第五話 果実+花+力=夢
そうしてまた何日かたったある日。
ミーナはうっすら青く光る硝子の花の道をうきうきと歩いていました。静寂に包まれた森の中も三度目ともなればあまり気になりません。人を不安にさせる空気を持つ森も、今日は少し彼女に押され気味な様子です。カラカラと回る風車さえもが、今の彼女には楽しげに映るのでした。
そう、何といってもこの間はベアに訪問の許可をもらったのですから、今回は胸を張って彼のところを訪れることができます。彼女も植物の世話や商品の納入があり、あれ以来なかなか来ることができませんでしたが、ここ数日はずっと次の訪問が楽しみでなりませんでした。いつも作った商品をお願いしているお店の娘さんには、何があったのかとしつこく尋ねられたほどです。
「ベア、いる?」
籠を片手に白い扉をノックします。しかし返事はありませんでした。そういえば彼はここで毎日どのように暮らしているのでしょうか。まさかずっと家に籠りきりということもないでしょう。取りあえず薄く扉を開いて暗い家の中を確認し、彼がいないことを確かめます。
―――どこにいるんだろう。
家周りを壁沿いに歩いてみると、入り口とは反対となる裏手に、別の道が伸びているのに気が付きました。やはり硝子の花が咲く真っ白な道です。
「うあ、今まで気づかなかった」
どうにも彼を待ってずっと家の前に立っているのも退屈に思え、ミーナはためらうことなくすたすたとその道に踏み入りました。イヤリングがあるので、戻ることができなくなる心配もありません。
―――それにしても、どの道も同じような風景が続くな。
覆いかぶさるような白炭の樹木の威圧感も相変わらずです。今までベアの家を訪れるときは脇道にそれることなく真っ直ぐに向かっていましたが、たとえ別の道に入ったとしても同じような風景が続いているのだろうと、簡単に想像が出来てしまいます。
目新しいものはないかと視線を巡らせていると、前方にある細い脇道が目に入りました。道の入り口横には一本、何かの目印のようにして見上げるほどの白い棒が立てられており、上方、その棒の先には赤い塗料で塗られた円い板が取りつけられています。
―――何だろう。
この道の先に何かあるというのでしょうか。入り口から道の向こうを見透かそうと覗き込んでも、動くものは風車ばかりでよく分かりません。
しかし、やっぱり彼女は好奇心ののおもむくままに、そこへと入って行くのでした。
ちょっと歩けばその場所に出るのはすぐでした。
―――人がいる……あ、ベアだ。
ベアの家が建つ空間の三倍くらいはありそうな広場には、一面に薄青く光る硝子の植物が生えています。よく見たら道の脇に生えているものとは形状が違い、茂る葉の中に花や丸い果実のようなものが見られます。もしかしたら別の種類なのかもしれません。隅の方には大きめの倉庫らしき建物もあります。彼はその広場の中で屈んで何かをしているように見えました。
腰くらいまである植物の中を分け進んでゆくと、段々とその様子がはっきりしてきます。彼はどうやら広場に生えた植物の丸く透き通った果実を取っては、肩からたすき掛けにした袋の中にそれを放り込んでいるようでした。不思議な事に彼が触れた先から、果実は瑞々しい赤へと色づいてゆきます。
ふと、彼は立ち上がってこちらに目を向けました。
「ミーナ」
驚く彼に彼女は立ち止まって手を振ります。
「何してるの?」
ベアは手にした果実を顔の辺りまで持ち上げて、彼女に示します。
「これを取ってたんだ。甘くておいしいんだよ。一つどう?」
ミーナは急いで彼の元まで行き、その果実を受け取りました。引き込まれるような赤の表皮をこすると、キュッキュッという良い音がします。見たことのない植物でした。彼の顔を窺うと、「どうぞ」と言うように首を傾げます。彼女は思い切ってそのつるつるとした表面に歯を立てました。途端に癖のない甘い果汁が口の中に広がります。
実は林檎よりも若干歯ごたえのある感じで、しゃくしゃくとした歯触りが食欲を誘います。あっという間に芯の部分を残して食べきってしまいました。
「うわぁ、おいしいね。なんていう果物なの?」
「マイエっていうらしい。こないだのさくらんぼうの味を忘れられなくて、久しぶりに果物も良いかなって思って」
はにかむ彼につられてミーナも思わす相好を崩しました。そして面白そうに彼の手元を覗きこみます。
