玖 自己
玖 自己
人生において最大の不幸は何なのだろうか、と浦井叶絵は考える。勿論、その答えは人によって違うだろうし、あくまで思考実験として考えるのか、あるいは我が身にその事態が降りかかってくるかでも違うだろう。
叶絵は今、人生の最大の不幸として考え得る内の一つを味わっている最中だった。
それはつまり、自分という存在に確信を持てなくなるという事である。
普通、人間は継ぎ目のない流れとして、自分の人生を把握する。自分は自分であり、自分でしかない。それは疑うまでもない事実として、どんな人間も受け入れる。それは無意識下の働きである。わざわざ自分は自分であるという事を確認する人間はいない。
例えば、朝起きた時に、『もしかして昨日、自分は自分じゃなくて他の誰かだったんじゃないか?』とわざわざ思いを馳せる人間はいないだろう。又は、『もしかしたら昨日の自分の記憶は誰かが植え付けた偽物だろうか?』という疑いを抱く人間はいるだろうか? そんな事を毎日のように本気でやっている人間はもう普通に生きているとは言えない。何らかの精神疾患を抱えていると言えるだろう。
そして、今の叶絵はそんな状態に等しい。
自分の存在そのものに疑問を抱いている。自分は本当に浦井叶絵という人間の女なのかを疑っている。自分に確信が持てなくなっていた。
金曜日の夜、叶絵は白戸光樹とレストランで夕食を共にした。
叶絵は光樹の姉が存在しないのではないか? という疑問を光樹に投げ掛けた。
光樹はそんな叶絵を完全に拒絶し、レストランの前で別れた後には走り去って行ってしまった。
それからどこか叶絵は自分という軸を見失ってしまった。
光樹は気になるというだけの――ただの隣人の男の子だった筈なのに。
それなのにまるで、光樹こそが叶絵という存在を支えていた柱だったように。
それはおかしな話だと叶絵も思う。だけれど、事実として叶絵はあの夜からどこかズレてしまった。
昨日までと同じ自分という連続性から外れ、どこかこれまでの現実とは違う異世界にいるような寂しさを感じていた。
今日は月曜日だ。
けれど、無気力感に満たされた叶絵は、出社時間を過ぎても家を出る事すら出来なくなっていた。
無断欠勤だというのに、会社から電話が掛かってくるという事もない。
そこから一気に綻んでいった。
こちらから電話を掛けようと思っても、叶絵は会社の電話番号を知らなかった。それならば遅刻してでも出社して謝罪を重ねるしかあるまい、と思っても、叶絵は会社の所在地を知らないのだった。
叶絵は記憶を思い返しても、自分の中には光樹と関わるような記憶――彼との世間話の記憶くらいしかない事に気が付いた。
レストランで水も料理も出されない事を不思議にすら思わない自分。
自分とは一体何なのか、と叶絵はぼんやりと考えながら、部屋の隅に座り込み足を投げ出して、そのまま時を過ぎるのに任せている。
もう何もなくなってしまった気がする。
しかし、いつから失ってしまったのか、何を失ってしまったのかすら、今ではもう思い出せない。
逆に今でも確かにある物は何だろう、と叶絵は考える。
何となくだけれど、光樹の事が心配だった。
光樹が存在するのかしないのかもよく分からない姉に振り回されず、元気に過ごして欲しいと思った。
もう自分は世間話を交わす事もないだろうが、彼と別の誰かが和やかにお喋りをしていてくれたらいい。
何故、あそこまで叶絵の事を拒絶した光樹の行く末を今でも想えるのかが自分でも不思議だったが、やがて彼女は気付く。
それは恐らく叶絵の事を成り立たせてくれたのが、見つけてくれたのが光樹だったからだろう。
だからこそ、彼女はいつまでも彼の事を想っているのだ。
例え、報われる事ない存在だとしても。




