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『○月4日 異世界四十七週目
今日も、あんまり変わらないわ。朝は女将さんのお手伝い、お昼はルオスのお弁当を届けに行って、夕方はやっぱり女将さんのお手伝い。休憩で、トキちゃんとお茶をするの。あ、お洗濯物がよく乾いた日ではあったわ。今日はお天気だったし、風が強い。
でも夜には、出歩かなかったの。カードが教えてくれたから、今夜は準備だけ。明日には、お家に帰れるみたい。前日に分かるだなんて、ちょっと急よね。まぁ、分からないままお別れをするよりは、何倍もマシだけど。黙っていたけれど、女将さんは何となく分かっているみたい。ルオスのお母さんだって思えないほど、勘が良いのよね。きっと笑ってお別れしてくれると思うんだけど、ルオスにお別れを言うには、勇気がいるから、お手紙を書くことにしたわ。
手紙と言っても、私が書けるのは、たった二言だけだけれど。お仕事が立て込んでいて今日も帰ってきていないし、まだまだ忙しいでしょうから、もしかしたら、会えないかもしれないわね。さて、今日は寝てしまいましょう。』
◇◇◇
ぱたんと日記を閉じる。時刻は、夕方近く。まだ日は高いけれど、すぐに沈んでしまうだろうと思われた。
彼女にとって、今日は、一段と時間が過ぎるのが早い気がする。朝起きて、まだ時間があると思っていたら、もう夕方なのである。本当に早い。
そろそろお客の足も途絶える時間であるし、本当なら、定時ということでルオスも帰宅する時間だろう。けれど、彼は今日も忙しそうだった。
ふと思い出して、彼女は鞄から小さな手紙を取り出す。字の間違いがないか不安ではあるが、これは誰にも尋ねられないことであるし、多少のことなら、彼も無理に読み解いてくれるだろう。とても簡単な言葉しか、書いていないのだから。
「ぎりぎりまで粘ったけれど、もう、駄目ね。時間切れ」
彼女は、二階に宛がわれた、自分の部屋を見渡した。女将さんから借りた服は、こっそり洗濯してなおしている。もうほとんど、彼女の私物はない。掃除は彼女が引き受けていたし、この部屋には入らせなかったから、どうなっているのか、女将さんはともかく、彼は全く知らないだろう。
小さくかけ声をかけて、荷物を持つ。意外に重いと顔を顰めながら、彼女は階段を下りた。カウンターには女将さんが居る。彼女が初めて会ったときに着ていた、制服を着ているのを見て、女将さんはちょっと目を見張った。けれど、やっぱりどこか分かっていた様で、苦笑してみせた。
「水くさいねぇ」
そういわれて、彼女は小さく謝罪する。一度、持っていた荷物を放り出すと、彼女に抱きついてお別れを言った。ちょっと泣きそうなのを我慢する。それも結構、大変なのだけれど。
さて、荷物を取ろうとすると、持ち上げられて、渡された。視線をあげると、普段通り素敵な笑顔を浮かべた、レクタである。後ろはレノアやクウハが居て、いつもの格好と違うレイナを、少し不思議そうに、何か感じるのか居心地悪そうに見ていた。
「バレちゃってた?」
彼女が苦笑混じりに尋ねると、赤髪の美男子は、普段通り、悪戯っぽい笑顔で頷いた。普段とまったく変わりがないのが、かえって安心できる。荷物を手渡されると、彼女はちょっと迷った後で、ルオスへの手紙を彼に預けることにした。この芸術的な女たらしに渡していた方が、なんだか上手くいきそうな気がする。
それから彼にも簡単にお別れを言うと、ますます混乱しているレノア達を見た。ちょっと慌てているのが面白くて、彼女は微笑む。二人は微妙な雰囲気を察しているのか黙っていて、彼女も余計な事は言わず、二人にお別れのキスをした。
「あ、あの、レイナお姉ちゃん?」
レノアが声を掛けるが、彼女はもう一度にっこり微笑んだ。そんな彼女に、レクタはにっこりと笑顔で手を振り、レノア達を抑える。彼に全部任せるのは卑怯かなとも思いつつ、彼女は店を後にした。
まるで夜のお散歩の時の様に、慣れた道を歩いていく。周囲の人の視線が痛いのは、恐らく制服を着ているからなのだろう。ちょっと恥ずかしいと思いながら、彼女は足早に通りを歩いた。だんだん人通りが少なくなると、丘に続く道が見える。ちらりと空を見上げて、まだ日が沈んでいないことを確認した。出来れば、街を見渡しておきたい。少し急いで駆け上がる。息が上がったが、呼吸を整えながら街を見下ろした。
