拾 物語・上
拾 物語
波切江都は私立楠條院大学を出て、白戸光樹の住む日暮荘に向かった。
光樹から諸々の話を聞き、事態の収拾を図る為である。光樹から話を聞くには、幼馴染の自分が一人で行った方がスムーズに事が運ぶと考えた為、久留火折風と別枝隠子の二人には大学に残ってもらった。特に隠子の方は「もう日暮荘は私の家みたいなモノですよ?」とか自分の言っている事に何の疑念も持っていない様子で、当然のように付いて来ようとしたので必死に阻止した。
付いて来てないだろうな、と何回か江都は道中で振り返ってしまった。隠子は完全に不法侵入の常習犯なので信用出来ない。
久し振りに訪れた日暮荘は相変わらずボロかった。というか、『まだ倒壊していなかったのか……』という妙な感慨すら江都に抱かせてしまう佇まいである。
103号室の前を慎重に通り過ぎる。この部屋には偏屈な酒呑みジジイが住んでおり、以前江都は部外者が自分の部屋の前を通り過ぎたというだけで怒鳴り散らされた事がある。他にも道を踏み外したような人間しか住んでいないこのアパートで、よく隠子は侵入工作を繰り返した物だ、と江都は今さらになって少し感心した。光樹と光羽の二人の部屋の102号室の右隣、101号室は江都が以前訪れた時には空室だったが、今は誰かが住んでいるのだろうか。
102号室のドアをノックする。
光樹の顔を近くで見たのも久し振りな気がした。相変わらず、寝ているのか起きているのか分からない、現実を見つめていないような顔をしたヤツだ。
「……ああ、江都。来たんだ」
「そりゃ来るよ。っつーかお前が呼んだんだろうが」
「それはそうだけどさ。何か江都がこの家に来るっていうと、姉さんに直前で撃退されるイメージしかなくって」
「アイツはどうして俺がこの家に来るのを拒絶するようになったんだ?」
「簡単に言えば、都会に出て来て腐ったから」
「は?」
「だから、姉さんは元からブラコンで近親相姦肯定派という異常性癖の持ち主だったけど、」
「お前はシスコンで近親相姦肯定派という異常性癖の持ち主なワケだな」
「うん。で、そこから、カップリングとしての男と男の絡み合いも認知しちゃったってワケだね」
「つまり、俺とお前の恋愛関係を疑っているって事?」
「それに発展する可能性も認めた、って事じゃない?」
「うぇえ……いや、BL否定するつもりはないけれど、俺自身がそう扱われると何とも言えないな」
「僕だって普通に嫌だよ」
「つまり、ミツは女だろうが男だろうが、お前に近付くヤツは誰でも許せなくなっちまったってワケだ。そりゃ大した守備範囲だ」
「うーん……だよね。あ、というか、いつまでもこんな軒先でこんな事話していても仕方ないよね。取り合えず入れば?」
「そうさせてもらうよ」
招き入れられた102号室も相変わらずボロかった。というかそれ以前に狭過ぎた。家具が空間を圧迫しているように感じられ、息苦しさすら覚えてしまいそうだ。
「実際見てみると、二人で生活出来るとは思えない広さだな」
「この緊密な空間が、同棲する二人の親密さを演出するワケさ。なかなかに具合がいいよ」
「相変わらず気持ち悪いシスコンな事で」
江都は周囲を何気なく見渡し、普通に剥き出しの盗撮用カメラが設置してあるのを目にして驚いた。
「これが別枝さんの仕掛けた隠しカメラか……いや、隠れてねーけど」
「ああ、別枝さんっていうんだ。姉さんが友達からのプレゼントだって言ってたよ」
「これがプレゼントって……っていうか、カメラに気付いているのに盗撮されたままでいいのかよ」
「別に撮られても何の問題もないからね。何も疚しい事のない姉弟の同居生活だからさ」
