序、零 『幽霊』
序
誰しも気付かない内に自分の都合のいいように現実を解釈し、自分が目にしている物を、万人にとっての現実だと錯覚する。自分の認識する現実が他人と一致するとは限らないし、また自分にとっての現実が、世界の本質であるとは限らない。
零 『幽霊』
その日、夜明荘の周辺はやけに静まり返っていた。夜明荘周辺の奥野という土地は元歓楽街で、そうしたネオン煌めくような薄汚れた明かりは失って久しい物の、未だ退廃的な雰囲気だけは保持している。ならず者、荒くれ者、居場所を失った者、陰鬱な者、ともかく正しい道から外れた者は最終的には奥野に来るというような冗談さえ言われるこの地は、普段の夜はとにかく五月蝿い。時代錯誤な明かりの少なさなのに、闇の中に有象無象が蠢いていて、日が昇っていない間中、ずっと人のざわめきが途切れない印象が強い。
それは奥野の中心と言ってもいいレベルの寂れ具合である夜明荘に関しても同じことで、夜が深まれば深まる程、そのざわめきは音を増す。狭いボロアパートである夜明荘、その一室に十数名の男共がすし詰め芋洗い状態で喚き散らしながら酒を呑んだり、一切の防音効果を期待出来ない薄い壁の向こうの隣の部屋の事を一瞬ですら慮ることもなく、黄色い声とか水音とか肉と肉とのぶつかり合いの音とかが響きまくる人類の男女共通の夜の営みっつーものがやはり一晩中熱心に繰り広げられたりする訳である。
そんな姦しい夜明荘、あるいは奥野という土地そのものにとっては非常に珍しいことに、今日は夜になっても静かだった。静かであることこそが、一番の異常事態。
しかし、そんな事は露知らず、今日も夜明荘102号室で寝こける大学生の男が一人。夜明荘に住んでいる他の面々と同じく将来も希望も身分もない事は共通しているが、この男、人間夜は寝るものだ、とそこは常識を保持している。そして常識外れの眠りの深さも持ち合わせており、一度寝ると周囲がどんな喧騒に包まれようが起きることはない。
だからこう、男の無意識、身体としては、何か今日は眠りやすいな眠りやすすぎて歯応えがないな、くらいの物足りなさを覚えているのではあったが。
夜中騒ぐような人間関係にも恵まれず、恋人も女友達も有していない彼だけが、今日奥野を包む異様な雰囲気を知らず、いつも通りを保っている。
鈍感な彼はだから、夜明荘102号室の外の世界が滅亡したとしても眠りこけているのかもしれない。
しかし、そんな彼も部屋の内側にまで異常事態が発生したとあれば、話は別ということになるらしい。
男はベッドの上で気怠げに身を起こした。
夜に起きるなんて彼が大学入学のために上京してから半年の独り暮らしの中で初めてのことではあったものの、男は珍しいこともあるものだ、とその原因には思いを馳せない。
特に尿意はなかったが、思いついたので取り合えずトイレにでも寄って水でも飲んでみるか、とベッドから降りてみる。しかし、まだ眠気が抜け切らない彼はベッドと比べて熱の篭っていない畳みの床に寝そべってしまった。
ゴロリと身を転がして、その目が何気なく自分がこれまで寝ていたベッドの下を覗き込んだところで、目が、合ったのだ。男は跳ね起きた。全身が泡立っていた。
男は独り暮らしである。しかし、ベッドの下には明らかに何者かが潜んでいた。確かな視線を感じ、まるで白い眼球のみが浮き上がっていたかのような悍ましい印象を男に植え付けていた。男は恐怖を堪えて、もう一度ベッドの下を覗き込んだ。そこには何もなかった。
――確かに視線を感じたのにな。
男は首を傾げながら、視線の正体について考える。あれだけ明確に感じた視線が気のせいだったのだろうか? いや、男がこれまで気付かなかっただけで、実はこれまでもずっとあの種の視線を受け続けてきたのではないか? 姿の見えない監視者。まさかこの部屋中に盗撮カメラが備え付けられているとかそういうオチじゃないよな、と、男は一瞬、自分がそこら中から見られているような錯覚を受けてしまい、身を震わせた。
