荘で光樹と大体話の整理はしてきた。でも、光羽の動きとか俺達二人じゃ追い切れない部分も当然あるからな」
「……ちょっと待って。ねえ、江都。まさか貴方、日暮荘で光樹と二人きりで――何をしたって?」
「だから話をしただけだっつってんだろうが! いやマジでBL疑惑とかやめろよ。鳥肌が立っちまうよ。大体俺はノーマルで、普通に恋人だっているんだからな」
「知ってるわ。久留火折風さんでしょう?」
「フルネームまで把握してんのかよ……」
「江都とは会ってないだけで大体の人間関係は把握してるしね。江都の恋人の久留火さんが、私の友達の隠子ちゃんと親しいっていうのには驚いたけど」
「ふうん。そこも知ってたんだな」
「隠子ちゃんは私ラヴだからね。百合百合よ。私が話して欲しいと言えば一から十一くらいまで、つまり聞いていない所まで、根掘り葉掘り教えてくれるわ」
「なるほどねぇ……」
「それで結局、江都はノーマルなの? ノーマルを装ったバイなの? 久留火さんは実は偽装彼女で光樹が本命とかだったら許さないわよ?」
「俺はお前の想像力の豊かさが恐ろしいよ!」
「……そろそろ本題に戻ろうよ、二人とも。今回の一連の件について、もう一度整理するんでしょ?」
「光樹が言うならいいわ、分かったわよ。まず、今回の一件は光樹が書いた小説『幽霊』に端を欲しているわ。別に書かれている物語に問題はなかった。私達は楽しく『幽霊』に着想を得たDV彼氏&ヤンデレ彼女プレイを楽しむのにその物語を使っただけだったし。でも、そのモチーフには大きく問題があったわね。私がガチの嫉妬を燃え上がらせたのはそこだった。『幽霊』には私以外に三人の女がモチーフとして使われていた。その内の一人の隠子ちゃんには温情を示してあげるとしましょう。あの子は私が好きなのであって、光樹には何一つの興味関心もないから。むしろ嫌いらしいから」
隠子は光輝に何一つの興味関心もなく、むしろ嫌いなのか、と彼はちょっぴり落ち込んだ。江都の話では隠子は折風の前では蜜葉という光羽の偽者として振る舞い、そしてその設定上、光樹の偽者である光輝と付き合っている事になっていたらしいのだがそれはいいのだろうか。今の話しぶりからすると、光羽はそこまでは知らなかった可能性が高い。下手に話すと無駄な血が流れそうだ。
「残りの二人についてだけれど、まず一人目はこうして私を病院送りにしてくれやがった黒い襤褸切れ女ね。アイツの名前は笹原雅日っていうの。普段は黒隠黒斬っていう陰陽師として活動しているみたい」
「凄い中二病的なセンスだな……」
「ちなみに最強同盟という謎の団体に所属しているらしいわ」
「ホントに謎だね」
「でも、肝心の現在の所在地は掴めない……常に住所不定無職を貫いているらしいから」
「つまりはホームレスみたいな奴なのか?」
「不明よ! でもいつか必ず十倍二十倍三十倍いいえ百倍の苦痛を味合わせてみせるわ……!!」
「今度は大怪我で済まない気がするから、俺としてはもう関わり合いにならない事を勧めるけどね」
「……ふん。まあいいけど。話を戻すと、モチーフにされた女の中で最後の一人が私にとっては大問題だった。本当に光樹が誰かと付き合い始めたんじゃないかって思ったから」
「浦井叶絵さんの事だね」
「ミツ、結局浦井さんっていうのは実在するのか? コウは浦井さんを101号室の住人で、毎朝挨拶して世間話をする間柄だって言った。だけど、実際には101号室には誰も住んでいない。蜘蛛の巣が張ってて、長期間玄関から廊下に通り抜けた人間すらも居なさそうだった。お前は本当の所を知っているのか?」
「結論から言ってしまえば、浦井叶絵は幽霊よ」
「はあ?」
「えっ?」
光羽はテンションも性格もおかしい人間だが、こういったオカルトめいた冗談を言うタイプではない。というか、表情からして真剣に彼女は言っているようだった。
「だから、浦井叶絵は実在しているとも実在していないとも言える。正確に言えば、実在していた彼女が今は幽霊として残留している、という事かしらね。101号室は三年前までは人が住んでいたのよ。浦井叶絵という女性が住んでいた。そして、彼女は何らかの原因で死んだ。それ以降、あの部屋は賃貸の募集を行っていないらしいわ。管理人から聞き出した話よ」