「お前たち姉弟には疚しさしかないんじゃないかと思うが……」
「見解の相違だね」
はあ、と江都は息を吐いた。
「前置きはこれくらいにしとこうぜ。それで一体、何が起こってるんだよ」
「……まず、江都はどのくらい事態を把握してる?」
「さっき言った別枝さん関係くらいかな。高校までみたいに、ミツに惹かれてストーカーから不法侵入、果てはなんちゃっての成り代わりすら演じていた女の子の話」
「ふうん。それはなかなか興味深いね」
折風から聞いた隠子と光羽の馴れ初めを、江都は簡略化して繰り返した。大学では『姉弟が生きている』と伝えた後、隠子が狂喜狂乱状態に陥った為に、冷静にさせるのはもはや不可能だった。だから代わりに折風から聞く事になったのだ。
「なるほどね。だったら、江都は今回の問題の一端は知っているって感じかな。でも、それは姉さんに起こった問題の中心じゃない」
「そうだろうな」
「順を追って話すよ。僕も話しながら整理したい側面もあるしね。……まず、そもそもの始まりは僕が書いた小説にあるんだ」
「小説?」
「『幽霊』って小説。夏の熱帯夜に、夜明荘の男の部屋に幽霊が突然現れるんだ。男はその幽霊に怯え、恐れ、そして自分の錯覚だと思い込もうとする。夢に逃げようとした男を幽霊が実体を持った手で絞め殺そうとする時、男は幽霊と自分の関係性を思い出すんだ。そんな小説」
「夜明荘に住む男っていう時点で、何かコウ自身を主人公にした感が満載だけれど、どんな小説だったんだ?」
「この小説には幾つかのモチーフがあったんだ。今、江都が僕を主人公にした物語に思えるって言ったのもあながち間違っちゃいない。僕は身の周りに起きた事を題材として、その小説を書いた。姉さんの重い愛をその幽霊に込めた。時折この日暮荘周辺をうろついている黒い襤褸切れを纏った女を幽霊の姿として採用した。姉さんがいないと言い張る隣室のOLについて、『空室の筈なのに壁をノックするとノックが応答として返ってくる部屋』として描写した。また、この部屋に数多く設置された監視カメラを、男が感じる無数の視線として書いた。そういった複数の要素がその小説には込められていた」
「いくつか俺の知らない事柄もあるな」
「順を追って話すよ。まず、『幽霊』を読んだ姉さんは、それに影響を受けたシチュエーションプレイを始めた」
「シチュエーションプレイって何?」
「僕と姉さんが東京に出て来てから続けてきたごっこ遊びだよ。お互いに演じる役柄を割り振って、それに沿って日常を過ごすのさ」
「ふうん。それで?」
「この時は僕がDV彼氏役で、姉さんがメンヘラ彼女役だった」
「まさか本当に殴ったりしてないだろうな?」
「いや、勿論殴ったよ? やるからには本気で演じるからね。姉さんなんて入り込みようが凄くって、何かもう本当に自分がメンヘラ彼女になったかのような病みっぷりだったよ。夜になる度に小説の幽霊を模倣するように、ベッドの上の僕にのしかかって、首を絞めてくるんだ。ホントに殺されるかと思った」
「相変わらずドン引きレベルの姉弟関係だ……」
「東京に僕が来てから姉さんの独占欲や執着にはかなり磨きがかかっているのもあるしね。まあ、段々と姉さんの調子がどんどん落ちていったのは、メンヘラ彼女役の演技にのめり込んでいったのも確かにあっただろうけれど、問題の本質は他にあった」
「本気で殴ったり、夜には首を絞めたりするその関係以外のどこに問題があるって……?」
「いや、関係が僕と姉さんの間で留まっている内は、それがどんなに異常な領域に踏み込んだとしても、姉さんの精神状態に罅割れまでは起こらないだろう。だから、問題は僕と姉さんの関係外で起こる事だ」
「勿体ぶるなよ」
