拾 物語・下
「僕が浦井さんとレストランに行ったのは、最近重苦しさに満ち溢れる姉さんからちょっと逃げたかったのもあったし、あと頑なに浦井さんの存在を認めない姉さんへの当て付けもあった。だけど、姉さんは存在しない浦井さんという架空の存在を盾にして、僕が誰か親しい女性を作っているのではないかと妄想したんだね」
「そして、更に病んだ、と。いや、何で浦井さんと夕食に行っちゃったんだよお前」
「まあ軽率だったとは思うけれど、その晩に僕も首の薄皮一枚をカッターナイフで裂かれたりしてるから許してくれない?」
「完全に殺されかけてるじゃねえか、ミツに……」
「あの時はちょっと不味かったね。そこから姉さんは本格的に体調を崩しちゃって、丁度休日になったのもあって、僕は家で看病をしてたんだよね」
「ふうん。それで?」
「襤褸切れ女に襲撃を受けたんだ」
「何言ってんの?」
「いや、だから姉さん、今入院してるんだよ。ちょっと前から日暮荘辺りをうろついていた襤褸切れ女が、突然『警察だ!』って叫んでドアを蹴破って侵入してきてさ。僕を凄い力で壁に叩きつけて、そして、姉さんを散々殴った後に、逃走していったよ」
「ミツ大丈夫なのか?」
「うん。医者は『生命に別状はない』って言ってた。そのセリフをまさか現実で耳にする事になるとは思っていなかったけど」
「そうか……」
「まあ、電話で呼んだのはそれもあってさ。江都も授業あるだろうし、別にそこまで時間を争う状態でもないから、その後で二人に病院にお見舞いに行こうかな、と思ってたんだ」
「そんな所に俺が授業をサボってきたって訳だな」
「そうそう。ま、この話が一段落ついたら一緒にお見舞いに付き合ってよ」
「勿論」
「じゃあ、話の続きだけど、意味不明な侵入者に暴行を受けて、姉さんもいよいよ追い詰められちゃってね。それでまあ、ストレス発散の為なのか、親戚で僕達姉弟の事を毛嫌いしてた園部さんっていう人に電話を掛けたんだ。母さんを騙ってね。僕達姉弟は心中自殺しました、ってね」
「その意図はどこにあるんだ?」
「要するに園部さんとの関係を断ちたかったんじゃない? その機会に使ったというか。僕もあの人、ニガテだし」
「大学中にもその心中自殺の報が出回っているのは?」
「そっちも勿論姉さんの仕業だね。心中自殺なんて報を流して、しばらく僕と引き篭もっていれば、例えその後に僕達が大学に復帰したとしても僕に寄りつく女はいないって判断じゃない?」
「自分達の心中自殺の報を流す、頭のおかしい姉弟って印象を強める事で、近付く人間をシャットしたって事か」
やはり、光羽の光樹への執着は、極まった地点にまで達してしまっているらしい。勿論、そこに至るまでには、美人OL叶絵の存在や、襤褸切れ女の理不尽な暴行等、姉弟を取り巻く様々な出来事があった訳だが。
「いよいよ、ミツの事が心配になってきちまった。とっとと見舞いに行くか」
「……そうしよう」
二人は連れ立って102号室を出た。出た所で江都は確認すべき事柄に気付いた。
「そういえば結局、101号室に美人OLは住んでいるのかね」
江都は軽い気持ちで右隣の部屋に足を向けてみる。光樹は特に声を掛けてこなかった。確認してみろ、という事だろう。
101号室のドアを軽くノックしてみる。応答はない。平日の今の時間なら、普通に出社しているだろう。つまり、在宅状態ではない筈だ。そこで江都は首を傾げた。103号室と102号室には挿してある名字のネームプレートがない。
江都は試しにチャイムを鳴らしてみた。鳴らない。乾いて軋んだような音がした。壊れたまま放置されているという事か。
こんな部屋に、女性が一人暮らししているものだろうか?
江都は慎重にドアノブを回す。当然、鍵は掛かっている筈……江都が今やっている行為は不法侵入スレスレの常識のない物ではあったが、得体の知れない焦燥感が彼を急き立てていた。
鍵は掛かっていなかった。
あまりにもあっさりと扉は開き、江都の目に入った室内の様子は、明らかに未整備の、管理の行き届いていない無人の空き部屋だった。誰もいない事を証明するように、大きな蜘蛛の巣が玄関と廊下の間の空間に張られていた。
「――おい、これって、」
都会に出て来てから、妄想を加速させたのは光羽だけに限らないという事だろうか? 光樹もまた、光羽の掛ける重い愛という圧力から現実逃避するようにして、自らの妄想を膨らませ、一人の女性を脳内に仕立て上げてしまったとでも言うのか?