「……ちょっと待て、ミツ。お前は幽霊の存在を前提として話をしているのか?」
「当然じゃない。これで全部説明がつくでしょう? 分かりやすく言うならば、101号室の地縛霊だった浦井叶絵は、忘れ去られた存在だった。それを光樹が認識した――地縛霊から光樹に霊として取り憑いた状態に変わった訳。だから、浦井叶絵は光樹にしか認識出来ない存在。私には見えない。レストランにも行ったみたいだけれど、当然、光樹は一人だけで食事して、虚空に向かって喋りかけるような男として周囲には見えた事でしょうね。これでもこの真相に至るまでは相当やきもきしたのよ? 私に黙って光樹が誰か女性と食事に行くなんて……あり得てはいけない事だもの。でも、あのか弱い幽霊なら、今頃きっと光樹に見放される事で消え掛けてるでしょ。もう気にする必要なんてない」
「本気なのか、ミツ」
「勿論よ。筋は通ってるでしょ?」
呆れたような溜息を吐く江都の様子を伺いつつ、光樹は光羽の話を頭の中で整理しようとしてみる。確かに筋は通っている。だけれど、あくまでそれはそういう風に説明出来るというだけだ。例えば、ちょっとここ数時間程の記憶があやふやだったとする。現実的に考えればちょっと微睡んだくらいの事なのだろう。しかし、ここにUFOにアブダクションされていた為に記憶があやふやなのだ、という筋書きを挟む事は出来る。それでも一応お話の筋道は通る。しかし、現実味はない。光羽の話にも同様のリアリティの欠如を感じる。
しかし、にも関わらず、光樹は納得していた。叶絵が光樹だけに見える理由。何故か光樹の事をあれだけ気に掛けてくれた理由。それは叶絵が光樹に取り憑いた、光樹を拠り所とする幽霊だったからなのだ。そんな存在を、光樹は振り払ってしまったけれど。
「ねえ、姉さん。もし仮に浦井さんが幽霊だったとしよう。その浦井さんからは姉さんが見えていなかった理由も説明出来たりするのかな」
「おい、コウ。ミツの悪ふざけだろ? こんなん。お前は信じるのか」
「ちょっと江都は黙ってて。これは私達姉弟にとって、大事な質問よ。とうとうここまで来たかって感じだけれどね。結構、象徴的なシーンって感じ。光樹が私に疑問を抱き、その正体を確認するような質問をする事。それは設定した一つのキーに相当すると考えていいだろうからね。それじゃ、ゲームオーバーね……先に言っとくわ。さよなら、光樹」
そして、光羽は愉しそうに言い放った。
「私は――悪魔よ」
その瞬間、部屋の明度が数段階下がったかのような錯覚が光樹を襲った。酷く頭が痛む。今、何かが致命的なまでに終わってしまった実感があった。そして、目の前にいる光羽は、光羽でありながら最早光羽ではないのだという確信で、胸が満たされていく。そして、そうした一連の流れは姉弟だけが共有する物で、江都はその外側でただ取り残されたように戸惑っているだけだった。
「悪魔である私、幽霊である浦井叶絵。どちらもこの現実に存在するように見えつつも、けれど本質的に属する世界は別にある。私の属する世界と、浦井叶絵の属する霊界。現実において、別の異界の住人が遭遇するとその姿を視認出来ない事があるの。今回もそのケースね」
「ミツ……お前の言っている事が何一つ分からねえよ。いよいよ頭がどうかしちまったのか」
江都の吐く悪態が、光樹には遠い。光羽の言葉で、頭の中がグチャグチャになってしまっている。
「姉さん。さっき姉さんは、『さよなら』って言ったよね。それってどういう意味?」
「光羽としての私は、そろそろ終わるって事。いや、そんな事がどうでも良くなるくらいに、もう終わらせるけど」
「二人の世界に入ってんじゃねえよ。一体今度はどんな妄想を立ち上げたんだ? 俺にも分かるように説明してくれるか?」
苛立ちからか多少嘲りを込めて笑う江都に、光羽は一冊の大学ノートを投げて渡した。それはいかにも使い古されたそのノートは、光樹が創作に使っているノートだ。光樹の創作は趣味の範囲のもので、彼自身それほど書く速度が早くはないので、大学ノートでも使い切るのに二、三年は掛かる。