「だから、言っただろう? 『幽霊』には姉さん以外の女性もモチーフに使っているんだよ。監視カメラを設置したその……別枝さんだっけ? もそうだし、後は隣人の美人OLもそうだ。後はそこら辺をうろついている襤褸切れ女もそうだね。モチーフにされるって事は少なからず僕の印象に止まっているって事ではあるだろ? 姉さんは自分以外の女性が、僕にそれほどの影響を与えるのが許せなかったのさ。本心は多分、そんな所だろう。そこがどこかでずっと気に喰わなかったんだと思うね。だから最近、姉さんの調子は下がり調子だった」
「なるほどな……それがどんな風に自殺騒ぎまで繋がったのか、まずは人間関係を整理していくか」
「うん。それがいい」
「まず、別枝さんはミツのストーカーで、この部屋に不法侵入して監視カメラ等を設置した張本人だ」
「別枝さんの事は、名前は聞いてないけど姉さんは珍しく友達だって言ってたからね。そこまで大きな問題ではなかったんだろう。さっきのシチュエーションプレイさえも余す事なく見せるのを許してたって訳だしね。だから問題は他の二人かな」
「じゃあ、美人OLから聞かせろよ。103号室には確か呑んだくれジジイが住んでた筈だろ? 101号室も空室だった筈だけど、その女性が越してきたって事?」
「少なくとも僕がこっちに来る前から住んでいたみたいだけどね。引っ越しの挨拶もしたし。名前は浦井叶絵さんっていうんだ。童顔巨乳の美人さんだよ」
「何だよ、随分親しげに言うじゃないか」
「朝、通学時間と通勤時間が被るみたいで、その時にちょっと挨拶と世間話をしてたくらいだよ。あ、でもこの間、二人でフランス料理屋に夕食を食べに行ったよ」
「おい。おいおいおいおい。お前は半殺しで済むだろうが、相手はただじゃあ済まないんじゃないか? 最悪、隣で腐乱死体になってるんじゃ……」
「いや、そもそもその浦井さんについて、姉さんと僕の見解の相違があるんだ」
「どういう意味だよ」
「姉さんは隣の部屋には美人OLなんて住んでないって言うんだよ。一度も見た事がないって。頑なにそう主張するんだ」
「そう思い込みたかっただけじゃないのか? ミツの事だから」
「僕もそう思ってたんだ……でもこの浦井さんを認識出来ないというのは姉さんの一方的な言い掛かりではなかったんだ」
「うん?」
「浦井さんと夕食を食べに行ったと行っただろう? それは浦井さんから誘われたんだけれど、別に目的はデートでも何でもなかった。浦井さんはあろうことか、姉さんが存在しないのではないか、と主張してきたんだ。僕の脳内だけの存在ではないのか、と」
「はあ……? いや、あり得ないだろ」
十数年にも及ぶ付き合いのある、あのキャラの濃い姉が存在しないなんてあり得る筈がないと江都は思う。
「だから、僕もちょっとキレちゃってさ。ケンカ別れに近い形でレストランを出ちゃったんだけど。でもね、そのレストランでは浦井さんに対して料理はおろか水も出なかったんだよ」
「……無視されてたって事?」
「いや、僕はその時は浦井さんはそのレストランの関係者で、あくまで僕をもてなす為に呼んだのかと思ってた。その割に支払いは僕だったんだけれど、その時には割と空気が険悪だったからね。でもさ、姉さんは浦井さんを認識出来ず、浦井さんが姉さんを認識出来ない、って事と合わせて考えるとなかなか意味深だよね。レストランのスタッフがまるで浦井さんを認識出来ずにいたっていうのは。浦井さんっていうのは一体、何なんだろうね」
「ふむ。浦井さんとやらを認識しているお前も一体何なんだという話にもなりそうだが。それについては後で隣の部屋を改めて二人で確認してみるとしよう」




