第七話 思い出+シフォンケーキ+薬用サルビア=前兆
目を開いたらそこは、底のない暗闇でした。表情のない空間が彼をじっと凝視しています。
『ねえねえ、こっちに……
一度目を閉じて、開きます。全身に嫌な汗をかいているようで、薄手の服が張り付いて気持ち悪く感じました。そのくせ喉はカラカラです。口腔が渇くというよりかは、それはもっと別の―――渇望にも似て。
『だってほら、ひとりは、さみし
「うるさいよ」
何もない空間に手を振れば、ぱっと室内は明るくなりました。天井から吊り下げられた黒い格子の中に、炎が燃え盛っています。誰もいない空間。ベアは胸の奥にわだかまった何かを吐き出すようにして、重くため息をつきました。
「蜉蝣。僕は君らがこの家に入ることを、許可していない」
そう告げた途端、部屋にあった無形の気配は潮が引くように去っていくのでした。
―――おかしい。
ぎしり、とベッドから身を起こします。いつも通り散らかった家の中。本の山はミーナが来るようになってからわずかばかりは片づけるようになりましたが、それでも散らかっているものは散らかっています。
―――なんで蜉蝣は最近、僕のところに来るようになったんだ?
こういったことは今日が初めてではありませんでした。目覚めたとき、物思いにふけっているとき、影はいつの間にか彼のそばにいるのです。それはあたかも自然な事のように。しかし、蜉蝣とは普通森の権力者であるベアを避けるものです。だからこそ森の道にも近づきたがりませんし、家の中なんてもっての他、な、はずでした。今までは。
それに変化が訪れたということは。
―――寿命?
浮かんだものに首を振りました。『ベア』にとってそれが訪れる時期は人それぞれなので大いにあり得ることではありますが、考えてたってしょうがないことでもあります。
立ち上がってテーブルの上の本を除け大ぶりのガラス瓶と、戸棚の奥からはパンを取り出します。瓶はミーナが何回目かの訪問の時に、マイエのジャムだと言って渡してくれたものでした。パンにのせて口に運ぶと、蜂蜜の優しい甘みと果実のさっぱりとした酸味が口の中に広がります。少しだけ、もやもやとした気持ちが和らいだような気がしました。
―――そろそろ今日あたり来るかな。
仕事があるから毎日は来られない、といった彼女の悔しげな顔は今でも思い出す事が出来ます。しかしそうは言いつつも、彼女は大体一週間に一度はここを訪れるのでした。果たして仕事の方は大丈夫なのでしょうか。
「変な子だよなぁ」
かつてミーナが彼を同じように評価したことを、彼自身は知りません。
ミーナの前にこの森を訪れた人間は、今までに何人かいました。ベアは森を出る事が出来ないので、森の外の砂地に扉がいくつあるか彼は知らないのですが、迷い込む人の人数を思うにそれなりの数の扉があることが推測できます。たまにふらりと現れては消えていくそんな彼らを、ベアは時には助け、気が向かなければ蜉蝣に囚われていく様を茫洋と眺めてきたのでした。
最初に出会った迷い人の事を、彼は今でも覚えています。その人に会ったのは先のベアが亡くなってしばらくしてからの事でした。多分四十代半ばほどの男性だったと思います。
「何なんだここはっ」
その日森が妙にざわめいているのを感じて不思議に思って道をうろうろしていると、道の外を様々な形を取った蜉蝣たちが、どこかへ向かって駆けていくのが目に入りました。
子供や赤ん坊、女性に男性、鼠、豹、黄金虫、くらいなら本の中に出てくるのでおおよその判断が出来ましたが、それだけではありません。やたら輝く羽をもった大きな鳥や、鉄の塊なんだか生き物なんだかよく分からないもの、果ては数えきれない数の目を持つ奇妙な生命体や森の木をまるまる包み込めそうな巨大な布らしきものまで、節操がありません。
あんまりの光景に呆れを通り越してほとんど感嘆していると、その声は聞こえてきたのでした。
「や、やめろっ」
見ればそこでは見上げるほどの大男が、一人の男性を道の外に押し出そうとしているところでした。大男の筋骨隆々な腕に何本もの血管が浮かび上がるのを感心しながら見ていると、そこでパンッという乾いた音が聞こえてきました。
何かと思えば、今しも道の外に押し出されようという男性の手には、煙の上がった猟銃が握られていたのでした。もしかしたら狩りの途中でここに迷い込んでしまったのかもしれません。気の毒な事です。
―――えっと。これはどうすればいいのかな。
そもそも記憶がなくなってからこっち、先のベアとしか話したことがなかったので、一体、知らない男性とどうやってコミュニケーションを取ったらいいのかが分かりませんでした。ここはやっぱり、無難に話しかけてみるべきでしょうか。
こういう時はとりあえず、こんにちはと行くべきか。それとも使ったことがないので口には馴染みませんが、はじめまして、というやつなのか。それともやっぱり緊急事態らしいので、大丈夫ですか、と入るべきなのか。
多少の混乱はありましたが、彼は空気を読んでみることにしました。
「あの、……助けましょうか」
そしてその言葉に返されたのは、またしても鳴り響いた銃声だったのでした。
いくら初見の人との関わり方が分からないといっても、それがちょっと人としてどうなのか、という返事の仕方だということは、彼にも分かりました。大分興奮した様子の男性は何かを喋っているようでしたが、支離滅裂すぎて、どんなことを言っているのかいまいちよく分かりません。
―――うーん?
