同僚Kの二択
「君はどっちでもいいっていうけど、去年の暮れの十二月二十七日にそこの国道であった死亡事故の事を知らないのか。……本当に知らない? 帰省中のボックスカーとトラックが事故ってね。もうちょっと詳しく言うと、反対車線に横転し掛けのトラックが突っ込んでボックスカーの上半分を削ぎ取った、という事故だったんだ。運転手の夫と助手席の妻は咄嗟に身を縮めて辛うじて軽傷で済んだけど、後部座席の娘の方は頭が半方無くなってたらしい。娘の姿を見た妻は世界の終りの如く絶叫して、一方の夫の方は冷静にシャツを脱いで娘の頭の傷をずーっと押さえていたそうだ。
……フフ、そう冷静に。人間パニックに陥るとそういうもんなのかも知れないね。冷静に無意味な事をする。Nはケネディ暗殺の映像を観た事ある? あの時も吹っ飛ばされた脳髄をかみさんが一生懸命集めてたよな。絶叫する妻と、手当てをする夫。どっちが冷静だったんだろうか」
四畳半二つをアコーディオンで仕切った貧乏くさい社員寮でKが久しぶりに語り出した。普段無口なこの男が暑苦しく語り出すきっかけは、タコ娘のフィギュアだったりトランプ手品だったりと、二週間後の天気と女の機嫌くらい予測不可能だ。今日なんて会社の催しで余ったお菓子を見せただけなのに。チョコクッキーや徳用サイズのポテトチップその他もろもろ、そして俺の好きなパンチコーラ(十円)。そう、駄菓子のあれ。
久しぶりに懐かしい物を見たせいで俺は少し興奮してしまった。嬉しくなってKにも見せてやろうと思ったんだ。今の子には分からないだろうが、俺らの世代では駄菓子は一つの文化を形成していた。店のラインナップはほぼ変わらないのに、なぜかその時々で流行りがあり、食べ方があり、勝手な呼び名があった。パンチコーラは水に入れて飲むものではなくて直接口に入れて泡だらけにするもので、バクダンゼリー(と呼んでいたでっかいゼリー)やコーラ(水で薄めたコーラのようなジュース)はキャップ付き飲料水の無い時代の貴重な水分補給源だった。きな粉棒とソース煎餅半分とが等価交換される等、俺らは駄菓子を通して原始共産主義すら経験していたのだ。
見るからに庶民のオーラ全開のKも駄菓子に色々な思い出があるに違いない。そう思ってわざわざ『パンチコーラ』のほうを向けて詰め合わせ袋を見せたのに、「僕はシャンペンソーダ派だから」というような反応は無く、おもむろに「それとそれ、どっちにする?」と箱入りのお菓子の方を指さして聞いて来た。癖のある人間がそんな反応かよ。それで少しがっかりして別にどっちでもいいと答えると、Kの目が一瞬鋭くなって、唐突この事故の話を始めた。お菓子の袋詰めを見て血みどろの事故の話をするなんて、ほんと何を考えてるのか分からん。
「無茶な運転をしていた訳じゃないし、被害にあった家族は本当についてなかったとしか言いようがないよ。まぁ事故なんてもんはたいてい不運が絡むもんなんだろうけどさ。後はトラックの運転手が捕まって、亡くなった娘さんがいかに素晴らしい存在だったか、無限の可能性を消し去ったのがいかに罪深いかという話になるところだけど、この件はちょっと変わっていた。可愛い可愛い御嬢さんの命を奪ったトラック運転手は無罪放免になったんだ」
「……別の無謀運転車を避けたから、とか」
「いきなりそんな答えが出るとは、さすがNだな」
「最近そういう事例があったのを思い出しただけだよ」
「そういう自分と関係ない事でも興味を持って憶えているから、さすがなんだよ」
Kは最近急に馴れ馴れしくなった。少し前までは自分が喋りたい事をしゃべるだけだったのに、このところ相手の発言を褒めたり持ち上げたりするようになっている。これが単に気心が知れたからならいいのだが、彼が少し前からスピーチやプレゼン、演説に金言集、さらには落語の本まで読み漁っているのを俺は知っている。その付け焼刃的知識から生み出された偽の気安さ、偽の馴れ馴れしさではないだろうか、と思うとあまりいい気がしない。
なんで良い気がしないか。彼と自分との序列を気にしているとか。いやいやKを下に見た事は一度も無い。ちょっと癖があるがそれは俺も同じだろう。世の中にある幾千幾万の不具合の一つに過ぎない。同列の人間だ。
逆に下に見られていると思うからか。上手いこと人を誘導してやろう、操ってやろうと思う自体、相手を舐めているのと同じ事と言える。それが癪に障るのだろうか。
まあいい。で、何だっけ。トラックの運転手は罪に問われなかったと。
「じゃあ直前に無茶な運転をした奴が捕まったと」
「半分当たり。罪に問われたのはトラックの五台前の運転手だった」
