1.1 元老院
まただ。いい加減にして欲しくて、少女は上体を起こしてから拳を握って、自分の体を支える柔らかい部分を殴った。それを受けたベッドは、彼女の拳から生み出された暴力を優しく受け止めて、それから彼女の拳も保護してくれる。だから、彼女の手に傷がつく事はない。しかし、そんな事をされたら逆に満たされないと思った少女は、何回も何回も、執拗にベッドを殴りつけた。
少女は、何度も何度も同じ夢を見るのだ。だから彼女は、痛みを味わう事で自分の体を罰して、二度と夢が見れない様にという気持ちを込めてベッドを殴りつける。無駄な事であると、彼女自身もちゃんとわかっているが。
少女一人にしては、彼女の部屋はやけに広い。だから、天から乱暴に落ちてくる雨粒がガラスをたたく音が、広い部屋に拡散しながらたまり込んで、彼女の小さい耳を蹴りつけたり殴りつけたりして来た。しかし、そんな乱暴な音に彼女は感謝する。なぜなら、この豪快な音がしなければ、きっと彼女は目を覚ます事は無かったのだから。あの忌々しい夢から覚める事など、こうでもしないと有り得ない。
外の光が入ってくる。どうやら天に張り付く雷からか。しかし、それだけではどうしても部屋の中は薄暗い。だとしても少女はベッドから起き上がって歩こうとか、そんな事は絶対に考えない。汗でびっしょり濡れた四肢は、夢から来たものか、疲労の塊が蓄積している。だから、歩く事をしたくないのだ。
一通り落ち着いた所で、大あくび。少女には明日も仕事が控えている。だから彼女はもう一度眠る事とした。体躯をベッドの布に潜り込ませて、顔を出さずに彼女は眠る。少しでもあの忌々しい夢から体を守ろうと考えたのだろうか。
*
昨晩の雨は天のついた大嘘か。少女の眠る部屋の中には、無欠な朝ぼらけの光に満たされていた。その光は部屋の壁面にある窓から少しの隙間も無く入り込んできて、やがて目を覚まして状態を起こした少女の目を焼き尽くす程に眩しい。当然少女は目を深く深く瞑って、美しい顔に似つかない皺を瞼近辺に作った。それから段階を経て瞼から力を抜くことで、この空間に目を慣れさせようとする。
たっぷりの時間を使って目をあけられる状態にした少女は、完全に体を起こしてベッドから大地に降り立って、ベッドサイドテーブル付近の壁に設置された棚から、銀色の槍を掴んで、もう一度ベッドに腰かける形でお尻を沈ませた。丁度彼女の座る位置には、部屋の窓の一部を構成する、鮮やかな色のついたステンドグラスの光が降り注いでいる。だから、少女の美しい銀髪はステンドグラスを透過した、赤色だったり緑色だったりの光に染められる。
少女はとりあえず膝の上に、銀の槍を横にしておいた。長さは、彼女の体の半分くらいか。――実際に振るわれる時は、この槍は、彼女の背丈より三〇センチ程高いサイズに伸びる機構が搭載されているのだが――
「はぁー」
吐く空気量の少ない、小さなため息をついて、少女は昨晩の夢を呼吸毎外に排出しようと努力するのだが、毎度同じ夢を見ているのに、そう簡単に払拭出来たら苦労しない。だから、ことごとく無駄な行為であった。その内に、彼女はベッドに体重を預ける事を止めて、銀の槍を利き手である左手に握ると、立ち上がった勢いを殺す事なく部屋の出口に向かう。出口に到達するまでに結構な時間がかかる事が、この部屋の広さを証明している様であった。
*
「レイラ」
どれほどの値打ちがあるか、一般人には想像もつかない純白の法衣を纏った老人が、徐に白髪をボリボリかきむしりながら少女の名前を口にした。
この老人は、レイラと呼ばれた少女と似たような法衣を纏っている。しかし、この老人とレイラの階級は比較する様なレベルでない。つまり、老人はほとんど全てを取り仕切っている様な人物な訳だが、彼の纏っている法衣とレイラの纏っている法衣の価値は、そういった所に現れている。であるから、老人の法衣に比べてレイラの法衣は、金の刺繍も無ければ豪奢な翡翠の宝石も埋め込まれていなかった。尤も、レイラの瞳は老人の纏う法衣に埋め込まれた翡翠よりも、遥かにディープな色味を持つものだから、人によっては彼女の瞳の方が美しいと思うのであろう。