江都は先程まで普通に話していた筈の光樹という人物の輪郭が、急に掴めなくなってしまったような漠然とした不安に襲われた。
それから江都は、光羽が入院しているという壱原市民病院に向かう道すがら、光樹と言葉を戦わせた。
「だからよー、一体何なんだ。お前が言う浦井叶絵さんとやらは存在するのかよ」
「それは……存在すると僕は考えているよ」
「でも、お前も見ただろ? あのアパート元々ボロくて廃墟っぽいのに、尚更廃墟感マシマシのボロ部屋を」
「――そうだね。僕も浦井さんがあんな部屋に住んでいる事は知らなかった」
「普通に考えたら住んでないだろ」
「江都は浦井さんの事をどんな風に考えてるの?」
「俺はぶっちゃけた話、これまでもミツの奴は頭にヤバい領域があると考えていたが、お前もそうだったのかと改めて確認したような気でいる」
「……うん」
「つまり、お前がミツとの日常から現実逃避する為に、浦井という妄想を作り上げた。それはお前の目にはかなりリアルに映る存在なんだろう。普通の人間は、自分の妄想にそこまでのリアリティを感じたりはしない。そこがコウの頭がおかしい部分なのか、と俺は疑っている」
「なるほどね。僕は浦井さんという存在が、ただ僕が作り上げた虚構だというのにはあまりにも出来が良すぎる、あまりにも僕が思いもつかないようなディテールに満ちている、という事を反論にしようと思っていたけれど、それさえも江都は僕の頭がおかしいせいだ、と一括りにする訳だね」
「まあ、俺が言っているのは荒唐無稽の範疇の発想だって事は認めるよ。それくらい、お前ら姉弟の周りでは異常事態が頻発し過ぎてきたって経緯は当然あるにしても……。後は常識的に考えるとすれば、浦井さんは本当に存在する人間って線だな」
「僕と行ったレストランでは気づかれていない風だったけど?」
「それについては、一応レストランの関係者だったから対応がラフだった、とかそこら辺の事情を取り合えず想定してみるとしてだ。もっと胡散臭い問題が日常的にあるだろ?」
「というのは?」
「もし仮に浦井さんが実在する人物だったとしても、あの廃屋みたいな部屋の荒れ具合が消える訳じゃない。あの部屋に生活感は皆無だった。にも関わらず、浦井さんは毎朝あの部屋から出てきた。だろ?」
「そうだね。部屋から出てきて、鍵も掛けている様子だった」
「合鍵も持っているって事か……? 相当手の込んだ手口だな。つまり、その場合、浦井さんはコウと出くわす可能性のない早朝に、101号室の玄関先に入り込む。彼女は当然、住居者でもないのに合鍵も用意している。そして、そこで息を潜めてお前の部屋の様子を窺う。で、コウが出たと同時にその部屋を出、あたかもそこの住人であるかのように演出する――これを毎朝行う。一種のストーカーと言ってもいいのかもしれないが、しかし、お前と話す為だけに早朝から毎朝張り込むとか、尋常な精神状態ではないよな」
「極めて普通の美人OLさんだったけどね……姉さんの事が認識できない以外は」
「その問題もあったな。102号室の扉が開く気配を察知できたとしても、それがコウかミツかを毎回毎回判定するのは難しいんじゃないか? 浦井さんがミツとは出くわさないようにしていた。だからミツは浦井さんを知らず、隣の部屋には誰も住んでいないという認識を保持したままだった。だとしたら、浦井さんとやらはコウかミツ、どちらが部屋を出て来るのかを把握する術を持っていた事になるな」
「とんだ執念の女だね。江都があの部屋の荒れ具合から、色々と考えちゃうのは分かるけど、僕としては毎朝挨拶していた浦井さんの事だから、いまいちうまく信じられないっていうのが本当の所だよ」
「……まあ、だよな。ちょっと熱くなり過ぎたか」
江都は軽く笑って息を吐いた。
「別にいいけどね。丁度いい暇潰しになった。ほら、もう病院に着いたよ。機会があったら、姉さんにも浦井さんの事は聞いてみたらいい」