取り合えず、さっきの思いつきの通りにトイレにでも行ってみるか、と男は立ち上がろうとした。しかし、それは叶わなかった。男の背中が何かにぶつかり、バランスを崩したのだ。配置的には家具とぶつかるはずはないんだが、と男が振り返ると、そこに背の高い異様な姿があった。へたり込んだ男からすると見上げるような長身だ。
真っ黒な襤褸切れで身体中を覆っている。逆に言うと襤褸切れ以外には何も身に付けていないようだ。そのボディーラインから女性であることが分かる。胸でけぇな、とは思う。しかし、そこまでだ。その姿に艶めかしさを感じることはないし、頭のおかしい女が間違って男の部屋に夜這いを掛けてきたという妄想を抱ける余裕もなかった。
端的に言って、襤褸切れ女の姿は悍ましい。男の意識はその女とさっきの正体不明の視線をすぐに結びつけたし、あと何より匂いが酷い。汗臭さや垢の匂い、清潔さの欠片もない悪臭を煮詰めたような――不衛生な夜明荘の男共でもここまでのはいない。つまり、現実的に考えても浮浪者の類だろう。男の目にはもっと得体の知れない脅威として映っていたが。
男は女を指差して、パクパクと口を開閉させる。何か言ってやろうと思ったのだが、咄嗟に言葉が出て来ない。
「何してんだよ、俺の部屋で!」
結局出て来たのは恐怖のために大きくなり過ぎてしまったアホみたいな問い掛けだ。
女は答えなかった。ただ、足が存在しないかのような不気味な摺り足で男に近付いたかと思うと、ゆらりと枯れ枝のように細長くてすぐにポッキリと折れそうな腕を伸ばし始めた。
男は悲鳴を上げてズリズリと後ろに下がり、立ち上がると女から逃れようと自室の外まで飛び出した。
廊下には呑んだくれている夜明荘名物の爺さんがいた。何号室に住んでいるかは不明だが、とにかく夜になると何階と言わず、廊下で風に当たりながら、不機嫌そうな顔で酒を呑んでいるのだ。
「なんじゃい。お前さんの部屋の前は夜になかなか静かだから、呑むにはいいと思っていたのに――それにしても今日はどの部屋もまるで通夜みたいに静かじゃがのぉ」
「そんなことはどうだっていい。爺さん、俺、追われてるんだ!」
「自分の部屋から飛び出してきて追われてるとは何じゃ。鼠かゴキブリか、それともまさか女か? おいおい、刃傷沙汰とかは止めてくれよ。刺されて出血死しても構わんから、儂の目の届かないところで頼む」
「いや、女とかそういうんじゃなくて、」
まあ性別的には女かもしれないけれど、そこは別に特筆するべきところでも何でもなく、だから、
「幽霊が俺を追ってきているんだ!!」
言ってから自分の発言のあまりの荒唐無稽さに男は驚いた。というか自分で自分に引いた。
「何を言っておるんじゃ……? 暑さで頭がおかしくなったのかの」
とは言え、襤褸切れ女の正体が何であれ、今迫っている脅威には変わりがない、と思ったのだが――
相変わらずの足が消えたかのような摺り足で彼女は男に近付いてくる。
「コイツだよ、コイツ」
男は爺さんに女を指差して示してみるものの、
「だから何を言っとるんじゃ……」
呆れたように首を振られてしまった。
「見えてないのか?」
「お主には何か見えているのかの?」
男はもう一度襤褸切れ女の方を見てみた。女は変わらずそこにいた。にも関わらず、爺さんには見えていないのだ。
「儂からするとのぉ……鼠でもゴキブリでも女でもない、大して実害のない幽霊なんぞを熱帯夜にお主が妄想して、一人で喚いているようにしか見えんのじゃよ」
「……そうかよ」
たまには家で呑んだらどうだジジイ、と言ってみたものの、暑いから嫌じゃ、とあっさり言い返されてしまった。
男はすっかり気落ちしていた。一人で喚いていただけ、か。確かにそうかもしれない。
ベッドの下の視線も、立ち上がる時に女に触れたと思ったのも気のせいだったのか。男は念の為に女に手を伸ばしてみたが、手は擦り抜けてその姿が煙のように揺らぐだけだった。