レイラは名前を呼ばれたので、万人がそうする様に名前を呼んだ人物の方角に、長い銀色の髪で風をかき混ぜながら頭を向けて応答する。
「ローレンス卿。本日の業務は一件の審問ですね、時刻は今から一時間後」
「……」
ローレンスと呼ばれた老人は、ボリボリ頭をかきむしる事を止めて、レイラの今後の予定を気まずそうに聞いていた。この様に、レイラは常に完璧である。彼女は、ローレンス卿が名前を呼んだ理由を理解していて、この後の予定を彼に聞いてもらったのだ。この老人はレイラから見ればかなり心配性……というよりもかなりレイラにお節介を焼くので、彼女は老人にこれ以上喋ってほしくなくて、とりあえず黙らせる為にそうしたのだった。
と言っても、レイラはローレンス卿の事が嫌いな訳でも、尊敬していない訳でもない。なぜなら、彼は『魔術大国コエスフェルト・ノールディン』の立法機関である『元老院』のトップに座する人物なのだ。そんな彼の魔法術に関しての力量はとんでもないものであるし、誰もがそれを認めている。それに、彼はトップとして君臨するに相応しい人格をも兼ね備えている。そうでなければ元老院は、一人の主席を冠するこの国において、元首に対して一定以上の権限を持てないだろう。
レイラは、彼の直属という訳ではない。しかし、彼女にはわからないが、どうしてかローレンス卿は彼女にお節介を焼きたがるのだ。元来彼は、そういう人物なのだろうか。とにかく、レイラはそんな元老院に包含されている『異端審問部』の審問官であるから、ローレンス卿の大変高尚であろう仕事の内容は知らない。
そんなレイラの仕事である異端審問官は、詰まる所、裁判官である。この世界には幾つかの国があるが、法治国家として成立するには立法機関の重要性など、語る事もないだろう。そして、彼女は司法の分野で人を裁く仕事をしている。つまり、この国では技量さえあれば年齢や性別を無視していかなる仕事に就くことも可能という事だ。――尤も、司法の分野で仕事を行う事は、この世界のどこの国でも難しい事である。だから、彼女は大変優秀な個人であり、もしかしたら代替の利かない人物なのかも知れない――
ローレンス卿は、豪奢な法衣を雑に振り乱して後ろを振り向く。
「その裁判なんだが、ちょいと曲者でなぁ……」
そうしながら彼は直ぐに発言を終えて、流れ作業の様に歩き出した。
曲者とはどういう意味であろう。そう思ったが、レイラは一つも恐怖を感じない。今まで多くの凶悪犯を裁いてきたし、これからも彼女はこうして仕事を続けるつもりだから、一々そんな事でビクつく事など無駄だ。それに、元老院の中で暴れ回った凶悪犯だって過去にいて、そういった人間の相手をした事もあるから、少々の自身はあるつもりだ。
やがてローレンス卿はレイラから見えなくなった。だから彼女は完全に会話が終了したと判断して、直近に迫った仕事の為に審問所――つまり裁判所――に向けて歩き出した。
*
銀の槍を携えて、レイラは豪奢な装飾が施された椅子に座り込んだ。もう彼女は慣れてしまっているが、初めて座った時には、余りにもクッションが柔らかくて感嘆したものである。初めから今まで緊張感を抱いた事のない彼女は、そんなつまらない事で喜びを感じてしまう自分に対して、頬をパチンと叩く事で律した。これから人を裁くのだ。そんな宙ぶらりんな気持ちで行ってよい事ではない。そうやって、彼女は仕事に対しての彼女らしいスタンスを毎度確立し直すのだった。
そうしていると、上下左右にとんでもない体積を誇る審問所に、一人の男が入って来た。彼の左右に、レイラと同じ法衣を着用した審問官はおり、また、レイラと同じ性別の彼女らは大きな杖を握っていた。その杖の先端からは、うねうねとした発光体が伸びており、男の両腕に絡みついて、どうやら彼を拘束しているらしい。それを受けて、男は自由に腕を活用する事が出来ないらしい。そんな状態にあっても男の表情は無そのもので、やがて立つべき座標に到達した瞬間に、彼はニヤリと口辺を持ち上げてレイラを見つめた。何を考えているのか解らないが、少なくともレイラはこういった犯罪を行ったであろう人物を山ほど見てきたから、今更どうとも思わない。
