第十一話 少年+少女+扉=決断
ばたんっ。
ベアの家の扉を両手で閉ざして、ミーナは空を見仰ぎました。木々の白い枝葉の向こうにある黒い空は、無感動に彼女を見下ろすばかりです。蜉蝣の気配がそこかしこにうごめく森の中で、その虚ろが今は少しうらやましく感じられました。
―――この家の周りは今、蜉蝣だらけなんだ。
森中の蜉蝣がベアを狙って集まりつつあるのでしょう。きっと思っていた以上に猶予はなかったのです。間に合ったことに束の間彼女は胸をなでおろして、白砂で引かれた森の道を歩き出します。
家の明かりも木々に紛れ出したころに、彼女は足を止めてもと来た道を振り向きました。カラカラカラっという音を立てて、すぐ脇に立つ硝子の風車が回ります。ほの青い光りで道を照らすはかなく硬質な花々は、終りの舞台を粛々と見定めているかのようでした。
「蜉蝣さん」
ささやき程の小さな呼びかけに、ざわり、と森の注意が自分へ向けられるのが分かりました。声なき圧力に浅くなりがちな呼吸を意識します。
「ねえ、蜉蝣さん。寂しい寂しい、蜉蝣さん。見て、今私の耳にはイヤリングがないの」
髪をかき上げて耳元を示し反応をうかがうと、食いつくような視線を肌に感じました。反応は上々です。ざりっと、足元の砂を踏みしめました。
「ベアは逃げないよ。待っていればすぐに彼は力を失う。だけど、私は違う」
―――これならきっと、うまくいく。
自分に十分な注目が集まったことを確認して、彼女は心もち背を反らせます。
「欲しければ、追いかければいい」
言い切って、素早く身をひるがえしました。駆け出します。それから一呼吸あと、蜉蝣がわっと、一斉に追いかけてくるのが分かりました。森がきたるべき終焉を予感してざわめきます。終幕へのカウントダウンが始まりました。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
ベアは森の道を走っていました。いつも静かなこの場所は、しかしいるべきものがいなくなって初めて、常にいたものの存在をまざまざと知らしめるのです。温度のないはずのそこで、彼は冷たいミルクの瓶を予期せず触ってしまった時のような、どきりとする寒さを感じました。
―――蜉蝣が見当たらない。
ここまで来れば彼にもなんとなく事情が呑み込めてきました。ミーナがしたことの予想も……できないわけでは、ないのです。しかし未だかつてこんなことを思いたってしまった人なんていたのでしょうか。
―――蜉蝣をまるごと連れて行ってしまおうなんて。
蜉蝣はいつだって人を求めています。まるでそれは乾いたものが水を求めるように。きっとそんな存在を引き付けることはそう難しいことではないのかもしれませんが、そもそもやる意味が分かりません。けれども相手はあのミーナです。
―――やりかねない、なぁ。
彼女は何を思ってこんなことをしたのでしょう。彼を助けようとでも思ったのでしょうか。
確かに蜉蝣を森から遠ざける事が出来れば、もうしばらくは彼も生き延びることが出来ます。なるほど、ベアのことだけを考えればある意味とても有効な手段です。しかしそれはあまりにも危険なことでした。彼には誰かの助けも借りずに、彼女がそんなことを成し遂げる事が出来るとは思えないのです。
―――ミーナはいつもそうだ。
力もないくせに行動する。
彼は立ち止まりました。ざわめきは近いです。ちらほらと何かに夢中な様子の蜉蝣が見受けられました。しかしそれらは総じて小さく弱きものばかりです。樹に寄りかかる老人、駆けまわる子供、小鳥、けがを負った動物。それらがミーナを森に引っ張り込むのに一番良いものだと蜉蝣が判断したものと思うと少し頭が痛むような気もしましたが、今はそれどころではありません。
―――ミーナだ。
さっと、視界が開けました。
森の外。黒い大地を多くの有象無象の形をとった蜉蝣を引き連れて、ブルネットの髪の少女が駆けています。
あまりの量の蜉蝣にそれは個体の集まりと言うよりかは何か大きな一つの怪物のようでしたが、それを見て、彼はちょっと希望が見えたような気がしました。
―――これならうまく逃げ切れるかもしれない。
遠くに小さく見える扉まではまだ距離がありますが、何せそれを追う一つ一つのものたちが速く動くのに適した姿を取れずにいるのです。空を飛ぶものも、地を走ったり這ったりするものも、生物らしきものも、無生物らしきものも。全てが総じて必死の形相であるのにもかかわらず、皆何かしらの不都合を抱えているようでした。
ベアが息を飲んで見つめる中で……けれども彼はすぐに、その考えが甘いものであると思い知ることになります。
近く遠く。あちらこちらからしきりにミーナに呼びかかける声が聞こえてきます。
何千何万という蜉蝣たちの呼びかけの中ではそれぞれの内容までを聞き取ることは出来ません。ただ分かるのは耳を塞ぎたくなるような、その悲痛な響きのみです。
―――気にしちゃだめ、気にしちゃだめ。
