1.5 エビの化け物と沼の鍋
レイラは、不快な汗でべとつく体を起こして、ベッドから起き上がった。
再び彼女は嫌な夢に思考を蝕まれて、今日も浅い眠りを何度も何度も繰り返しているのだ。だが、今日のレイラはベッドに乱暴をする事はなかった。それよりも、不敬な少年は今日の昼間にやってくる。レイラはそうなる様に、彼に約束を取り付けた。
それを考えて、悪夢を見つめてしまう自分の思考を脱出させた。
遠くの壁に設置してある大きい時計に頭を向けたレイラは、起床まで一時間を切っていると気付く。執拗に覚醒を促された結果、浅い眠りしか味わえなかったのだが、それでも仕事を放棄する事は出来ない。
彼女は仕方なくといった感じで一時間早く体を動かし始める決意をせざるを得なかった。
*
レイラの午前中の仕事は、一件の審判であった。どうやら被告の行った軽微な窃盗は事実であった様だが、懲りずに何回も繰り返していればこうして元老院に出頭する事になってしまうのだ。レイラのため息は日々尽きる事はない。
それはともかくとして。
もうじき昼の時間である。レイラはいつも通っているレストランにはいかずに、売店で昼食を購入してから指定の場所に向かうのである。
そう。公衆の面前で人に恥をかかせる不敬者にはしっかりと、説教の続きを聞かせなければならないのだ。迫る天誅の事を想像するだけで、彼女の歩む速度はシャカシャカシャカシャカと、加速に大変ひたむきになった。
そうして高速で移動する彼女の異様な姿に間延びした声が降りかかる。
「レイラ聞いたー?」
何を聞いたというのだろうか。
とにかくレイラは、天誅を目前として高ぶる感情を気合で押さえて足を制し、銀の髪の毛を振り乱して頭を声のする方向に向ける。すると、ケーヴィがこちらに向かってチョロチョロと走ってきているのが見えた。
まずい。極めて真面目な説教の最中に、極めて不真面目な彼女の同席という事態になってしまえば、この日の為に言うべき事を考えてきた努力も含めて、少年への制裁は台無しになってしまう。そう考えてレイラは、かなり強くケーヴィの行動を制する事にする。
「ちょっと今忙しいですから!」
これほどまでに強くケーヴィに当たったのは久しぶりだとレイラは思う。つまり、ケーヴィの追従を断固として阻止したいのだ。
だが。レイラのケーヴィに対する言動は、的外れであった。
「そうじゃなくって! グローバルフォールが声明発表したの、聞いた? 元老院に調査が入るって」
レイラは、ケーヴィの追従を阻止しようなどという下らない事を考えていた事実に対して、少しだけ恥じた。ケーヴィだって真面目な話をする事はあるのだ。
「どういう事ですか?」
とりあえず心中でケーヴィに頭を下げつつ、結構重大であろう話の真相を掘り下げる。するとケーヴィは――彼女にしては真面目に――しっかりと応答してくれる。
「コエスフェルト・ノールディンで誰かがかなり大規模な魔法術を展開してるとか何とかで…… で、元老院に調査に来るんだって。私調査部だから、グローバルフォールの兵隊と共同で調査しろって。めーんどくさーい」
レイラにとって、ケーヴィの真面目な応答は冒頭だけであった。
端からケーヴィは、『めーんどくさーい』という事をレイラに伝えたかっただけであったのか。とにかく、ケーヴィの意図を察した時点でレイラの次の行動は決定する。彼女の愚痴に付き合っていたら、それこそ日が暮れてしまうと思ったのだ。
「そうですか、それは大変でしたねー」
脳内に僅か数秒で浮かんできた文章を、レイラは棒読みしつつ、再び足を動かし始める。
「ちょっとー!」
もう既に、遠くから声が聞こえるレベルには、ケーヴィとの距離は離れたのだろうか。ケーヴィの声を背から受ける格好で、レイラはシャカシャカと足の動作を加速させる。そのまま彼女は巨大な廊下に行きかう職員の中に紛れると、ケーヴィの声はとうとう聞こえなくなってしまった。
*
少年はやってこない。
レイラは、じーっとひたすらに外に設置されたベンチに腰かけていた為に、臀部に鈍痛を感じ始めた。一体少年は何をやっているのだろうか。
そう考えて、少年がしらばっくれてしまったかも知れないという危機感を抱いてしまう。緩やかで暖かな風が吹いているのだが、今の彼女にとっては虚しいだけである。