「不思議。どうして色のないマイエが赤くなるの?もしかして魔法?」
「これはベアの力の方だよ。森の植物はベアが触れると色を思い出すんだ」
彼女がじっと見つめる前で、彼はまた一つマイエをもいでミーナに渡します。
「これ、ジャムとかにしたらおいしいかも」
受け取ったマイエをころころ手の中で転がしながらミーナは思案顔をします。ベアはそんな彼女を見て、今度は硝子の花を一輪摘み取りました。するとぼんやりとした青い光はしだいに消え、代わりに緑の葉と淡い桃色の花弁が現れます。それを壊れ物を扱うようにそっと、ミーナの髪に挿しました。
「あ、ありがとう」
何とも言えない気恥ずかしさに、彼女は思わず彼から目を反らします。
「時間切れになる前に戻ろうか。その籠の中も気になることだし」
「そ、そうだね」
顔が熱いのが分かりましたが、どうにもできずに俯きます。彼女にできるのは、歩き出す彼にただただついて行くことだけでした。
「あったかいお茶を淹れたいんだけど、お湯ってもらえる?」
ミーナがそうベアに尋ねると、彼はテーブルの上を整理する手を留めて振り向きました。
「うん、大丈夫。待っててね」
持っていた本を部屋の隅に積み上げます。一目見れば分かることですが、本の量に対して部屋の収納は絶対的に足りていないようでした。これではここが片付くことは、永遠にありえないことでしょう。
彼は棚からカップと銀の水差しを持ってきます。次いでテーブルの本と本の間をごそごそと探すと、ガラスに細かな金の装飾を施した高価そうなティーポットも出てきました。「好きに使っていいよ」と無造作に渡されたそれらに、やたらと価値がありそうなものがそろっていることやティーポットの出所は置いておくとして、とりあえず彼女は首を傾げます。
「お湯はどこで沸かせばいいの?」
「ああ、お湯なら沸いたものがその水差しに入ってるよ」
言われて彼女は半信半疑のまま、恐る恐る本物の銀製らしき水差をティーポットへと傾けます。するともわっとした白い湯気と共に確かにお湯が出てきました。
「うわぁ」
本当に熱いお湯が出てきたことに彼女は目を丸くします。
「これ、どうなってるの」
それにちょっとベアは何のことを言われているのか分からないような顔をしましたが、すぐに得心がいったように頷きました。
「あ、そうか。ミーナのとこには魔法が無いんだもんね。これも簡単な魔法の一種だよ。水差しのふたを開けてみて」
ちょうどいいところまでお湯を注いで茶葉を入れてから、水差しの小さなふたを取ってみます。中を覗き込んであれっと思いました。
「からっぽだ」
水差しの中身はがらんどうで水滴ひとつありません。持った時に軽いなとは思いましたが、まさかこんなことになっているとは思いませんでした。ためしに両手で抱えて振ってみても何の音もしません。
「この場所の最初の持ち主は魔法を使う人だったみたいで、そういう品がここにはたくさんあるんだ。魔術書のほとんどもその人の持ち物だったと聞いたことがあるし」
「へえ。どうしてこんなところに住もうと思ったんだろう。変な人」
その人の気持ちを想像してみようとしましたが、上手くいかずに首を捻ります。顔をしかめながらカップにお茶を注いでいると、そこではたと思いつきました。
「あ、じゃあ最初にベアをした人って、その人なのかな。あれ。でもそしたらどうして、その人は自分の後にも同じ人間を作ろうと思ったりしたんだろ」
どうにも変な話です。
「ああ、僕の聞いた話だと、最初に住んでいた人はベアではなかったらしいよ」
「え、じゃあ、ベアっていうのはどうして始まったの?」
注いだお茶を手渡すと、彼は嬉しそうにそれを手で包み込みました。
「ありがとう。えっとね、初めに住んでいた人は森を訪れた一人の人間に、何かの魔法をかけたらしいんだ。それからベアっていうのは始まったらしい」
「このお茶、すっきりしておいしいね」と言って、彼はやけどをしないように気を付けながら、もう一口口に含みます。
「今日のお茶は西洋山薄荷っていうの。それで、お菓子の方は林檎パイだよ」
籠からパイも取り出して切り分けて行きます。切り口から柔らかく煮た林檎が、とろりと零れ出ました。生地もきれいに層が出来たと、彼女は今回の出来に自分で合格を出します。焼く前に三日寝かせたかいがありました。
