第一話 森+少女+好奇心=迷子
ある朝のことでした。
朝日のさんさんと降り注ぐ森の小道。露がキラキラと宝石のように煌めいています。
色とりどりの花々が咲き乱れる木立の向こうから、うきうきとした歌い声が聞こえてきました。
「あるぅひ、森のぉ中、くまさぁんに、であぁった」
さやさやと揺れる木漏れ日の向こうから、ちょっと不吉な歌を歌いながらやってきたのは、一人の少女でした。夕飯の食材を集めている途中だったのでしょうか、肩からは麻でできた空っぽの袋を掛けています。持ち手に結わえつけられた鈴が、歌の合間にしゃらんしゃらんと涼やかな音を立てています。
「花咲くぅも、り、の、みぃち……」
そこでふと、その少女―――ミーナは足を止めました。一緒に歌もふつりと途切れ、代わりに彼女の「あれ?」という呟きが、広い広い森にぽつんと落とされました。足元で小さな蟻が、急に立ち止まったミーナの爪先を迂回してゆっくり通り過ぎてゆきます。一陣の風がさぁっと肩までのブルネットの髪を揺らして、吹き抜けて行きました。
「ここどこだろう」
ミーナは困り顔になって首を傾げました。道を間違ってしまったのでしょうか、どうもいつのまにか周りの風景は、彼女の見覚えのないものになっていたのです。
しかしこの森に入ってからまだそうは時間がたっているわけでもありません。もしかしたら歌に夢中で、さっきの分かれ道を間違えてしまったのかも知れません。
―――そんなに進んだわけでもないし、もと来た道を戻れば大丈夫か。
大して気にも留めずに、ミーナは向き直り、もと来た道を駆け戻って行くのでした。
しゃららん……という鈴の音がそれを境に聞こえなくなったことを、気付かないままに。
「んん……?」
太陽はすでに頭上高々と上がり、いかな春の日差しとはいえども、容赦なくミーナの体力を奪ってゆきます。───ましてや数時間歩き通したあとでは、なおさらに。
「なーぜー……」
濃い緑の匂いの中、ミーナはぐったりと路傍の樹の根本に座り込みうなだれていました。何かおかしいのです。先ほどから歩けども歩けども見知った道には全く行き着かず、彼女はずっと森の中の小道を歩き回っているのでした。おまけに知らないうちにいつもお守りとして持ち歩いている鈴までなくなっていて、不吉なことこの上ありません。
太陽の位地はちゃんと見ています。方角的にはもうとっくに森を出て、さらには彼女の住む村を縦断し終わる頃です。
しかし。
───ここはどこ?
森に終わりは訪れず、かといって道がなくなるわけでもなく。思わずミーナははしばみの瞳を伏せて、小さくため息をつきました。ほてった頬を、ひやりとした風がなでていきます。まぶたの向こうで大きく森の木々がざわめいたのが感じられました。
―――これって、本当に帰れないかもしれない。
ざわざわざわざわ。森が波打ち、意識の向こうでちらちらと木漏れ日が揺れ動きます。
―――私はどこにいるんだろう。
これはいったいどうしたことなのでしょうか。いかに彼女が日ごろから「のうてんき」と言われ続けているような女の子でも、さすがにこの事態のまずさには不安を覚えはじめているのでした。なんといってもミーナは今この広い森の中で、一人っきりなのです。そう思うと、さみしさが胸のあたりをそっと行き過ぎてゆくように感じました。
「……帰りたい、な」
呟いて、もう一度見落としていたものがないか辺りを見渡します。しかし下草に埋もれかかった道の向こうは、いくら目を凝らしても樹木と野の花や草がどこまでも続くばかりで、人の気配さえありません。いったい自分はどこに紛れ込んでしまったのだろう。そう思い、後ろを振り返ったとき。
―――あれ?
