第三話 家+蜉蝣+イヤリング=願い
手を引かれてたどり着いたのは、これまた真っ白な家でした。
「あなたはこの家に住んでいるの?」
「うん。これが僕の家」
硝子の花咲く道の終わりには少しだけ開けた場所と、こぢんまりとした一軒の家があるきりでした。家は森の木をそのまま使っているのか白い硬質な円筒形で、飾り気のない小さな四角い窓がいくつか開いていますが、装飾らしい装飾は何もありませんでした。窓の一つから伸びて森の木にそのままくくりつけてある、一本のロープに干された洋服にわずかながらの人の営みを見てとって、何だか安心する程度です。しかし果たして太陽も月も星さえないこの場所で、あの洗濯物は乾くものなのでしょうか。
「どうぞいらっしゃい」
愛想のない白い一枚板の扉を開けて彼が中に入っていくのを見て、ミーナもそれに続きます。
「おじゃまします」
そうして敷居をまたいだ先は意外にも、生活感のあるものでした。
暖かな色の使い古された木目のテーブルに椅子、作り付けの棚、食器類、ベッド。窓には深い緑のカーテンが掛けられています。そこはとても色と物にあふれていました。彼女はずいぶん久しぶりに色というものを見る気がして、目がちかちかとするような錯覚を覚えました。
「ちょっと待ってね」
少年は大慌てで椅子に積み上げられた本を部屋の隅に移動させてゆきます。
「どうぞ。ええと……散らかっててごめんね」
そして何よりも、家の中はたいそう散らかっていました。
部屋の真中に置かれた大きめのテーブルには大量の本が積み上げられ、所々に放置された食器類も散見できます。いくつかある椅子は言うに及ばず、ベッドの上は辛うじて平和が保たれ、木の床は何とか足の踏み場だけは確保してある様子です。
ミーナは進められた丸椅子に腰かけました。
「ううん。なんか、急におじゃましちゃって、私こそ」
彼は苦笑いしながら包帯を手にこちらに戻ってきました。
「いいんだ。ここ、お客さんってあんまり来ないから。そういえばまだ自己紹介してなかったね。僕はベア。この森に住んでる」
「私はミーナ。よろしくね」
ベアは「腕貸して」と言って消毒を始めて行きます。改めて見てみるとミーナの腕も足もひどい有様でした。考えてみればかなり無理矢理に引きずられたのです。引っ張られた腕を脱臼しなかったのは幸いでした。
「まずは何から説明しようか……。うーん、何が聞きたい?」
そう言われてミーナは頭を捻りました。何と尋ねたら良いのでしょう。何だかわからないことを質問するというのは、存外難しいものです。「ええっと、リィスについて聞きたいな。あの子はなんだったの?あと、蜉蝣っていうのについても教えてほしい。それから」
そこで彼女はベアが苦笑していることに気が付きました。
「そうだね。その辺の事を僕から説明した方がいいかもしれない」
ミーナもちょっと笑います。
「うん、お願い。あと、消毒はもうちょっと痛くない風にはできる?」
ベアが言うには彼自身、分かっていることは少ないということでした。
ただこれだけは言えるのが、この森はあまり安全なものではないということらしく、長くいると森の持つ毒にやられてしまうということです。
「じゃあ、ベアはここに住んでて大丈夫なの?」
「うん。僕は特別な体質だから」
また、ミーナが扉をくぐってこの場所に来た経緯を話すと、彼は「きっとその鈴が鍵なんだ」と言いました。どういうことかと問うと、他にも似た話を聞いたことがあるということです。
ああいった扉はここには他にもいくつかあるそうで、それぞれ異なる場所につながるそこからは、たまにミーナのように迷い込んでくる人がいるらしいのです。その中の一人がやはり「いつも身に着けている鈴をなくしてしまって」ということを言っていた、ということでした。ベアの前にここに住んでいた人も同じような話をしていたことから、鈴がこの場所から持ち主を守るというのは多分確かな事のようです。
「ここは結構古くからある場所らしいから。迷い込まないようにと対策を立てている所もあるんだろうね」
そう言って彼は陶器のマグカップをミーナにくれました。中には温められたミルクがとろとろ揺れています。気分があまり良くなかった彼女はありがたくそれを受け取りました。
「ありごとう。ここって生き物が全然見当たらないのに、ミルクとかはあるんだね」
「まあ……、ストックがあるから」
そしてもう一つ、蜉蝣について。
これは簡単に言うと、よくない感情の集まりなのだそうです。色んなところから集まってきたそうしたものが、この森には多く留まるということでした。そうしてそれらは時に何らかの形を取って人の心に働きかけ、森の深みへと引きずり込むのだそうです。
「君がリィスと呼んでいるものも、それだ。一旦引きずり込まれたら、引きずり込まれた人も蜉蝣となってしまう」
「え、そんな……」
思わずあの時リィスの背を撫でた両手を確かめました。服越しの確かな温かさ、血の巡る感触。小さな頭、必死な思いの込められたほっそりとした両手。それが全部幻だったと彼は言うのでしょうか。そんなことを言われても、ミーナには納得がいきません。
「あの子が、幻なの」
「うん、幻と言ってもいいかもしれない。あれは、存在しないものだから」
「存在しないって、それって、なんか」
何だか、嫌な感じです。急に感じた不安にミーナはぎゅっと服の胸元をつかみました。
「ミーナ?」
「それじゃ、まるで……」
手を伸ばす。
ぐらりと、何かが歪みました。
息が詰まります。
いないものはいない。
本当は知っていたのに。
『お母さん』
現実が。