レイラは何も迷う事無く、今日も審問を開始する。
「審問を開始します。被告は名を名乗ってください」
レイラは、淡々と男に対して言った。彼女の透き通る様な声はどこまでも広い審問所にいる人物の全員に聞こえているのだろう。しかし、彼女の声は響く事はない。この審問所は、その様に設計されているのだ。
レイラが声を受けているにも関わらず、男は自分の身元を名乗らずに、にやにやと不快を放つ感じで口辺を上へ上へと持ち上げている。
そんな調子を受けてレイラは、相手の反応をいち早く切り替えてもらうしかないと判断し、その様に促す。
「あなたの名前はカシヤコフ・アノマヴィチ・ドロゴノフで間違いありませんね」
レイラの手元の書類には、男のフルネームが記載されている。だから彼女は、書類から名前を口で引っ張り出した。
こういった名前は魔術大国コエスフェルト・ノールディンでは聞かない名前であるが、この場の審問官達はそんな事を説明しないでも、手元の書類から理解しているだろう。つまりカシヤコフと呼ばれた男は外国人である。
それを受けて、カシヤコフの口辺は上へ目指す事を止めたかと思えば、瞬間的に横一本筋になった。目つきもドロリとしたものに変化したから、何か気に触れたのだろうかとレイラは思う。だとしても、レイラの手元にある資料では、三件の殺人の容疑とカシヤコフの疑わしき部分が露呈されている。従って彼女は、殺人犯かもしれない男に自分の仕事が引けを取る事が許せなくて、更に口調を強くした。彼女は負けず嫌いだ。
「聞いていますか。 あなたは審問を受けているのですよ!」
レイラの声を受けて、審問所の内部の空気はざわめく事を止めた。勿論初めから喋っている者などレイラしかいなかったのだが、声が空気を制したのだ。それ程までに、審問所は極めて厳格な場所である。
*
レイラは一通り、カシヤコフに対して色々な質問をした。例えば、彼の犯した犯罪が事実であるかと言った初歩的なものから、プロジェクタを用いて被害者の写真を持ち出し、見覚えがあるかとか。しかし、一向にカシヤコフは反応を見せない。そうして彼は、かれこれ一時間以上は黙ったままだ。
が、カシヤコフの顔で真一文字を刻んでいたそれがピクリと動いて、彼の意志を声として発させる。
「下らねぇ事をいつまで続けるんだ」
レイラの心の温度は上昇した。しかし、沸騰するまではいかない。こうして被告人が『下らない』とか『開放しろ』などと口走る事は稀にある。だから、彼女は気にしないように、頑張って頑張って堪える。
それが問題である。何しろ彼は凶悪犯罪の被疑者なのだ。注意深く彼を見ていなければならなかった。
カシヤコフは、レイラの顔にべとつく視線を投げつつ、二歩程後ずさった。それから――。
いつから握っていたのだろうか。鉄の色をしたドーナツを握った手を、自分の前に――つまり、レイラに向けてかざした。この男は先程まで異端審問官の女性の放つ発光体に手を縛られていたにも関わらずだ。
数瞬後。
「じゃぁな、『異端者』」
そう呟いたカシヤコフの声を、ちゃんとレイラは聞いた。そして彼の握った円形の何かは、恐らく彼の力を増幅して『奇跡』を放つ。奇跡は、この男の国の出身者達の司る特別な力だ。誰でもそれは知っているし、レイラもそれを知っていた。
――だからレイラは、凶器として放たれた奇跡に対抗する為に、自分の左手に握られた銀槍、『キャンドル』の丈を伸縮機構により拡大して、体内で生成した『エーテル』を流し込む。予め槍の内部に仕組まれた魔法術式によって彼女のエーテルは拡大され、カシヤコフの奇跡が放たれた事から発生した風圧の『原理そのもの』に干渉し、彼女は『風』を操った。