少年に指定した場所は、元老院の中でも比較的小さい広場である。そうでもなければ、広大な敷地に起因して発見する事が出来ないと考えたからだ。
指定した時間は素早く通り過ぎて行ってしまった。
それでもレイラは少年を呼びつけたのであるから、自分がここから立ち去る事も出来ずに、身から出た錆、鈍痛に耐えながら少年を発見する為に頭を左右に激しく振る。まるでどこぞの砂漠地帯の動物の様相かとレイラ自身も突っ込みたくなる。
「あ、あのー……」
瞬間的にレイラの瞳孔は広がり、瞼は見開かれ、迅速機敏に頭部を九〇度程横に向ける。かくも弱々しい声を発した人物は、そこに白い紙袋を持って立っていた。
――そう、遂に少年がやって来たのだ。
今か今かと待っていた瞬間がとうとうやって来た事を受けて、レイラはすぐにでも説教を開始したい。だが、こういう場面に限って何から話そうか、レイラの脳内ではあらゆる文言が縦横無尽に漂っているから、それを捕まえる事が難しくて、すぐに言葉を紡ぐ事が出来ない。そうしていると少年は、手にしている紙袋をレイラの前に突き出しつつ短く言う。
「これ、お詫びに」
異国の少年はどうやら、礼儀は正しいようである。それが解ったところでどうという事はないのであるが、レイラは以前に聞けなかった彼の名前を先ず名乗らせる為に、礼儀として自分からそれを名乗る事にする。
「いつまで待たせる気ですか、まったく。私はレイラ・シラ・レガリーと言います。元老院異端審問部所属の異端審問官です」
少年は腰かけるレイラを見下ろす形でそれを聞いていたのだが、何やら反応がない。どうしたのだろうか。
外国人の少年に対して疑問でいっぱいの彼女に、彼は、自分もまた疑問符を浮かべているという事をカミングアウトしてくる。
「後半がよくわからなかったんだけど」
可畏はどうやら、レイラの身分の辺りの話を理解できなかったらしい。
それにしても、国が違う人間に難しい事を言ってもしょうがない事であるのだろうか。そうだったとしても、これでもレイラは最初の段階から、少年は極東機構都市地帯の出身であると見抜いて、彼らの使う『極東言語』を巧みに駆使して会話をしているのだ。十分に彼に譲歩しているのだから、きっちり理解してほしいと願う。
そんな事を考えていたレイラは、再び少年の声を受ける。彼の思考はあっちこっちに飛び火するタイプなのだろうか。
「俺は室戸可畏って言います。室戸っていうのが苗字で、可畏っていうのが名前。君達は逆なんだよね」
ちゃんと国によって姓名の順番に規則がある事を、彼は知っている様子である。
――いやいや、そんな事はどうでも良い。少年の名前が『可畏』という奇妙な名前だと知った所で、これから説教を開始する事実は揺らがないのである。
「そうですか。あのですね、この間の件……」
レイラは遂に本題を開始しようとした。開始しようとしたのにも関わらず、世界とは非情である。
ゴーン! という鐘の叩かれる盛大な音が元老院の敷地に響いた。昼間休憩の時刻の終了の合図である――。
それを知っているレイラは、即座に業務に戻らなければならないという自分の状態を認識して、しかし、可畏という少年にも説教をしなければならないのでうろたえてしまう。この時を手ぐすねを引いて待っていたのに、時間とはかくも非情なものなのかと思わざるを得ない。
ところが少年は、そんなレイラを見るなり彼女の心中などお構いなしといった調子で、なんと、勝手な事を口ばしり始めた。
「俺、修学旅行で来てるんだけど、レポートまとめないといけないからこれで勘弁してくれると助かります!」
彼は一体どういう神経をしているのだろうか。こちらだって貴重な時間を裂いて説教をしようとしていたのに。
「何を言っているのですか、あなたは! とにかく……」「じゃあさ、今日の夕方から夜まで時間が取れるから、その時食事でも奢るよ」
レイラの発言は、直後に可畏の言葉に重ねられる事でたちまちに消えた。レイラはしばらく沈黙して思考を張り巡らせて、自分に時間がない事を再認識してから、彼の言う通りにせざるを得ない状況を理解して、その通りにする事にした。彼女は、ケーヴィの言っていた様に本当にデートみたいなシチュエーションになってしまった事を想像して、それを掻き消す為に頭を振るってから言う。