「じゃあ、ベアの持つ力っていうのも、もとはと言えば魔法なんだね」
それに彼は「うーん……」と唸ります。
「だと、思う。ただ、信じられないくらい高度な魔法だ。とてもじゃないけど僕にはこんな魔法使えない。ここまでくると、これを魔法って言っていいのか疑いたくなるくらいなんだ」
彼はミーナから林檎パイを受け取り、待ちきれないというようにほおばってから、続けます。
「でもいつか、僕もこんな風に自由に魔法を操れるようになりたいんだ。うん。これもおいしい」
その様子に彼女は苦笑を漏らしました。しかしそんなに手放しに喜ばれると、喋るか食べるかどっちかに、と言うのもはばかられるような気がしてしまいます。ミーナも林檎パイを一口口に入れました。もう冷めてはいましたが、たっぷり使った林檎のしっかりした歯ごたえはいい感じです。そういえばさっきのマイエという果物も、こんな風にお菓子にしたらおいしいかもしれません。
「それじゃあ、それがベアの夢なんだね」
彼女の言葉に、彼は意表を突かれたような顔をしました。
「……ああ、そっか」
言われたことを咀嚼するように、手元の林檎パイを見詰めます。
「こういうのを夢っていうのかな。なんかずっとこういうところにいると時間っていうものを意識しないから、あんまり先のことをちゃんと考えないんだよね」
言われてみれば何もない場所です。彼女はそれももっともか、と納得しました。
―――本当に、ベアはここを出たいと考えたことがないのかな。
「そしたら、ミーナも何か夢ってあるの?」
「あるよ」
大きく頷きます。
「私は、今は薬草とかこういうお茶に使うハーブなんかを作って暮らしてるんだけどね、いつか世界中を回って珍しいそういうものを見て回って勉強して、誰かのためにその知識を役立てたいの」
「へえ、それは素敵だね。世界って言っても、何だか想像も出来ないけど。外にはなにがあるの?僕は本の中での話しか知らないから」
その言葉にちょっと考えます。何があるかと聞かれても、それは何でもあるとしか答えられません。彼女は住んでいる村から出たことがないので、村の外となると、もっと何でもあることになります。村の様子を思い浮かべてみました。
「とにかく色々あるんだよ。私の村には家がたくさんあるし、人もたくさんいるの。晴れた日には真っ青な空がきれいでね、森の緑がキラキラして見えるんだよ」
今年初めて育ててみた薬草の話、つい先週結婚した村の人の話、祭りの日に訪れる旅の劇団の話。その多くは色や音にあふれ、変化に富んでいるということ。
気がつけば大分時間がたっていました。話に一区切りついたところで、ベアは知らないうちに手元に持ってきていた白砂の入った砂時計を確認します。ちょうどそれは、そろそろ砂が落ち切ろうというところでした。
「そろそろ帰った方がいいかもしれない」
ミーナは気になってそれを覗き込みます。入っているのは森の道に敷かれたものと同じ砂のようでした。細かな砂が音もなく砂時計の下の膨らみに、少しずつ降り積もってゆきます。
「それは?」
「ここには時計が無いからね。君が気分の悪くならないうちに帰れるように、これで時間を計っていたんだ。そろそろ、頃合いだよ」
彼は立ち上がって彼女が持ってきたものを、籠の中に入れていきます。ミーナも名残惜しいとは思いましたが、せっかく彼が気遣って教えてくれたので、諦めることにしました。今日帰っても、また来ればいいだけの話です。
「また来るね」
また何日かすれば会えると分かっているのに、この寂しさはなんなのでしょう。ミーナはそれを悟られないように笑いました。
「魔法の勉強、頑張って」
「ミーナもお仕事頑張ってね。そうだ、マイエも持っていくといいよ。ジャムっていうのも気になるし」
早くも次のお土産が決まってしまいました。籠の中にその赤い果実を三、四個入れて布巾をかけます。
これまで持って行ってばかりだったので、ここから何かを持って帰ると思うと、何か不思議な感じがします。果たして家に帰り着いてもまだ、この赤い果実は赤いままなのでしょうか。小さな好奇心も疼きました。
扉を開けます。ベアが天井から下げられた明かりに手をかざすと、ふっとその中の炎が立ち消え、家の中には影が差しました。魔法を知らない彼女にとっては奇妙な光景です。
次は魔法についてももっと聞いてみたいなと思いながら、今日も彼女はベアに送られて家路につくのでした。