男は溜息を吐いた。全てが自分の妄想だったとするのなら、それを正常な状態にリセットするために必要なのは寝ることだ。明日も大学があるのだ。意味不明な幽霊なんぞを本気にして、ただでさえ暗くて危険に満ちた奥野の地を逃げ惑ったりするべきじゃない。
自分の部屋に戻ると、やはり何者かに見られている気がした。何となく巫山戯てみようと思って、空室である101号室と接する薄い壁をノックしてみる。……ノックの音が返されてきた。
ふうん。やっぱり誰かに俺は監視され、付き纏われているのかもしれないな、そんな風に男は思う。
しかし、それも全て自分の妄想に過ぎないのだ。そう感じた時、急激な眠気が襲ってきた。
……ああ、これは夢なんじゃないか、と男は思う。
やけに実感を伴っているが、夢を見ている間はそれを夢だと気付かなかったりするものだろう。
男がそもそも夜に起きるなんてことからおかしかったのだ。何もかもが理屈に合わない。ということは、これが現実ではないということなのだ。じゃあ安心じゃないか。何もかもが安心じゃないか。
男がすることはただ一つだった。寝るだけだ。
ベッドの上で男は身体を丸めた。明らかに丈の足りないタオルケットをうまく被り、全身を外から覆い隠すようにする。
まあ、全ては現実じゃないし夢だし、起こる異常事態も全部全部男の妄想に過ぎない訳だが? しかし、ちょっとは不安で怖いし。憂いは断って、さっさと眠るべきだろう。
タオルケットの外、男の耳元で誰かの息遣いが聞こえる。
いきなり男の上に誰かが馬乗りになる。全てが五月蝿い、止めてくれ。鬱陶しいんだ。今は何より深い眠りの底に落ちていきたいだけなのに。
ゴリゴリと頭に何かが擦り付けられている。馬乗りになった誰かが男の頭に自分の頭を擦り付けている姿を妄想する。しかし、それは妄想に過ぎない。頭の骨が鳴ってるだけだろ? じゃあ俺は今この瞬間に、骨鳴病とか現代の奇病に侵されたとかなんだよきっと。眠い眠い、全ては夢なんだから眠れば解決さ。
「ふふっ。あはっ……全部、全部ダメになっちゃったぁ。あぁ、うぅ、あぁ、あぁ。死んじゃえ。死んじゃえ。死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ!! うひぃ、あっはっはっはっは。死んでも構わない殺してやる。もういいんだどうでもいい。私は私は私は。貴方は貴方は貴方は。もう終わりでもう終わりだから終わりにするだけなんだ。全てをあるがままに。全てを元通りに。死ねばいい。殺せばいい。そうすれば全部元に戻る。私は私に戻り、貴方は貴方に戻り、だから幸せ。とても幸せ」
耳元で壊れたラジオが鳴っているようだ。
「死ねばいいんだ。死んじゃえばいいんだ。死ね。シネ、しね――死ね。嗚呼、ああ、嗚呼、ああ」
男は自分がマフラーでも付けて眠っていたのかと疑う。首がギリギリと絞まる。苦しい。でも夢なんだ。これは夢だから。夢であって欲しいから。こんなおかしい幽霊なんかにここまで呪われる覚えなんてないから。
だから。
口元から涎が垂れる。唐突に気付いたのだが、眠りよりも深い眠りという物もある。男が今、心より求めている物。眠りを永遠にする方法がある。そうだ、死ねばいいのだ。そうすれば、ずっとずっと眠り続けることが出来る。覚めることのない眠りを、男は手にする事が出来る。
それも悪くないかと思ってしまうくらいに男は眠い。どうしようもない眠気。
それこそが死へと誘われる予兆だとでも言うのだろうか。
男は落ちそうな意識の中で、目を開けた。
タオルケットはいつの間にか顔からずり落ちていた。
――目が合った。
襤褸切れ女の顔を覆い隠していた黒布も、今はなかったからだ。
その顔を見た時、男はこの悪夢の正体をようやく看破した。
深い納得が心に染み渡る。
そうか、君か。君だったのか。
男はそのまま意識を手放し、そして深い深い深淵へと潜り、幽霊の正体、この悪夢の真実、襤褸切れ女の素顔に関してを反芻していた。
男は女のことを思い出していた。
全ての終わりに繋がる始まりの記憶に、男は手を伸ばそうとする。
その記憶は深い絶望と繋がっていて――男は声にならない慟哭を上げた。