「……わかりました。では、今晩一九時に再びここに来てください」
レイラの同意を受けた可畏は、言葉を受けるなりコックリと頷いてそのまま彼女に背を向けると、元気いっぱいに元老院の敷地の出口に向かって走っていった。この様子を見ると、彼も自分と同じように時間がなかったのかも知れない。つまり彼は、時間を割いてまでここに来たのだ。恐らく約束を反故にする事はないだろう。
レイラはとりあえず安心した。そして、鐘が鳴ってから少し経ってしまった事に焦って、自分も駆けて元老院の建物に戻るのだった。
*
日は落下した。星が外を照らす。
今日は余り仕事が多いとは言えない日であったので、レイラの一日の業務はそのほとんどが早くに終了した。終われば当然デスクや審問所から解放される。彼女は業務時に着用する法衣をとっくに脱ぎ捨てて、毎晩着用しているデザインの法衣に着替えて自室にいた。悪夢ばかり見る事に起因して汗をたくさんかいてしまうので、彼女は同じデザインの法衣を七着は持っている。ケーヴィに発見されたら何を言われるか。
可畏と約束した時間が迫って来る。幸い、レイラの部屋から元老院の敷地内に設置されている小さい広場は比較的短距離である。だから彼女は、そこにたどり着くのに五分もあれば十分なのである。しかし時間にうるさい彼女の事であるから、二〇分前にも関わらず約束の場所に向かわんと立ち上がった。
部屋のドアを開いて、左右を入念に確認しながら、忍び足で広場に向かうレイラ。勿論警戒している理由は言うまでも無い、ケーヴィの存在である。彼女は神出鬼没である為に、もし晩に歩き回っている姿を目撃されたらたまったものではない。あらぬ想像をしてからそれを事実だと周囲に散布して、レイラの弁解作業が始まるのだ。
神秘的な絵の書いてある廊下を毎日使用しているので、レイラはそれに慣れている。初めてこの廊下を通った時は素敵だとありきたりな感想を抱いたものだ。だが今の彼女には、そういった事に気を回す余裕など微塵も存在しない。とにかくケーヴィの目に細心の注意を払って広間に向かわねばならない。
*
幸い、敷地の外に到達するまでにケーヴィに発見される事はなかったレイラ。現在彼女の立つ地点から、ほんの少し歩けば小さい広場に到達できる。だから彼女は、最後の最後まで精神を鋭く鋭く削って、邪悪な魔法術師――レイラも魔法術師であるが――の索敵から身を護らんと、仕事以上に張りつめた空気を作り上げる。そうして、とうとう彼女は小さい広間のベンチに到達する事が出来た。
レイラは広間に到達した瞬間に、一驚を喫するしかない。なぜなら、あれほどの大遅刻をした可畏は既にそこにいたのだ。彼女だって二〇分前に部屋を脱してここに来た。であるから、彼はその前からここに立っていたという事になる。見上げた精神である。
「あれ、まだ審問? 終わってないの?」
そんな彼は、レイラを指さして訪ねてきた。指を指されたレイラは、自分は現在法衣を纏っているという事実に気が付いて、少年に対して思うところを幾つか口にする。
「この間の格好は強制です! それから、これは私の私服です」
レイラは先日の露出度の高い格好が自分の基準であると考えられてしまったであろうと思って、可畏に対しての意識改革を、それはそれは必死で促す。それでも可畏は怪訝な顔をしているので、どうしても納得いかなくなったレイラは、かなり低い、それこそ流麗な少女の声とは思えない音を発して彼に詰め寄った。
「……何か問題でも」
「い、いえ」
彼は手をレイラに突き出す格好で後ずさって行く。そんな彼の反応を前にしてレイラは、譲歩する事にして、とりあえず今後のプランを彼に確認する。
「では、食事を奢ってもらいましょう」
何かがおかしい。レイラの中で巨大な疑問が狼煙を上げて、彼女の思考を阻んできた。
――そうだ。
レイラは可畏に対して説教をしに来たのだった。何やら食事に行くという話になってしまっているが、食事よりも先日の彼の行動に対しての糾弾を行わなければならない。――といっても、よく考えてみれば食事処で説教をすれば、一石二鳥ではないか。
生真面目なレイラは、自分の少々狡猾な考えに対してちょっぴり嫌悪感を抱いてしまって、頭をブンブンと乱暴に振った。
