漆 最悪・下
そして、匂子が目を覚ました現実はこれまでとは別物と成り果てていた。
彼女が目を覚ましたのは病院のベッドの上だ。そこは匂子が勤めている病院だ。匂子が目を覚ましてから程なくして、白戸映司が彼女の病室に入ってきた。そのあまりに平然とした様子に匂子は目を疑った。
「ああ、目を覚ましたんですね」
穏やかに笑う彼は、白装束を来ていなかったし、その身を赤く染めていなかった。これが何より重要だが、彼は死んでいなかった。
一体、何がどうなっているというのだろう。
「ええと、赤ちゃんは元気ですか?」
何を聞いていいか分からず、取り合えず助産師としてすぐに頭に浮かんだ疑問を投げてみる。一瞬頭に浮かんでしまったあの禍々しい赤子の声は、今は忘れる事にした。
「ええ。先日はお世話になりました。親しい貴方がこの病院で助産師をやっていて良かったですよ。付き添っていただいたお陰で妻も安心して出産に臨めたと何度も言っていましたよ。ありがとうございます」
白戸は病院で子供を産んだという。それは何から何まで記憶と違うという事になるのではないか? そもそも真実への回帰の輪は、媛子の出産を儀式として重要視していた団体なのだし……いや、兎にも角にも、あの儀式とその後の惨劇はなくて、あれは匂子の悪夢に過ぎなかったという事だろうか?
「真理への回帰の輪のメンバー達は、今、一体どうなって……」
「はい? それは一体何の事ですか? メンバー……という事はグループか何かのお話でしょうか? 申し訳ありませんが、ちょっと心当たりがありませんが……」
真理への回帰の輪の教主だった筈の男が、何か訳の分からない事を言っていた。
まさか真理への回帰の輪自体が、この世界には存在しないとでも言うのだろうか? 匂子は壮大なスケールで化かされているような気分になって来た。
一応、目が覚めた日は病室で大人しくしていたものの、特に身体に不調がある訳ではなかったし、何より落ち着いていられる気分ではなかったので、翌日匂子は退院した。
電話で、記憶の中で真理への回帰の輪のメンバーであった知り合いに電話を掛けて確認してみたものの、誰もあの教団の存在を覚えていなかった。それどころか、聞き込みを続けている内に、匂子の方が『奇妙なカルト宗教について聞きまわっている』という風評被害を受け始めた。やっていられない。
どうしても収まりがつかず、あの山の中腹の洞穴を訪れてみたりもした。内部の道中も構造だけは同じだったが、並べられていた邪教グッズの類は置かれていなかった。何より壁の燭台がない為に完全に暗闇だった。年の為、懐中電灯を持ってきた為に例の大広間まで至る事は出来たが、祭壇の盛り土もなく、やはり何もないという事が分かっただけだった。
真理への回帰の輪のメンバーは、世界への怒りを覚えていた筈だった。この世界は滅びるしかなく、それこそこの世界の本当の姿だという主張を抱えている筈だった。彼らは各々どうしようもない陰鬱さを抱えていて、その表情はいつも曇っていたり濁っていたり暗かったりした筈だった。
しかし、今の元メンバー達は一様に普通だった。
教主である白戸映司すらもそれは同様で、以前の彼を知っていると胡散臭く感じる程に穏やかな好人物になってしまっていた。彼を覆っていたこの世界への負の感情、あの溢れ出るまでの陰鬱さは完全に消え去ってしまったようだ。
つまり、今の彼らはこの世界に不満はないということなのか? 既に世界は彼らの望み通りの形に回帰したのだろうか?
