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世界一簡単な世界滅亡  作者: 篠渕暗渠
10/20

漆 最悪・上




     漆 最悪




 日曜日の朝、園部匂子そのべ・かおるこは電話を受け取った。相手は白戸媛子で、匂子は何故休日の朝からウンザリとした気分を味わわなければならないのかと感じた。

 しかし、動揺して掠れ、よく聞き取れない媛子の伝えた事柄は、匂子にとっては吉報だった。

 ずっと濃霧に包まれているかのようだった匂子の人生が、急に晴れたかのような感覚まで伴っていた。

 電話を切った後、匂子は口元が笑みに歪むのを抑えきれなかった。そして、今さらのように媛子の声の印象が以前とは違っていたな、と思う。しかし、そんなことは至ってどうでもいいことだった。

 ――世界は救われたのだから。


 どんな人間でも生きていれば幸せだとか、どんな子供の出生も祝福されるべきだとか、そんな当たり前のお題目が、園部匂子には認められない。少なくともその言葉が送られるべきではない人間は存在するからだ。生きているだけで周りを不幸に追い込むような、生まれてこない方がよかった赤子がいるからだ。

 子を産み育て勢力を増やし繁栄を築くのは、人類の遺伝子にも刻まれた生存本能に刻まれている事なのかもしれない。しかし、だとしたらだからこそ、一人以上の人間を悪意によって殺す人間は、遺伝子上のバグに過ぎないのではないだろうか。周囲に甚大な被害を齎す、例外のような異常な個体にすら「生きていれば幸せな事もあるよ」と声を掛けなければいけないのだろうか。

 当然、匂子も最初からこのような歪んだ考え方を持っていた訳ではない。そもそも普通に生きていれば『生きるべき人間もいれば産まれるべきでない人間もいる』なんて考えは頭に浮かぶ機会すらないだろう。だから、何も知らない偽善者ならいくらでも匂子の言葉を否定できるのだと思う。サイコパスとの遭遇――戦争や災害すらも凌駕するような、悪意との遭遇を果たしたことのない人間なら。

 戦争を作為的に起こす人間は処刑されるべきだし、災害の原因は取り除かれるべきだし、サイコパスは排除されるべきだ。匂子はそれを自身にとっては当然の考えとしている。

 そして、匂子がそういった極端な発想に至ったのは親戚筋の白戸夫妻の出産に立ち合ってから起こった出来事が原因だった。それまでの匂子は平凡な一般人の一人だったし、つまり、どんな人間でも幸せになる権利があると思っていた。それに、どんな赤子の出生も祝福されるのはことさら当然のことだと考えていた。それもそのはず、匂子は助産師だったのだから。……その仕事も、今はもう辞めてしまった。

 白戸夫妻の子供、白戸光羽と白戸光樹――白戸姉弟こそが匂子の人生を悪い方に歪ませた張本人達だ。白戸姉弟は本人達は何も悪さをしないにも関わらず、数々の問題の中心にいると揶揄される。匂子も個人的な心情として、そして親戚筋の人間として、白戸姉弟の近親相姦的なベッタリとした関係を問題視している一人だ。しかし、匂子がブラコンの姉とシスコンの弟の関係性に生理的嫌悪感を抱いているのは事実だけれど、しかし、彼女が二人に対し、恐怖を抱いている本当の理由は違う。

 今ではもう匂子しか憶えている人間のいないおぞましい真実――それは匂子の強烈なトラウマとなり、彼女はそれからもうまっすぐ歩く事は出来なかった。


 今は誰からも忘却の彼方にあることだけれど、かつて『真実への回帰の輪』という教団が存在した。仮に何も知らない人間、あるいは何も覚えていない人間に、匂子がその教団の説明をしたとしたら、良い年をした妄想狂かオカルトマニアと扱われてしまう事請け合いだ。その教団は今は消し去られてしまったけれど、それは決して匂子の妄想の産物ではなくて、ちゃんと現実に存在した。

 真実への回帰の輪は、一言で言うとカルト宗教である。

 この教団のメンバーは、共通して今ある現実という世界に違和感と疑念を覚えていたらしい。つまり、この世界というのは虚妄で満ちていて、何かの原因によって真実の姿を晒しておらず、だからこそそれを取り戻すべきである、元ある本来の世界へと回帰するべきなのだ、というのがその主張だった。ただし、彼らが語る真実の世界とやらは、楽園のように皆の良い願望が満たされるような理想郷ではない。ただただ虚無と絶望の世界だ。だから、ある意味、一種の虚無主義とか終末思想を宗教の形にしたものと言っていいのかもしれない。メンバーはいつもこの偽りの世界、つまりは現実に怒りを抱えていた。この世界に生まれてしまった事を恨んでいた。この世界は滅びるしかない世界であり、その滅びこそが、この世界の真の姿なのだ、というのが教団の主張だ。