木立の重なるちょっと先に、消えかかったけもの道のようなものが見え隠れしているのに気が付きました。そこだけ確かに草木が薄くなっているようなのです。
―――道、なのかな。
その時ミーナは、特に何か考えたわけではありません。一度盛大に道に迷ってしまったのです。もしかしたら感覚が麻痺していたのかも知れません。そう、ただ……。
「何かあるのかな」
立ち上がり、歩き出し。
……ただ、強いて言うならば、なぜだかどうしても気になってしまったのです。それはまるで、引き寄せられるようにして。
「うぁー……」
けもの道の先。秘めやかな暗い沼の脇を通るぬかるんだ道をさらに行くと、いきなり目の前が明るくなりました。一瞬視界が真っ白に霞みます。
目が眩み、ついでに頭も眩んだような状態で、ミーナはそこを眺め渡しました。
そこは木々の生い茂る森の中で、ぽっかりと青空の広がる、ちょっとした広場のようでした。開けた場所一面には、色とりどりの花ばなが咲き乱れています。高く、風に乗って小鳥のさざめきが聞こえてきました。
まぶしさに目を細めて、ふと彼女はその中に寂しげに立つ、一本の木に気が付きました。取り立てて大きな木だというわけでもありません。しかし刈り取られたように樹木のないその場所で、一本だけ立つその木には不思議な存在感がありました。
よく見るとその木には、何か木製の板のような物が立て掛けられています。
───扉だ。
はめ込まれた色ガラスが陽光にきらきらと反射しています。真鍮製らしきドアノブも見えました。
───なんであんなものが……?
知らず彼女はその扉目指して、広場に足を踏み入れていました。さくり、と花畑に踏み込んだとたん、ふわりと花の甘い香りに包まれます。ぽかぽかとした日差しに温められた風が、優しく吹き抜けてゆきました。見上げれば春の淡い青空には、真っ白な雲がゆるゆると流れていくのでした。
出来るだけ花を踏まないように気を付けながら、その不思議な木の元までゆくと、ミーナは改めて扉をじっくりと眺めてみました。
───何でこんなものがここにあるんだろう。
どう見ても何の変哲もないただの扉です。同じようなものならミーナの村にだっていくらでもあります。……ただしそれらは、ちゃんと家にくっついているものばかりですが。
「誰かが捨てたのかなぁ」
そうして複雑な模様に組まれた色ガラスを覗き込みました。
「こんなに綺麗なのにもったいないな」
ガラスを透かした向こうにはただ木の幹が見えるだけですが、それにしたって美しいのに変わりはありません。見たところ少し痛みはありますが、まだまだ使えそうなのです。
ためしに鈍く輝く真鍮のドアノブに手を掛けてみました。回してみれば、意外なほど滑らかに回ります。それじゃあ、と思い、ミーナは思い切って扉を引いてみました。
きぃ。
蝶番のきしむ音が辺りに響き。
「え……」
扉の開いた先を見て、ミーナは息を詰めました。真ん丸に目を見開いてそのまま動きを止めてしまいます。一気に全ての音が遠ざかってゆくようでした。
扉の向こう、そこには当然あるはずの木の幹がなかったのです。変わりにその四角い空間を満たしていたのは、静謐なぼんやり青い暗闇でした。
―――な、なんで……。
引き込まれそうになる視線を無理やり引きはがし、扉のさらに上を仰ぎ見ます。そこには変わらず青々とした樹が枝を垂れているのでした。彼女の目にはそれはとても奇妙で、いびつな光景に映るのでした。
ミーナは恐る恐る扉の反対側に回り込んで、そこから向こう側を覗いてみました。しかしそこにあるのは変わらず花々の生い茂る、穏やかな森の中です。ひらりひらりと、かすかに黄色身がかった羽を持つ蝶が花畑の中に消えてゆきました。自分がつばを飲み込む音が、やけに耳につきます。
再び扉の正面に回り込んで、彼女はゆっくりと腕を扉の向こう側の空間へと伸ばしてみました。指先が木枠を超えた時にはちょっとだけ心臓が跳ねましたが、肘まで差し入れてみても、別に何か変わったことが起きるわけでもありません。
そこでちょっぴり、ミーナの好奇心がうずきました。
腕はそのままに、一歩、扉の向こうに足を踏み入れます。それでもなんともないことを確認して、彼女の決心は固まりました。今度は一思いに全身を向こう側にくぐらせました。
―――好奇心は猫をも殺す……
そんなことを誰かが言っていたような気もしましたが、きっと気のせいです。