「とりあえず、町のレストランでいい?」
可畏はそんなレイラを見ていて何を思ったのか、言い出した直後にスタスタと歩み始めてしまった故に、レイラは成り行きで彼に追従する事になってしまった。
*
なんという事だ。レストランを探すだけでこんなに歩き回ってしまうとは。レイラは異国の少年にエスコートさせた事に対してかなり深く反省した。こんな事になるならば、初めから元老院のレストランに彼を案内して、そこで説教の続きを――
そこまで考えて、彼女はやっぱり有り得ない事であると頭を左右に振る。もし仮にそんな事をしたら、確実にケーヴィに発見されて、延々と彼女の手の内で人形をやる羽目になってしまう。それはなんとしてでも避けたい事態だ。
ともかく、こうして何の心配もなくレストランに到達しただけでもありがたいと思う事で極めて邪悪な想像を払拭したレイラは、手元にあるメニューに掲載された見るもおいしそうな食事の写真を、気が付いたら鼻歌交じりに交互に見比べていた。はっと我に返って向かいに座る可畏の顔を見ると、彼はいつから見ていたのか、なんとレイラの顔を凝視していた。これは由々しき事態である。
「な、何ですか。早く食事を決めて下さい」
「俺もう決まったけど……」
「……」
レイラは鼻歌を歌いながらメニューを凝視していた事実をとりあえず何とかしようと思って、彼に早急にチョイスする事を促したのだが、既に決まっていると言われれば沈黙するしかない。そうしつつ、必死にメニューの選択をする。
「じゃ、じゃあ『エビの化け物』で」
彼女は得も言えぬ恥ずかしさから、沸騰してしまった心を鎮める様に努めつつメニューで自分の顔を隠し、『エビの化け物』という謎の食事をチョイスしてしまう。レイラは本音を言うと、『エビの化け物』などという怪奇の塊を食べたくないのだ。その横にある『沼の鍋』の方が余程彼女の興味をそそる。
言い直そうかどうしようか迷っている内に、可畏は高々と片腕を持ち上げて、従業員を呼びつけた。そんな事をしないでも、従業員は定期的にやってくるから目と目を合わせるだけで良いのだが。従業員は大変迅速に彼の行動を察知して、大変迅速にテーブルにやって来た。
「いかがいたしますか」
店員によるメニューの聞き出しは開始されたが、未だに羞恥心が燻っているレイラは、メニューで顔を隠す事を止められなかった。
「えーと、『エビの化け物』と、『沼の鍋』をお願いします」「かしこまりました」
可畏はとうとう、謎のメニューをオーダーしてしまった。店員はそれに素早く、快く、そして爽やかに応じて、その場をすたこらと立ち去る。
「あ……」
そんな店員の背中に向かって手をかざしてと小さく呟くしか、レイラには出来なかった――。
それから二人はだいぶ待たされた。しかしレストラン側は、それだけ真面目に料理に取り組んでいるという証左なのだろう。それに、同時に食事を持ってきてくれた辺り、レストランの心遣いの細やかさをレイラは感じる。
「お待たせしました」
大変ハスキーな声で言いながら、ゴツゴツした男性は白いテーブルの上に大きな白い皿一枚と、ぐつぐつ音を立てる黒い鍋を差し出してきた。どうやら誰が何を食べるのか彼は知っているらしい、違いなく、料理は二人の前に丁寧におかれた。
「すげー旨そう!」
可畏は黒い鍋の中身を黒い瞳で見つめて、それに対する感想――ありきたりな――を端的に述べた。しかしレイラの眼前に置かれた料理は――。
「何ですか? これは」
もう、そういった感想しか湧き出てこない。レイラの注文した料理は、縁にかわいい馬の絵が描かれた白い皿に乗っかって、『見るからに熱いです』と言った感じに湯気を立ち上げている。恐らくアツアツな状態なのだろう。しかし、レイラが気にしている問題はそこではない。
どうやったらこの様なレベルに成長するのか不可解でしょうがないとしか言いようのない巨大なエビの化け物は、皿からはみ出んばかりに乗っかっている。――いや、もう皿からはみ出している。
余りに圧倒的な光景を前にして、皿の縁に描かれている可愛らしい馬も心なしか困惑している様にしか、レイラには見えない。寧ろレストラン側は、なぜこの様な可愛らしい馬の絵が刻印された皿に、赤熱する巨大エビを乗っけようと思ったのか。とりあえず、インパクトに比重を置いてこの皿にそれを乗っけてきたのだろうか。レイラにはどうしてもそこが解らない。