 端的に言って邪教の類だろうと匂子は思う。カルト宗教としても質の悪い部類だ。そして何故匂子がそのインチキカルトに詳しかったのかと言えば、白戸夫妻こそがこの教団の中心的ポジションに立っていたからだ。具体的に言えば、夫である白戸映司が教団を立ち上げた張本人、教主であり、妻である白戸媛子が教団で肝要な役割を担う、巫女であった。それだけで親戚中の恥とも言えるが、匂子としてはあんな教団に最終的には百人近い数のメンバーが揃った事の方が不思議だった。

 真実への回帰の輪の最終到達点が世界の滅亡だったとして、その目的には手段が必要だ。真実への回帰の輪では、回帰への方法論として、悪魔の召喚が提唱されていた。そんな荒唐無稽が教団内では常識のように受け入れられていたのだ。

 そして、どのように悪魔を召喚するのかというと、巫女の出産を利用した儀式が用いられる。産み落とされた赤子に、悪魔が宿るというのだ。

 あまりにもバカげた話だ。この時点では匂子も当然そう思っていた。

 だから親戚として、まず匂子はその儀式を止めようとした。しかし、白戸夫妻の意志は固く、引きずって行っても匂子の勤める病院では出産してくれそうになかった。だから、仕方なく匂子は自身の非番の日と儀式の日を被らせるように白戸夫妻を強引に説得し、自らが助産師としてその場に立ち会う事にした。何で自分がここまで関わらなければいけないのかと思いはしたものの、匂子の代わりにこの役目を勤めてくれる酔狂な助産師は他にいそうもなかった。それに、産まれてくる子供に罪はない。儀式だけに気を取られていて、産まれてくる赤子そのものはどうでもいいと考えているような悪魔崇拝のバカどもが出産に立ち会う事になるような事態は避けなければいけない。産まれた赤子が生命を落とす事だけはあってはならないのだ。

 そう、この時の匂子はまだ常識的な助産師だった。今ではもし過去にタイムスリップできるとしたら、自分のあの選択は止めるべきだったと、そう思っている。あの赤子は見殺しにするべきだったと思っている。もし仮にあの時起きた事態が避けられないとしても、だからこそ、匂子はあの場に行くべきではなかった。そうすれば理不尽に精神を踏み躙られる事もなかった。這いつくばって進むような人生の流れには至らなかった。

 儀式は白戸家が所有する山で行われた。その山には天然の洞穴があり、その穴は過去には防空壕としても使用された経緯もあるようだ。比較的足場も整備されていた。そこは普段から真実への回帰の輪の集会の場所として使われているらしい。基本的に光源は壁に設置された燭台のロウソクによるものだけだ。

 洞穴内部の道の両脇に得体の知れない装飾品が、あまり規則性を感じさせない形で配置されていた。それらは教団のメンバーが各々自分の中にある回帰した世界に対するイメージを創作したモノなのかもしれない。細かい無数の傷によりまるで映らなくなった全身鏡。叩き壊された花瓶。大きな角を持った動物の頭蓋骨。水晶球が積み重ねて作られたオブジェ。文字を判別できない背表紙が続く本棚。なるほど、確かにオカルトマニアが好みそうな雰囲気だけはたっぷりとあったが、しかし実質的な中身、実用性はまるで感じられない物品の数々だった。

 洞穴を進むと、大きくポッカリと空間が開けた。そこを教団はある種のイベントスペースとして扱っているようで、メンバー百人近くが集まっても、まだかなり余裕がある。光源はやはり壁際のロウソクのみなので、光量が全く足りない。大広間全体を薄闇が覆っているように見える。

 大広間の中央には土を盛り立てて、ちょっとした祭壇のようにも見える段差が設けられていた。そこに白戸映司と白戸媛子が立っている。祭壇にはロウソクのついた短い鉄柱と鎖で出来た囲いで周囲と隔てられていた。匂子はその鎖を躊躇せずに跨ぎ越え、白戸夫妻に近付く。二人は真っ白な衣装を着ていて、それはどこか死に装束のように見えた。その捉え方はそれほど間違ってはいないのだろう。二人は本当に今日でこの現実は終了するのだとでも思い込んでいるのかもしれないのだから。

「……よく来たな」

 映司は陰鬱な調子で言った。

「貴方が世界の回帰を信じてくれるとは幸いな事ですね」

 媛子は淡々と興味なさそうに言った。大きなお腹を抱えながら。

 二人とも特に匂子を歓迎している風でもない。やはり、赤子がどうなろうと構わないとでも思っているのかもしれない。どうしてそこまで虚無的になれるのかが匂子には不思議だった。