『お父さん』
欺瞞が。
時に空想は優しく――――
「ミーナ」
はっと、我に返りました。
「大丈夫?」
人の温もり。
いつの間にか両肩にはベアの手が置かれていました。灰色の綺麗な瞳が視界に映り込みます。
「このくらいが限界なのかな」
「え……?」
「ちょっと話し込みすぎたのかもしれない」
瞬いて彼を見返します。どうにもうまく体に力が籠りません。支えようとしてくれる腕に、思わず縋ってしまいました。頭に霞がかかったように、何が起こったのか分かりませんでした。
「あれ」
「森に中てられたんだよ」
待ってて、と言って彼はそっとミーナから離れ、テーブルの向こう側にある棚の中身を漁り始めました。やがて彼が戻ってくると、その手にはちょうど掌くらいの大きさの木箱が乗せられていました。
見ていると、ベアはそこから白い貝殻が目を引く片耳のイヤリングを取り出しました。繊細な意匠に目を奪われます。
「これは?」
「手を出して」
言われたとおりに右手を差し出すと、そこにイヤリングが乗せられました。目でどういうことかと問うと、彼はそれをつけるようにうながします。
「そろそろここを出た方がいい」
彼女がそれを身に着けると、彼は真剣な表情で言いました。
「森の毒って」
「もう影響が出始めているみたいだから。そのイヤリングは帰り道を示して、蜉蝣からも身を守ってくれる」
「えっと、でも……」
一瞬、彼の目に何かが過ったような気がしました。
「逃げて。森に捕まってしまう前に。そのイヤリングは家に着いたら砕いて火にでもくべてしまって」
あとは有無を言わせない感じでした。彼はミーナの手を引くとドアを開いて家の外まで連れ出し、背をそっと押します。
「もうここに来てはいけないよ。全部忘れるんだ。さよなら」
「ベア」
ドアが閉められました。そうするとミーナは一人っきりです。
少しの間呆然として、彼女は首を振りました。気分の悪さは相変わらずです。彼の言うとおり、これは少しまずい気がしました。
諦めて息を小さく吐き、彼女は来た道を戻ってゆくのでした。
それから家に着くまでは、拍子抜けするほどに簡単な道のりでした。
イヤリングのお陰なのか家に帰りたいと思えば、足は勝手にすいすいと動いていきます。白い森を抜けて黒い大地を歩き色ガラスのはまった扉をくぐったら、なんとそこはミーナの家の中だったのです。
「うわー」
それ以外に何と言えばいいのでしょう。さすがにこれは予想外でした。
半開きのままの扉の外を振り返れば、なぜかそこは既に見慣れた家の玄関先です。薄暮の空気の中、ミーナ自身の手で植えた庭木たちが濃い影を落としています。ひんやりとした風が吹き込んできました。よく見ると手で押さえた扉自体が彼女の家の玄関扉です。
―――帰り道を何としてでも見つけなければという、あの意気込みはなんだったんだろ。
何かに化かされた気分でした。
その日の夜はなかなか寝付く事が出来ませんでした。あのイヤリングは、今は外して枕元に置いてあります。ミーナはどうしてもそれを壊してしまう気にはなれなかったのでした。夜が凝る家の中はとても静かです。この家には何年も前から彼女しか住んでいないので、人の気配がしないのは当たり前なのです。
ミーナの両親はある日突然姿を消してしまったのでした。村の人たちはそれについて色々な事を言っていましたが、彼女にさえその理由は分からなかったのです。幸いなことに両親はミーナに生きるための知識と、必要なものは残して行ってくれました。薬草やハーブの知識や種子、広い庭もそうです。村の人たちも親切な人が多く、そうしたものは優先的にミーナから買い取ってくれるのでした。
失踪、というのはどこでだって間々ある話です。森に入れば野生の獣がいるし、街道に出れば追剥も盗賊もいるのです。食べていけなくなれば身を売ることもあるでしょう。つまりはこれも、そういうことだったのです。ずっとそばにいて話し、時には怒られ、抱きしめられ、呼吸するように傍にいた人がいなくなる。ミーナはちゃんと分かっています。それが現実だと。でもただ、お母さんの作ってくれた料理の味は、彼女にはどうしても再現できないのでした。
寝返りを打ち、何とはなしに室内に目を向けます。月光に照らされた家具のラインをたどりながら、今日の事を思い出しました。
―――変な男の子だったな。
今思えば彼自身の事についてはあまり聞けなかったように思います。それについてはうまくはぐらかされてしまった感じもありました。しかし何とも言えない彼に対しての奇妙な印象を、彼女は拭い去れずにいるのです。今夜は彼も、一人で眠りについているのでしょうか。
―――もう来てはいけないって言ってたな。
でもそのとき彼は瞬いて。その瞳には底知れない孤独が湛えられているように感じられたのでした。
―――どういう人だったんだろう。
今さら、なのでしょうか。もう会えない人のことを思うということは。
―――会えない?
優しげな手が思い出されます。間違っても表情豊かな人ではありませんでしたが、思いは時に、痛いほど伝わってきました。彼の口から彼自身について伝えられたことはほとんどありませんでしたが、彼女が話し、触れた彼は本物です。
枕元のイヤリングをちらりと見ました。これがあるということは、あれが夢でなかったことの何よりの証明です。彼女はくたびれた布団を抱き寄せ、目を閉じました。何だか胸のあたりがむずがゆいような、ぽかぽかするような感じがします。
そう。何かを変えるのに必要なのはきっと、ちょっとの勇気と気合です。
決意を胸に、ミーナは眠りに落ちてゆくのでした。