いつもお夕飯の買い物にいく商店街に、ガーディアン拠点まで行く通り。レクタの家はあのでっかい建物だろうし、まだ行っていない場所もたくさんある。ふと彼女は思い出して、上方を見上げた。少し上には、ルオスの部下である金髪の彼の家がある。
「やっぱり、感慨深いわね」
悪戯し回っただけだとしても。「ええと」と彼女は、指を折りながら、後始末の確認をする。
「リストは処分したでしょう。化粧品は全部配っちゃったし、ルオスが気にしていた物体は完全処分。面白そうだから、写真は少し残してきたけれど、ルオスの日記もきちんとしまったし、メモは全部持っているし、レクタに手紙は渡したし。トキちゃんは、昨日のうちにお別れしているから良いとして、…贈り物もちゃんと持ってる」
そうして彼女は首にかけたペンダントを見た。シェイラン家の伝統である婚姻の証と一緒にかけているので、ちょっと格好が悪い。
「これで、シティ・ロマージュじゃなかったら、私、泣くわよ。お金もあんまりないんだから」
自分で言って、自分で苦笑。それから、帰ることにも不安になってきた事に気がついた。それが不可抗力だとしても、多大な心配をかけたのだ。自分の父親に平手で叩かれるぐらいは、覚悟しなければならないだろう。
小さく喉を鳴らして、深呼吸。足下に、荷物を詰めた旅行鞄を置いているので、バス停でバスを待つ学生に見えないこともない。場所は芝生の茂る、丘の上だが。
まだお迎えが来ないのだろうかと思いながら、空を見上げる。鰯雲が連なり、夕焼けを反射していた。景色は良い。幸いにも、雨の中を帰るという事態は免れたのは、不幸中の幸いだったか。二度目の溜め息を吐いた時、彼女は世界全体の境界線が揺らぐのを感じた。
「やっと、なの」
苦笑して、足下の荷物を取る。正直、これ以上待っているのも辛い事かもしれない。昨日のうちに諦めていたつもりだが、やっぱり会いたかったのだろうか。呼吸していると、胸が痛んだ気がして、彼女は片手をそこに持っていった。
「レイナ!!」
ふと名前を呼ばれ、彼女はそちらを見る。境界線が曖昧になっているせいだろうか。多くの気配が濃密になっていて、気がつかなかった。本当に微かに、だが、胸が痛む。
「あら、遅かったわね、ダーリン。いいえ、早かったのかしら。お仕事抜けてきていないでしょうね」
息が荒い彼を見て、彼女は苦笑する。手に手紙を持っているから、レクタが届けたのだろう。それも、予想以上に早く。そして、やはり彼は、彼女の行動範囲を把握しているようだ。手紙に書いていた内容だけでは、ここには来ることができなかっただろう。
「安、心して、くれ。終わ、ら、せて、きた…!」
呼吸の合間に、早口に告げる。こんな時にも律儀に言う彼に、苦笑した。彼は「そんなことより!」と、空気を貪るために下げていた頭を上げ、まっすぐにこちらを見る。しまった。泣きそうだ。
「あら、まぁ。貴方、身体が透けているわよ」
「違う。レイナが、そう、なんだ」
確かに。お互いの境界線が元に戻っているのだから、相手には相手の身体が透けて見えるはずである。まだ、触れられるかどうか試してみたくて、彼女はそっと彼に手を伸ばした。まだ、大丈夫。と、その手を捕まれて、彼女は驚いて彼を見た。
「これは、一体何なんだ」
手紙を差し出し、彼は言う。怒っているのね、と心中でつぶやき、彼女は「お別れのお手紙」と告げた。苦笑するしか、ない。
「そういうことじゃなくて」
一旦言葉を切ると、彼は深呼吸する。どうやら酸素が足りていないようだ。
「どうして、教えてくれなかったんだっ」
それは、もちろん彼も仕事が立て込んでいて、という理由もある。流石に、辛くて言えなかったとは言えず、彼女は「びっくりするだろうと思って」と曖昧に返した。彼が悲しそうな顔をするのを、少し笑って見返す。彼は混乱して、絶句している様だった。
「そろそろ、時間ね」
手首に彼の感触が消えかかり、彼女は彼を見た。こんな所まで見送りに来てくれる事を嬉しく思ったが、そんな彼の律儀さが、少しだけ辛いと感じる。それでも、きちんとお別れを言う時間があったことに、彼女は感謝した。そっと、彼の輪郭に手を添える。もう、触れることはないけれど。
「ありがとう、ルオス。…楽しかったわ」
願わくば、再び、出会えますように。そっと額に口付ける。母方の従兄であるジョンには、ふざけて“魔女の祝福”なんて笑われたけれど、どうか、貴方に祝福を授けることが出来ますように。
すっと手が離れる。
刹那、彼女の身体は、境界線に引き寄せられた。思わず、目を閉じる。
一瞬だけ、強い風が吹いた、気がした。