「姉さん、それは……やめてよっ! 江都、読まないでくれ!!」
光樹は自分自身がどうしてそこまで焦っているのかが分からなかった。たかが創作ノートだ。ただし、これは羞恥心ではない。自分の書いた拙い創作が幼馴染の目に触れて恥ずかしいといった感情ではない。それはもっと、致命的な。
世界が終わってしまうような。
自分が消えてしまうような。
しかし、制止は効果をなさず、江都は大して興味なさそうにしながらも、創作ノートを開いてしまった。
「ああ……」
光樹の絶望の呟きが漏れた。
江都の動きが固まった。息すらしていないかのように身体が硬直する。そんな状態の中、彼の目だけが動いている。読み終わると最小限の指の動作でページを繰る。彼はただそれだけをする機械になったように、ただ光樹の書いたノートを読み続ける。
そして、ノートから黒い影が伸び、徐々に江都の身体の上を這っていく。白昼の昼間にありながら、江都の身体だけが漆黒の闇に置かれたかのように黒く染まっていく。完全に江都の身体が覆い尽くされると、次の瞬間、それは江都の身体ごと消失していた。
大学ノートが軽い音を立てて落ちる。
「姉さん……これはどうなっているの?」
「まだ思い出せないんですか? 仕方ない兄さんですね」
光樹が問い掛けた光羽は、今まで見た事がないような表情を浮かべていた。斜に構えたような、無気力な瞳。決してこれまで繰り返されたような演技ではなく、光羽という本質自体が塗り替えられたかのような感覚。
「――君は誰なの?」
「誰だとは結構な質問ですね、兄さん。もうこのバカンスを終了させるフラグは立ったでしょう。『私の人形に兄さんがその正体を問い掛ける』。『兄さんの人形が書いている創作ノートを誰かが目撃する』。二人分揃ったんだから、そろそろ終わりにしましょうよ。それともその人形にまだ愛着があるんですか?」
「何を言っているの……?」
「はあ……いつになったら起きるんですか。あまりにも寝坊助だと呆れちゃいますよ……」
光樹は今の状況を理解しようと努めてみる。まず、今話しているこちらを『兄さん』と呼んでくる誰かは、光樹の知る光羽ではない。それだけは確信出来る。誰よりも光羽の事を知っている光樹だからそれが分かる。
それに、この誰かさんもまた、本当は光樹に話し掛けているのではないらしい。
誰かさんは光羽と光樹を人形扱いしている。そして、光樹の中にいる何者かを『兄さん』と呼んでいる。どうやったかは知らないが、結果として江都を消し去る事になる選択に些かの躊躇も覚えていない。人間とは全く別の基準を元にした存在であるらしい。
「江都は一体どうなったんだ?」
「それは兄さんの方が分かっていると思いますけれどね。自らの魂に取り込んだんですから。そういう『設定』にしていたんでしょう?」
「話が通じないな……」
「そろそろ出しゃばるのを止めてくれませんか? お人形さん。そういう契約になっているんですから」
「何を、訳の分からない、事を、」
言葉が続けられなくなる。光樹は自分の内側から心臓を握られたかのような苦痛を感じた。
姿形は何一つ変わらない筈なのに、その漂わせる雰囲気や仕草だけで、はっきりと別人と感じられる程に、光羽という存在を掌握してみせた誰か。
そうした誰かに相当する何者かが、光樹の中にもいるのだ。
架空の心臓が握り締められていく。光樹の魂が引き搾られていく。そのやり口には、光樹を圧殺するのを愉しんでいるような雰囲気すら感じられた。
そして、最後には弾けるような感触を残して、光樹の魂は破裂した。
自分という存在が急速に消失していく、全てが薄闇に包まれていくような喪失感を経て、光樹は自分が何処かに吸収されていくのを感じた。それは圧倒的に膨大な質量で、光樹という残滓はあっという間にその一部になり、もはや彼が自分自身として捉え得る全ての感覚は消え去った。
光樹の魂が消え去っても、病室にその身体は残されている。
光樹を消し去った何者かは、傲岸不遜な態度で光羽の身体の中に巣食う誰かに話し掛ける。
「――よう。こうして対面するのは久し振りだな、我が妹」
「ええ。本当に久し振りですね。私は些か待ちくたびれましたよ、兄さん」