書き換わってしまった事柄について考えてみる。
匂子の視点からすれば、単純に異様なカルト宗教がなかった事になっただけのようにも思える。しかし、ただ単にあの異様な儀式が、匂子の一日の悪夢だったという訳ではない。親類として幼い頃から知っている白戸映司の性格面がこの世界では全く異なっており、その結果、真実への回帰の輪という集団が形成されなかったのだと仮定すれば、世界の改変は数十年にも及ぶ。
現実的に考えれば、あの気付いたら入院していたあの日、匂子の頭に致命的なエラーが発生し、過去の認識がおかしくなってしまったという事になるのだろう。百人近くの真実への回帰の輪のメンバーが全員死から逃れ、記憶から性格から何から何まで変わっているというよりは可能性は高そうだ。
また、匂子は自分の記憶を封じて生きていく事にしようかとも考えた。そうしてしまえば、何の支障もないと言えばないのかもしれないと思えてきた。
けれど。
偶然訪れた、白戸夫妻の子供達との対面の機会が、全てを塗り替えた。
悪魔がいる、と思った。
この瞬間、匂子は真実への回帰の輪の教義が言わんとしている事を完全に理解した。
ただの双子の赤子でしかない筈の二人は、黒色の油絵の具で塗り固めたかのような重苦しさを放っていた。あまりにも密度が違い過ぎて、この世界に在る事が違和感のある存在。あまりにも禍々しく、逆に目を離せない。離している間にどうしようもない破滅が起こってしまいそうな悪寒。こんな存在からしてみたら、確かにこの世界なんて紙切れ同然だろう。いくらでも絵をデリート出来る絵描きが、絵の世界の登場人物達に紛れているような。神に等しい権限を得た存在が、人間のフリをして紛れ込んでいるような。それはあまりに色濃い存在感で、今まで見て来たどんなモノも相対的に価値を失ってしまう。
ああ、世界は簡単に消し去られる偽物なんだ、と背筋が震えて、匂子はその場に崩れ落ちた。そして、近くにいた白戸夫妻や看護師に声を掛けられても、匂子は数分の間、全く身動きが取れなかった。
匂子の示す反応の方が、異様である事は確かだ。同じ場にいる人間はそんな風に双子に恐怖を示す事はないのだから。
しかし、匂子にはあの儀式後の血の惨劇の記憶がある。その経験こそが、双子の本質を見抜かせた。
例えば、大量殺戮兵器である核爆弾が目の前にあるとして、それが齎す被害と同等の恐怖を正しく感じる事は可能だろうか? それと知らなければ、何の脅威も感じず、ただのモニュメントのように思っているかもしれない。
周囲の人間が正気を保っていられるのは、ただ『知らない』からだ。
そして、あの血の惨劇がただ単にあの悪魔を呼び寄せる為の生け贄に過ぎなかったのだとすれば、悪魔がその気になって齎す災厄そのものはどれくらいの規模になるのだろうか? 匂子には想像も付かなかった。
世界が単純に滅びるというよりは、匂子が考えもつかない悪意が撒き散らされるのではないかという予感。
彼らに宿っているのは、この現実とは全く違う次元のルールを持った存在なのだから。
崩れ落ちて目を閉じた匂子の脳裏に、あの惨劇の赤色が何度も何度も鮮やかに瞬く。
真理への回帰の輪の思惑通り、悪魔は召喚されてしまった。これから世界は回帰する。つまり、本来の姿を取り戻すように滅亡する。その種は既に蒔かれてしまっている。
やはり、匂子だけが意味不明な記憶を抱えているのではなかったのだ。現実そのものが、あの百近い死体ごと、その人間の生きてきた人生ごと、全て書き換えられたのだ。あの双子によって。
匂子はまた意識を失った。今度は三日間入院した。
それから、匂子は白戸家に関わる事を徹底的に避けた。それでも白戸姉弟の噂は耳に入ってくる。
曰く本人達が何か問題行動を起こすでもなく、様々な事件に関係し、その中心にいるように見えて仕方ないだとか。匂子からしてみればその風評は完全に白戸姉弟を見誤っているとしか思えなかった。白戸姉弟の周りで事件が起こるというのはあれだけ異質な存在がいる、ただの副産物に過ぎない。環境汚染のようなモノだ。あの姉弟はいるだけで世界を醜く汚す。犯罪者ではない人間を犯罪者にし、ただの人間を人間以下のナニカに堕とす。
――アイツらは擬態しているだけだ。
匂子が恐れているのはそうした環境汚染のような副産物なんかではなくて、あの姉弟が本当に自ら事を起こすというその瞬間だった。その時こそ、世界はいとも簡単に滅亡し、虚無と混沌に回帰するのだろう、と匂子はもはや信じて疑わない。
それは匂子にとってだけの真実で、だからこそ、彼女は周囲に取ってみればただの妄想狂、精神病患者に過ぎなかった。
あの日から、まともに立てなくなってしまった。ちょっとした散歩でも足が震えてままならない。
精神に大きな問題を抱えた匂子は、助産師の仕事も続けられなくなった。
匂子の不幸は、全てあの姉弟に出会ってしまった事に起因する。
だから、あの電話は本当に嬉しかった。白戸媛子の声に違和感を抱く事もなく、匂子はその吉報を喜んだ。
世界は終わらずに済んだのだと、全身が緊張から解き放たれ、とても安らかな気分になった。
匂子の人生が、丸ごと報われたような気分にすらなった。
あの時の会話を思い返す。
「あ、あのっ、私達の娘と息子が……ううっ、亡くなりました……自殺を……それも、心中だって……」
「それは……」
泣きじゃくり掠れた声で言う媛子に、匂子は満面の笑みが顔に広がるのを抑えきれなかった。
「これ以上ない程に良い事ですね。私は素晴らしいと思います」
彼女は心からそう言った。