そんな事を考えながら魑魅魍魎の一端を眺めていたレイラの向かいから、カチンカチンという音が発生して、耳に入り込んできた。彼女はすかさずそちらの方を見る。と。
「レイラ、食べないの?」
可畏は、既に食事を開始していた。音は、どうやら彼の前に置かれた鍋と、手に握ったスプーンから発生していた様だ。口いっぱいに沼の鍋の一片を頬張って、レイラが食事を開始しない事に対して、彼はさも不思議といった調子で尋ねてくる。
「エビの化け物食べます?」
「いや。遠慮しとくよ」
なんだか、可畏の様子を見ていて急に腹が立ってきたレイラは、半ばあてつけの様に彼に強く言い放った。すると可畏は、花が咲きそうな程に爽やかに、笑って返してきた。
それだからレイラは、眼前に置かれたエビの化け物を処理する事が決定してしまったのである。しかし、まだまだ諦めたくないレイラ。今度は、彼の食している沼の鍋を凝視する作戦にシフトする。そうしていると、しばらくこちらに目をくれなかった可畏はその視線にようやっと気が付いて、食事を頬張りながらレイラに言う。
「こっち、食う?」
(来ました来ました!)
次の瞬間レイラの心の中は、闘士の決闘を見て白熱するオーディエンス達のそれよりも、遥かに、そして凄まじく高揚し始める。彼女はもう、このチャンスを逃す訳にはいかないのである。
「では、こっちのエビの化け物を差し上げ……」「いや、いいよ」
レイラはどうしても可畏に、エビの化け物を胃の中に下してほしかったのだが、彼は即座にレイラの心意気――少々歪んだ――に反応してそれを否定した。従って今度は、沼の鍋とエビの化け物という非常に重厚感のあるメニューを楽しまなければならないという事態に発展してしまうのであった。
*
レイラはこれ以上、食事を口に運ぶ事は出来ない。何しろ、少々ばかり量が減少していたとはいえ、鍋ものと巨大なエビを食べきったのだから。
一介の少女は大質量の食事を胃袋の中に収めたのであるから、それだけで拍手を受けて然るべきとさえ、レイラは思ってしまった。つまり彼女は、それほどまでに総量が多い食事を短時間に終了させたのだ。
余りに腹が膨れてしまった為に、レイラは椅子から動けないのだが、それを可畏は、目を綺麗な円形にして見つめつつ言う。
「す、すげぇ食べるね」
「あなたがエビの化け物を消化してくれれば良かったのです」
「なんか、ごめん」
レイラは本当にその通りだと思ったから、奇妙なものでも見ているといった調子の可畏にありのまま、それを伝える。すると彼は体を小さくして謝罪して来た。出てきた食事の全部は彼の奢りなのであるが、レイラの現在の様子を見て、彼の中で何か思うところがあったのだろうか。
この様な調子で、緩やかに時間は流れていた。
そう、流れていたのだ。今の今までは。
*
ドン! と、レストラン内部に、空間の隅から隅まで染み渡り、腹の底にまで響いてくる音圧が瞬く間に席巻した。その刹那、店内の至る所から聞こえてきた客の話し声はピタリと止まって、やがて客は周囲をキョロキョロと見回し始めた。明らかに異常事態であると、誰もが感じているのだろう。
レイラは状況を確認する為に、腹の重さに耐えて立ち上がろうとしたとき、再びドン! という音圧が、今度はやや離れた位置からレストランのガラスを叩き、彼女の鼓膜も叩いてきた。
この事から彼女は、レストランの外、つまり町に音源があると気付く。
とにかく、それが解ろうが解るまいが、彼女の行動は決まっている。彼女は元老院の異端審問官である。元老院は、立法機関としての側面もあり、また、公安機関も包含しているから、明らかな異常事態であれば、部署を問わずに事態の収拾に当たる。
即ち、レイラの仕事は突発的にたった今発生した、という事だ。
「お会計は任せます!」
彼女は音源のあろう外に向かう為に、後の事を任せる積もりで可畏に大きな声で言いつつ、出口に駆ける。『キャンドル』を持ち寄っていない彼女は、それがなくても立派な魔法術師なのである。
エビの化け物は、実在します。
-チラ裏-
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