彼は確かに「助けましょうか」と尋ねました。そのあとに銃の引き金を引いたということは、拒絶の表れと取ってもいいものなでしょうか。
―――なんか、面倒くさいなぁ。
そうこうしているうちに、結局ベアは男性が森の奥まで引きずられていく一部始終を見ることになったのでした。変化の乏しい森の中では、それは一種のお祭り騒ぎのようなにぎやかさで、感覚がついて行かなかったということもあります。
喧噪が過ぎ去った森の中はあっという間に静まり返りました。あれだけ集まっていた蜉蝣たちも、男性を追って知らないうちに姿を消しています。
ぽつりと一人取り残されたそこで、ベアは思ったのでした。
男性と蜉蝣、果たしてどちらの方がより必死だったのだろうか、と。
その後もたびたびそういう人たちに出会うことはありました。
助ければ感謝する人もいましたし、中には怖がって逃げてしまう人もいます。そしてそんな人たちを道から引っ張り出そうとする蜉蝣もまた色々で、大抵は暴力と迫力ある姿で威圧したり、男性相手には色っぽいお姉さんだったり、子供相手だと遊びに誘う同年代の少年少女の姿だったりしたこともあります。そうしたものを見ているうちに彼にも、蜉蝣とはどうやら相手の弱みを自分の姿に映し込んで、森に引っ張り込むものなのだということが分かってきました。
しかしミーナの時の蜉蝣は、そのどれとも違う風に見えたのです。
―――あれは、ずいぶんと蜉蝣らしくなかった。
そもそも寂しいから来て、なんて直球で頼んでついて行く人間なんているものでしょうか。そこには何の見返りもないのに。ましてやこんなところに迷い込んで焦っているときにです。
―――普通なら、あり得ない。
けれどもミーナを助け出したあの時。あんな目にあった後だというのに、彼女は微笑んで、「行くよ」と。最後まで蜉蝣を心配し続けていたのでした。とんでもないお人よしです。お人よしだというのに。
―――強引で、自分のためにもとことん動く。
彼自身まさか彼女がここにやってくることを許してしまうとは、思っていなかったのです。そもそも一つしか無かったあのイヤリングを渡してしまった自分の手が、今でも信じられないくらいでした。あの時自分が何を考えていたのか、よく分からないのです。ただこういう子なら人の言うことに逆らうことはないだろう、と思ったのかもしれません。
そうです。最初のイメージがあったので、あそこまでするとは考えていなかったのです。ついでにお菓子の味に惹かれてしまったのもまずかったような気もしますが、それはそれで置いておくことにします。
ただ確実に言えることは。
―――今では僕が彼女の訪れるのを、楽しみにしていることなんだ。
たいへん困ったことです。
コンコン
朝食を食べ終えて着替えをし、さて本でも読もうかというところで、家の扉を叩く音が聞こえてきました。誰かなんて開けなくても分かります。こんなところを訪れる人間なんて一人しかいません。
「はい」
扉を開けます。
「おはようっ、ベア」
そこにいたのは思った通り、ミーナと、
「おは、よ、う……だれ」
知らない男の子でした。
いつだって彼女は彼の予想の斜め上を行きます。
「蜉蝣、だね」
冷静に見ればミーナと一緒に立っている男の子は、人ではありませんでした。彼女の耳元を確認します。しかしそこにはちゃんと貝殻のイヤリングが下がっているのですから、訳が分かりません。
「あはは、ついてきちゃって」
と、彼女は居心地が悪そうにして蜉蝣に目を向けますが、イヤリングを身に着けていれば蜉蝣が「ついてきちゃう」ことなんてまずありえません。特殊な事情がない限りは。
「蜉蝣。君は森の奥に帰るんだ」
自分の言葉を聞いてくれるのかわずかに不安を感じましたが、蜉蝣は一瞬物言いたげに彼を見た後、何も言わずにあっさりと去って行きました。妙に人間臭い蜉蝣だなと思いながらその後ろ姿を見送り、暗闇に完全に消えていくのを確認してから、改めてミーナに向き合います。
「じゃあ、話を聞こうか」
とりあえず彼女を家の中に導いて、すでに定位置となった椅子を勧めます。その椅子はミーナが来るようになってから片付けるようになったところの一つで、最近では彼女が来てから慌てて片付ける、ということもなくなりました。
もはや習慣のようにベアはカップやお湯の入った水差しなどをテーブルの空いた空間に置いてゆき、砂時計をひっくり返します。彼女の方も慣れたもので、持って来た籠の中からお菓子と茶葉を取り出しました。
「今日はシフォンケーキだよ」
そして、話の本題に入る前にお菓子とお茶の話が始まるのも、すでにいつもの事なのでした。
話の主導権を毎回とられてしまうのは、もしやこれのせいなのではと思いつつも、切り分けられた卵色のシフォンケーキを受けとります。シフォンケーキがのせられた白いお皿の脇には、ブルーベリーのジャムと生クリームが添えられていました。
「あの蜉蝣は、なんだったの?」
薬用サルビアのお茶だと渡されたカップに一口だけ口をつけて、切り出します。すっとした香りの中に、わずかな苦みが広がりました。ちらりと横目でミーナを見ると、彼女は大きく欠伸をしているところでした。何だか疲れている様子です。
「うーん」
往生際の悪い彼女に、少し考えてから「怒らないから」と付け足すと、やっと彼女は話し出すのでした。
つまり、彼が怒りたくなるような話を。