第二話 白+黒+道=出会い
真っ黒な空。
人一人いない真っ黒な大地。
そこは木炭で塗り込めたような、静寂の場所でした。
ミーナがつま先で足元を蹴ると、乾いた黒い砂が舞い上がりました。そのまま地面を踏みしめると、ざく、と細かな石の擦れるような音がします。その場に屈み込んで砂をすくい上げてみると、炭のような不揃いの小石がどこかから来る明かりを反射して、てらてらと光りました。
「明かりだ」
不思議に思って地面の先に目を向けると、地平線がぼう、と白くなっているのに気が付きました。どうもこの明かりはそこから来ているようです。ミーナは砂を元通り足元に戻して立ち上がり、ぎゅっと目を凝らしました。しかしそれだけでは明かりの元が何であるか分かりません。ぎりぎりまで背伸びをしてバランスを崩したところで、彼女は諦めました。
一度だけ背後の暗闇に浮かぶ扉を振り返り、白い明りをもう一度見て……
―――よしっ、行っちゃおう。
ミーナはやっぱり先に進むのでした。
そうしてしばらく歩き続けると、段々と明かりの正体がわかってきました。まだだいぶ距離はありますが、黒い大地に突如現れるそれは雪のように白い森のように見えました。
―――変なの。
森のこちら側はまるで線を引っ張ったようにして、地平線と平行に真っ直ぐどこまでも続いています。その様子は彼女の見知った村の森とはずいぶん様子が違う風でした。何だか遠目にもひどく作り物めいた無機質さが感じられるのです。その感じは近づくにつれてさらにはっきりとしたものになってゆきました。
ついに森までたどり着き、ミーナは立ち並ぶ樹を見上げます。一本一本がとても大きく、彼女は目を見張りました。
「うあ……」
地面と空が低い温度で焼いたときにできる柔らかな黒炭なら、森の白はまるで高温で固く焼き上げた白炭です。見れば幹も枝も暗い空を覆う葉までもがきれいに真っ白で、触れてみれば石のような硬さなのでした。それはそれはみごとな造形の森でしたが、しかしそこに漂うのは底知れない寂しさなのでした。
何だか踏み入るのがためらわれて彼女はそっと木々の隙間の向こう側を透かし見ようとしましたが、見えるのは薄ぼんやりと明るい木々ばかりです。そうしていると向こうからもじっと誰かに見られているような気さえしてくるのですから、不思議なものです。彼女は奇妙な感覚にとらわれ、少し逡巡しました。
―――これ、入っちゃまずいかなぁ。
見たところ彼女の知る森とはだいぶ違うとは言え、広そうな森です。そしてミーナは小さな頃から、森の恐ろしさをしっかりと教え込まれて育ってきたのでした。外から見た感じでは獣の類は見当たらないどころか羽虫の影さえないのですが、そうは言っても森の怖いところはそればかりではありません。ましてやこんな変わった場所なのです。
―――ちょっとくらいなら良いかな。
数歩だけ踏み入って振り返りました。潜ってきた扉はまだ見えます。こうして森から外を見てみると、何だか森と外が別世界のように思えて妙な感じです。
「ちょっとだけ」
また少し歩きます。そこで前方にほの青い光が見えてきました。近づくとそれが硝子でできた花であるのが分かりました。どうやらそれが内側からぼんやりと光っているらしいのです。
―――道だ。
顔をあげると黒い地面に一筋、人が五、六人並んで通れるくらいの白い道がありました。この花はその道に沿って群生しているようです。
カラカラカラカラ……
かすかな音に辺りを見回すと、ところどころにやはり硝子でできた風車が花々に紛れるようにして立てられているのが目に入りました。風も吹かないのにそれらは何故だか何の前触れもなく回り出します。
そこで彼女は唐突に閃きました。
―――あっ。道なりに歩いていけば、帰れなくなる心配がなくなる!
もちろん、さっき道なりに歩いて道に迷ったことは頭の外です。 彼女は勇んでその白い道を歩き出したのでした。
「花咲くぅも、り、の、みぃちぃ」
森は奥へ行けば行くほど、あの奇妙な感じも強くなっていきました。寂しいような、ちょっとだけ息苦しいような、そんなものが息を吸うごとにミーナの中に沈殿してゆくようです。
「くまさぁんに、で、あ、あ、た……」
歌っても歌っても声はすぐ森に吸い込まれてしまいます。それと一緒に何か別のものまでもが吸い込まれていきそうで、彼女はついに歌うのをやめてしまいました。けれども歌わないは歌わないで重苦しさは増すばかりなのです。
さすがにこれは変だと思って立ち止まり首を傾げていると、どこからか誰かの足音が聞こえてきました。一緒にすすり泣くような声も聞こえてきます。道の先に目を凝らすと誰かがこちらに歩いてくるようでした。
「だれかぁー……だれか、いないのぉー」
急いで駆け寄ると、それはミーナよりも一回り小さな女の子でした。長い赤毛は絡まりあいぼさぼさで、顔も涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっています。
「どうしたの?あなたも道に迷ったの?」
話しかけると女の子は顔を上げました。茶色の瞳からは次から次へと涙があふれ、それをぬぐう袖も大変なことになっています。
「う、うあぁ……」
女の子は途端にミーナに抱きつきました。何かいろいろと言っているようですが全く要領を得ないので、取りあえず背中を撫でてあげます。震える温かい背中に心が痛みました。
しばらくそうしていると触れている背中越しにも、女の子が段々と落ち着いてくるのが分かりました。これなら話ができるかもしれないと思い、そっともう一度声をかけてみます。