「今日はよろしくお願いします」

 匂子は一応挨拶をしておいた。白戸夫妻が今日という日に何を感じ、匂子をどう扱うかなんて、そんな事はどうだっていいのだ。出産さえつつがなく終われば、匂子はそれでいい。

 意外な事に大量の白い清潔な布や、産湯用の水とそれを加熱するカセットコンロ等、出産に必要と思われる道具は一揃い用意してあって、匂子は少しだけ安心した。匂子も臍の緒を切る専用のハサミ等、多少の医療器具は用意してきたものの、山の中腹まで登る手間もあったために、持ってこれる荷物の量には限界があったからだ。

 そして、儀式が始まった。

 真実への回帰の輪、教団のメンバーが全員見守るという異様な環境の中、赤子の出産自体は驚くほどにつつがなく終わった。産まれた赤子は二人――双子だったのだ。それでも難産にもならず、順調に事が運んだのは感謝すべきなのかもしれない。匂子には双子の赤子を担当した経験もあり、落ち着いて対応出来たのも良い方向に働いた。

 赤子達が泣き叫び、そして白布で満たされた木の籠の中で二人眠りに着くまでを見届ける。そして、出来る限り早く病院に双子を連れてくるように再三注意を促してから、匂子はその場を後にする事になった。本当なら双子を強奪してでも病院に送り届けるべきかもしれなかったが、二人分抱えて下山するのは難しいだろうし、異様な教団の敵意を剥き出しにさせるのも良くないだろう。更に言えば、匂子自身が普段経験する機会のない異様な熱狂に揉まれたせいで、強く気疲れしてしまったという事情もある。教団関係者ではない匂子は半ば追い出されるようにして、大広間から出た。

 もうやることはやったと匂子は思いたかった。現代では夫婦や助産師だけが携わる、あくまで個人的な経験に留まるはずの出産を、こんなに大勢の人間と共にある種の宗教行事として共有するとは。現実に接してみると全員気が違っているとしか思えないような異様な経験だった。匂子はこれまでで一番、真実への回帰の輪という教団を邪教として実感していた。

 帰ろうとは思うものの、やはり心配で足取りが重い。しばらく経った後に赤子の泣き声が聞こえた。そして、それはずっと止まずに続いた。誰もあやすことがないのか、あれだけ大勢いるはずの教団メンバーの立てるはずの物音はひっそりと静まり返っていて、赤子の泣き声だけがずっと響き続けた。

 匂子は不審に感じて、大広間に引き返す。

 そして、見るのだった。百人近くの真実への回帰の輪のメンバー達、その全員が全員、自らが流した血に塗れ、暗がりに倒れ伏しているのを。祭壇の上で、白戸映司と白戸媛子も死んでいた。お互いがお互いを殺したかのようにも見える狂喜を感じた。近付いて見る、ロウソクで照らされたその表情は歪な歓喜に満ち、涎を垂れ流し、明らかに正気を失っていた。匂子はこの状況を引き起こしたのが人智を超えた存在だと直観した。

 でも、そんな事はあり得ないと常識的な頭が告げている。あまりにも荒唐無稽な発想だと。

 しかし、目に入るこれはどうしようもなく現実だった。だとしたら、真実への回帰の輪は、ただ自分達の意志で集団自殺のように殺し合ったというのか?

 それでも匂子は、この場の空気に現実とは明らかに異なる異様さ、陰惨さを感じていた。

 これがあるいは、彼らが求めた真実の世界なのか? そんな事を考えてしてしまうのは、知らず知らずの内に匂子が、真実への回帰の輪の教義に毒されてしまったからか?

 唐突に双子の赤子達の泣き声が全く違う響きを伴って、匂子の耳に届いた。

 その声はただ助けを求めているだけのはずなのに。

 匂子の中での意味が変わっていく。

 まるで、この惨状を引き起こしたのが双子であるかのような、あり得ない妄想を匂子は抱いた。

 匂子の直観は『それが真実だ』と叫び声を上げていて。でも、信じられない。

 その内に、赤子達から感じる雰囲気が凄まじい勢いで変質していく。気持ち悪い。見ていると強烈な頭痛が発生し、視線をどうしようもなく逸らさざるを得ない。

 じわじわと意識そのものが闇に侵食されていく感覚。足場が崩されたようにその場に倒れ込み、何度も咳き込み、嘔吐感に身を震わせながら、匂子は意識を手放していった。

 いつまでも双子の泣き声が響いていた。

 それは世界が終わってもずっと響き続けるのではないかと、匂子には思われた。

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