「五台前の? 後出しばっかりじゃよく分からんな」
「まあまあ、説明させてくれ。いいかい? 片側二車線の道路で起こった衝突事故で、被害に遭った車は右車線、つまり国道の中央寄りにいた。反対車線のトラックも右車線、つまり中央側の車線を走っていたんだ」
「状況的にはそうだろうな」
「トラックの運転手も別に乱暴な運転をしていた訳じゃない。普通車が左車線からいきなり右車線に入って来たから咄嗟にハンドルを右に切って、あっと思ってまた直ぐ左に切りなおした」
「荷物の重さで横転したのか。その普通車は何で飛び出してきたんだ」
「バイクをよけたって」
「じゃあそのライダーが捕まったって話か」
「トラックの五台前の車だって言ったじゃないか。さあN。考えてみて」
いつもながら持って回った言い方だな。考えてみてって言われても、もう少しヒントなりをくれないと絞り込めない。
今日が2月10日だから一月半前の事故だ。随分近場で起こった事故なのに全然知らなかった。もっとも一人事故死ということなら別段珍しくもないのかもしれん。事故の後、血の跡を消すあの砂を見てうんざりする事はあるけど、どんな事故だったかまでわざわざ知ろうとは思わないし。
ネットで調べたなら事故の様子が出てくるだろうか。いやどうだろうな。なぞなぞじみたKの質問の答えまで乗ってるとは思えない。県警のホームページを見ても死亡事故一件、と数字で表されるだけだろう。事故当日のテレビなら夕方、夜のニュースで一回ずつくらいは報道しただろうが、俺の部屋にテレビは無い。Kの部屋にもない。まして新聞なんて取ってない。
K自身は何処でこの事故の話を聞いたんだろうか。
「そのライダーは、右車線から合図も無しに車線変更してきた車に驚いてブレーキをかけたんだ。急ブレーキをかけたバイクに後続の車はハンドルを切って右車線に大きくはみ出した。さらにその車をトラックが避けて対向車とぶつかった」
「その最初に右車線から来た車がトラックの五台前の車……でいいのか?」
「そう。その運転手が捕まった」
「雑な運転のせいで連鎖的に起こった事故か。そいつをとっ捕まえたって女の子は生き返らんし、親が可哀そうだな」
「原因となった運転手は綺麗好きだったんだそうだ。……だけど僕は別の人間も罪に問われるべきだと思ったんだよ」
綺麗好き? どうしてそんな話が。
「トラックが過積載だったとか?」
「事故の二時間前、この車の運転手がコンビニに寄った時に店にいた小学生」
「はぁ? なんでそんな関係ない子供が出て来るんだ」
「その運転手は何故左に車線変更したか。実は車線変更ではなかったんだ」
「……はぁ」
「助手席に気を取られたんだよ。右手でハンドルを持った状態で助手席の方へ向いてしまった。それで自然とハンドルを左に切ってしまったんだ」
「横向いたくらいでそんな事にはならんだろ」
「助手席で驚くような事が起こっていたら?」
驚くような事。なんかもうあんまり真剣に考える気がしないんだが、例えば虫が張り付いていたとか? 蜂、ムカデ、カメムシ、ゴキブリとか。しかしその場合気にはなるけど、どうにもしようがない。正面向いて運転して、時折ちらっと見るくらいだろう。体が左を向くとなると、夢中になって手を出してる状況ではないか。
女? ……いやそれも違う気がする。触るだけなら左を向く必要はないし、運転そっちのけで手を出すならいくらなんでも女の方が『前を向いて運転して』というだろう。よっぽどのアホか色気違いか自殺願望持ちでも無い限り。そんな原因で事故起こして死んだ日には、遺族がどんな顔すればいいのか。夢中になってブレーキが間に合わなかったみたいです、と聞かされたら――
ん、ブレーキか。
……ブレーキねぇ。
「その運転手は綺麗好きだったって言ったな。助手席を何かで汚したんじゃないか? ブレーキを踏んで助手席に置いていた物がひっくり返った。どうだ」
「おぉー! そう! そうなんだよ!」
「それで助手席を綺麗にしようとしていた」
「そう! ほぼあってる! さすがNだな」
「ほぼって、もういいだろ。結局何が原因だったんだ」
「会話の流れから分からないかい? お菓子だよ。助手席に箱を置いて運転中につまんでたんだ」
「運転手は綺麗好きって言ったろ。矛盾してるぞ」