風を研いで鋭さを増し、風を重ねて厚みを増し、風を駆って行く先を決める。そうして、奇跡を発生させたカシヤコフの手に握られる、丸い何かを叩き落とさんとする。あくまでもここは、審問の場なのである。彼の魂をこの場で断つ事は、彼女は想定していない。
視覚から捉えられなくとも、エーテルの含まれている事や、音や、得体のしれない圧迫感から、審問所にいる全員は風の位置を把握した。つまり、カシヤコフもその位置を把握している。であるから当然、彼は向けられた凶器を回避する為に、体をレイラに向かってやや左ぎみに逸らす事で尚も目的を達成しようとする。――つまりレイラに、奇跡という名の破壊を突き立てようとする。
カシヤコフの放った破壊は半端ではない速度で少女の体を包もうとする。だが、レイラの握ったキャンドルには、様々な機構が搭載されている。だから破壊が迫って来たとしてもレイラは、淡々とした顔つきでキャンドルに全てを任せて、美しい顔の前でそれを軽く、本当に軽く振るった。
直後に、レイラの握ったキャンドルに施された、花の様であり獣の様でもある複雑な装飾は、槍先に向かって展開した。それを機に槍先を起点として、彼女の体を流れているエーテルという力そのものは、大気中に展開されて壁となり、綺麗に受け流す様にしてカシヤコフの奇跡を後方に弾き飛ばした。
それと同時に、即座に展開したエーテルの壁を槍先に戻したレイラは、槍先で渦巻き始めたそれを、標的に対して素早く定めて解き放った。彼女の放ったエーテルの弾丸は、軽いボールを力いっぱい投げつけた時の様にユラユラと左右に揺らめいて、しかし高速でカシヤコフの胸部に向かって飛んで行く。彼は揺らめくエーテルの弾丸を前にして、右に避けるか左に避けるか迷っているのか、直撃の瞬間まで上体を左右に揺さぶっていた――。
ドン! という大きい音は響き渡る。その音は、直撃という現象から発生したもので無く、恐らくカシヤコフの胸部に加わった衝撃によって、彼の体の中で響いた音だろうとレイラは思う。もし人体を破壊する程の衝撃を放っていたら、彼女は仕事を全うする事を放棄した事につながってしまうから、そういう風に信じたい。
カシヤコフは割合大きな体を後方に吹き飛ばして、木製の手すりやら何やらをひっくるめて吹き飛んで行ってしまった。それから壁に到達する事無く途中で失速して、とうとう停止する。室内にいた審問官の中で誰よりも早くレイラは彼の大きな体を捕縛せんとキャンドルを再び振るうと、槍先からエーテルの塊が噴出して、彼の体が倒れる周囲に向かって飛来していった。
カシヤコフの体の周囲にはエーテルの塊が根を張って、それぞれが黄色い光をつなぎ合わせる事によって、六角形の檻が出来る。そうなってしまっては、カシヤコフは起き上がるものの、何も出来ずに檻越しにレイラを見つめるしかない。
それでも彼は、再び不愉快な笑みを浮かべてレイラの体をなめまわす様に見回す。そして、そうしつつ呟くのだ。
「『異端者』が異端審問とは笑わせるなぁ?」
*
致し方なくレイラは異端審問の中断と、延期を決定する旨を審問所の全員に端的に伝えるしかない。そうしてから、カシヤコフの体を厳重にエーテルで巻いて締めると、他の審問官に後の仕事を任せて審問所を後にしようとする。
レイラがカシヤコフの横をすり抜けて、彼の真後ろにある出口に向かおうとした時。
*
「なぁ異端者。いつまで『正義ごっこ』続けるんだよ? ヒヒヒヒヒ……」
*
カシヤコフは不気味そのものを全身から音として発して、去りゆくレイラに浴びせかけた。それから審問所の中には彼の発する不気味が取り巻いて、この部屋を出るまでレイラは不愉快な思いをする事となってしまった。
それにしても、審問官に向かって異端者とは。レイラは、カシヤコフの不遜な態度が脳内で渦巻いて、彼の事を最後まで気に入る事はなかった。
少女の、日常です。
-チラ裏-
スローで進めます。
Synopsisがover1200でした 笑
目的、命題、Plot、お話のベクトルは定まった状態です。