「ええと……、あなた、名前はなんていうの?」
女の子はミーナの服を固く握りしめたまま顔を上げました。目は真っ赤に腫れていますが、何とか話は通じそうです。少しの間目をさまよわせて、やっと口を開きました。
「名前……は、リィス」
「リィス。それじゃあリィスは、どうしたの?道に迷ったの?」
リィスは頷きました。
「お母さんがね、怒るの。お父さんも怖いの」
「うん」
よっぽどだったのか、身を寄せてきました。
「それでね、迷ったの」
「……うーん?そうか。迷ったのか」
よく分かりませんでした。間の大切な部分をかなりすっ飛ばしたようでしたが、道に迷ってしまったのは多分間違いなさそうです。ミーナは彼女の胸ほどの位置にある頭をとんとんと叩いてあげました。
「リィスはどこの子なの?私の村では見かけないから、隣の村かな」
といってもミーナだって自分の村からは一度も出たことが無いのです。村というのがいくつかあり、どこかに大きな街というものがあるのは知っていますが、どこになにがあって誰が住んでいるかなんて彼女には分かりません。
けれどもきっとそういうことは村の大人たちの方がずっと詳しいはずです。この森の様子からしても、とにかくリィスを連れて一度ここを出て帰り道を探すのが先決だと感じました。
「私はミーナっていうの。実は私も道に迷っちゃて。でもとりあえず、一緒にここから出よう」
ミーナの冒険はひとまず終わりです。それよりもリィスを何とかして返してあげなければなりません。 リィスはミーナの服をしっかりつかんで離さないので、彼女はリィスを抱きかかえるようにしながらもと来た道を戻ろうとしました。しかし。
「リィス?」
リィスは動いてくれません。小さな体のどこにそんな力がと思うほどに、びくとも動いてくれないのです。
「帰りはこっちだよ」
しかし彼女は首を横に振るばかりで一向に動こうとしません。ミーナは少し考え込みました。
「あ。もしかしてリィスは逆から来たのかな」
もしミーナが潜った扉のようなものが他にもあるのならば面倒なことになります。けれどもそれにもリィスは首を振りました。
「うーん?」
そこで、つと、リィスは伏せていた顔を上げました。
「道は、だめ」
「……だめ?どうして」
彼女はすごく必死な表情をしていました。それは、縋り付くような。何かに追い詰められたような。
「道には怖いものが来るの」
ミーナには何も言えませんでした。彼女は今までそんな顔をする人を見たことが無かったのです。
「だから、こっち」
「え。ま、まって……」
リィスは逆にミーナを道の外へ引きずり始めました。そんなまさかとは思いましたが、いくら堪えても彼女はやすやすと引きずられてしまうのです。たまらずミーナは白砂に足を取られて転んでしまいました。
「どうしたの……リィス」
「―――寂しいの」
彼女は、今度はミーナの腕を柔らかな両手で強くつかんで、引きずります。砂に擦れる肌が痛くて、彼女は呻きました。
「いたぁ」
ずるずると抵抗もできないその力に焦りを覚えます。
「かなしいの」
路傍のほの青く光る硝子の花が目の前に迫り、視界が青く染まってゆきます。その向こうでリィスの幼い顔は泣きそうに歪んでいました。
「お願い。来て……」
カラカラカラ。
風車が回ります。
「だめだよ。蜉蝣」
その時。
リィスの動きがぴたりと止まりました。
「……でも」
「その子を離してあげて」
ふっと、きつく握りしめられていた腕が自由になりました。何が起きたのでしょうか、ミーナには全く状況がつかめません。どうやら誰かが来てくれたようです。優しげな声が聞こえます。
「だって、ミーナが欲しいの」
「僕は今、だめだと、言ったよ?」
ミーナはすりむいたところに気を付けながら、様子を確かめるために身を起こしました。どうにも力が入らず、取りあえずは座り込みます。目に入ったのは彼女よりいくつか年上らしい少年でした。灰色の髪と目を持つ穏やかな雰囲気の人です。
「リィス」
呼びかけると、彼女はこちらを向きました。
「ねえ、来てくれないの……?」
ミーナは微笑みました。
「大丈夫。行くよ」
「だめだよ」
ところがそこで止めに入ったのは、その少年でした。せっかく話が落ち着きそうなのにと、ミーナは顔をしかめました。
「何かいけない事でもあるの?」
彼はとても困った顔をしました。
「だめなんだ。その蜉蝣について行ったら、君はここから出られなくなる」
ほら、と彼は道を外れた森の中を示しました。訝しく思いながらもそちらを見ると、真っ白い木々の間の黒闇には、姿の見えない何かが無数にひしめいているのが分かりました。
いつからそこにいたのでしょうか、それらは息を殺してじっとこちらを窺っているようです。
「なに、あれ」
「蜉蝣だよ」
かげろう。彼はさっきリィスの事をそう呼んでいたような気がします。もう一度彼女の様子を見ようとして、ミーナはそこに彼女がいない事に気が付きました。
あれ、と思い、座り込んだままのかっこうで辺りを見渡します。しかし硝子の花で囲われた道の中のどこにも、彼女の姿は見当たりません。
「リィス?」
呟きに答える声はありませんでした。
「詳しいことは後で話すから」
彼は手を差し出しました。ミーナは訳の分からないままにその手を取って立ち上がります。
「とにかくけがの手当てをしよう。付いて来て」
そうしてミーナは彼に連れられて、結局は森の奥へと歩いていくことになるのでした。