「彼がいつも食べていたのはカスが出ない方、ビスケット生地の方だったんだ。ところがコンビニで最後の一箱を子供に取られてしまって、普段食べないクッキー生地の方を買ったんだ。その二択に特に思い入れが無かったし、大して違いは無いと思っていたからね。そして真っ黒の助手席シートに箱を乗せてつまんだ。しかしクッキー生地の菓子はどうやってもクズが出てしまう。その状況で彼はブレーキを強く踏んでしまった。ひっくり返る箱。箱をひっくり返すのは別に初めての事じゃなかったけど、箱を戻すとそこにはいつもと違う光景があったわけさ。粉で汚れまくったシートに彼は驚いた。運転の振動でメッシュの助手席シートにどんどん沈んでいきそうだ。今すぐならまだ払い落とせるかも、シートを叩いたら粉が浮いて下のマットに落とせるかも、とやってるうちに半分ほど左車線に入ってしまった。そしてバイクのライダーはブレーキをかけ、後ろの車は突然迫ってくるバイクを避けようと右に膨らみ、右車線を走っていたトラックはその車を避けようと咄嗟に右にハンドルを切り、直ぐに戻し、トラックは横転しつつ反対車線に突っ込んだ。つまりだよ。きのこの山とたけのこの里の選択で人が死ぬこともあり得るって事。だから真剣に選んで欲しいんだよ。さぁどっちにする?」
ふざけやがって。
絶対作り話だ。口から出まかせの嘘っぱちだ。運転手の癖とか、事故現場の描写とか、コンビニのガキとか、どう考えても公表されない話をさも見て来たみたいに言いやがって。お菓子二つでよくもまぁここまで下らん事を考えるもんだな。
あるいは人前で話す練習の類か? スピーチか何かを頼まれたから本を何冊か読んで、さらに話の構成を実践してみる。練習相手は手ごろな人間、つまり俺で、お題は世にありふれた『きのこ・たけのこ対決』でやってみた。こんなところだろうか。準備した話はあと三つか四つくらいあるかもしれない。犬・猫とかパン・ご飯とか。しかしこんな変人にスピーチ頼む奴がいるだろうか。
……まぁいないとは限らないか。Kが社交的に見える程偏狭な奴もいるだろう。海の底でたまに落ちてくる鯨の死骸しか食べない海老みたいな奴が。
そんな事はどうでもいい。問題はKの二択に答えて、奴の誇らしげな表情を消す事だ。
こいつの思い通りに答えてたまるか。きのことたけのこのどっちを渡すべきか。
ごくごく単純に考えるなら、たけのこの里を差別的に扱った事から奴はきのこの里が欲しいという事になるが、勿論そんな可愛い奴じゃない。欲しい方を貶して相手にそれを選ばせない、なんて子供でもやる。
どちらに誘導しようとしていたか。
仕草や表情も重要だ。そこに違和感があったかどうか。
そして最もややこしいのが、Kが俺をどの程度の人間と見ているかだ。俺の事を裏をかく程度で出し抜ける人 間と見ているか、裏の裏まで必要か、裏の裏のそのまた裏まで必要か。
どっちにしても嫌な気分になりそうな気しかしない。Kが欲しい方を渡したらきっと今以上のしたり顔を見る事になるし、好みじゃない方を渡したとしても『裏を読み過ぎたか』とか『甘く見積もり過ぎたか』とかなめた事を言われそう。
なら――
「どっちもやらん」
「え?」
「やらん。どっちも俺が食う」
「うそ。こういう時は一か八か勝負、ってやるもんじゃないの?」
「いや駄目だ。どっちもやらん」
「なんで」
「何か気に入らんからだ」
言ってやった。ざまぁみろ。何でもそう都合よくいくと思うなよ。
だいたい物事を二つに分けるってのが嫌いなんだ。~には二種類が存在する、とかああいうのが。言い始めた奴はそれなりに知恵があったかもしれんが、あのフレーズを真似して使う奴には知性を感じない。甘いかしょっぱいかくらいしか判別できない貧乏舌がグルメレポートをするようなもんじゃないか。
さあ笑えK。予想外に堂々と相手に抵抗されると人は笑うもんだろ?
……ほらほらにやにやし始めた。
Kは頭をかきつつ、まいったなぁという感じで立ち上がった。そして
「しょうがない。じゃあ自分のを食おう」
と、たけのこの里を棚の奥から取り出して来てびりりっと開封した。
ここまで来てようやく彼の質問の意図が分かった。
俺の答えをここまで全部想定してきっちり当てておきながら
「落語の『金槌』がやりたかっただけかよ!」
擦り減るからって隣が金槌を貸してくれない、仕方ないからうちのを使おうっていうあれだ。
「実生活の中に混ぜ込んだ方が面白いかなと思ってたんだ」
「つまらん作り話までして」
「さすがN、やっぱりばれたか」
「クソ、どうせきのこの山も持ってんだろ」
勿論と言う代わりにKはきのこの山を取り出した。
「やっぱり。何が『真剣に選んで欲しい』だ。自分だってどっちでもいいと思ってるくせに。こんなもんどっちでも同じじゃないか」
腹が立って袋詰めの駄菓子を丸ごとKのほうへ放った。
Kは実に満足そうにそれを受け取って、開けたばかりのたけのこの里をこっちへ放った。その拍子に箱が開いて俺の膝にクズがかかった。
検証はしていないんですが、Kの作り話と言う事で。