彼女は必死に前へ前へと走ることにだけ意識を傾けていました。少しでもひるんで足が鈍れば、あっという間に蜉蝣たちに取り囲まれてしまうことは目に見えているのです。
―――進むんだ。
森を抜け粗い黒砂の大地を蹴り。顔を前へ向ければ色ガラスのはまった扉が目に入ってきました。もう少しです。扉をくぐったあとのことは例によってあまり考えてはいませんでしたが、外に出てしまえば蜉蝣は姿を保っていることができないのだと、森の奥に踏み込んだことのある彼女にはなんとなくわかっていました。魔法の源は魔女のいるあの森なのだと。
―――走れ、走れ。
手を、足を、体を動かします。つんのめりそうになれば無理やり立て直して走り続けます。
―――扉が。
もう、間近でした。
―――これさえ超えれば。
……しかし。
伸ばした彼女の腕を、つかむものがありました。
「うぁっ」
心臓の持ちあげられるような突然の浮遊感に、ミーナは思わず声を上げます。両足が一度大きく空を蹴って、何とかまた地面を見付けました。その拍子に思いっきり足の甲を打ち付けて顔を歪めます。
急いで振り返って、彼女はそこに嫌な情景を見とめました。ひゅっと、喉の奥が音を立てます。
―――なんでっ。
そこにはすでに老人や子供や小動物の姿はありませんでした。代わりにいたのは。
―――怪物だ。
家一軒分はありそうな巨大な目玉に、鋭い鉤爪のある腕を何本も持った毛むくじゃらの生き物。見上げれば空を覆い尽くさんばかりの翼をもった、針金の塊のようなものまでいます。そっと動かない自分の片腕に目をやれば、そこには黒いどろりとしたなにかが絡み付いていました。
「いや……」
怪物、怪物、怪物。
広がる漆黒の砂原には異様な光景が展開していたのです。
その時ふと、ものが腐ったような生臭いにおいが鼻を突きました。一緒に奇妙に温かい空気を感じて恐る恐る足元を見ます。するとそこには、真っ赤な空間が口を開いていました。いつの間にか彼女はその淵ぎりぎりに立ち尽くしていたようです。
ぐいと引かれてその力に思わずたたらを踏み、ぞっとして底の見えない空間を見下ろせば、鳥肌の立つような誰かの視線を感じました。よくよく目を凝らせば向こうの方に何か小さく白いものがあります。それはじっとこちらを観察しているのだと感じました。
―――何だろう。
そう思って一瞬意識を逸らしたのがいけませんでした。計ったようなタイミングでもう一度腕を引かれます。すると彼女はいとも簡単に足を滑らせてしまいました。お尻を打つ瞬間を思って身をこわばらせれば、ぶつかるはずの地面自体がそこにはありませんでした。肩すかしをくらった思いも束の間です。
「あ」
落下。
心が体の落ちるスピードについて行けないような感じがして、目を眇めます。しかし恐ろしくて閉じてしまうことはできませんでした。自分の喉からほとばしる叫び声が耳につきます。生温かな空気は確かな熱を持って迫って来ます。脈打つ赤の空間から目を背けたくて視線を下にやれば……。
「ぃ、きゃぁぁぁっ」
顔が。大きな大きな真っ白い顔がミーナを見上げていました。よだれの絡む赤く裂けた口を嬉しそうに開いて、彼女が来るのを今か今かと待っているのです。茫洋とした黒い瞳がじっと見詰めていました。
―――飲み込まれるっ。
迫る瞳を見返した時。
霞む視界の向こうで、青い光がはじけました。
その様子をベアは森の道から見ていました。足を上げては下ろし、また上げては下ろし。そんなことをもう何回繰り返したでしょうか。
「あー」
頭を抱えます。
「うう」
意味なく足元を蹴りました。
「うぁー」
腕を振り回します。
―――どうしよう。
彼には分かっていました。蜉蝣たちはミーナの、扉の外に出られる、という希望を逆手にとって姿を変えたのです。そして一度そうなってしまえば彼女に勝ち目はないのだと。
―――どうしよう。
勝ち目がない……何か新しい要因でも加わらない限りは。
けれども彼はベアなのです。ベアは森の道を外れることのできない決まりです。ここでミーナを助けに行けば、きっともうこの森に戻るという選択肢はなくなるのでした。すると彼に残される場所は見たこともない、扉の外の世界だけになります。
―――それに、うまくいくかだって分からないんだ。
うまくいかなければ彼もろとも、確実にミーナは蜉蝣に取り込まれてしまいます。何せ、助けに来た彼自身にも蜉蝣が集まってくるのですから。リスクだって、途方もなく高いのです。
だったら彼女が逃げ切るのを祈っている方が、まだいいような気もしました。
しかしその時。
彼の目に、ミーナが地面に開いた赤い穴へ落ちて行くのが映りました。
ベアは目を見開いて立ち止まります。ぐだぐだ渦巻いていた思考も一緒に凍りつきました。
「……ああっ、もう」
その一瞬、彼は自分がいったい何を考えていたのか、あとあとになっても思い出すことが出来ませんでした。強いて言うならそこには、ありふれた焦りや、苛立ちがあっただけのようにも思います。もしかしたらそんな感情だけで考えなしに、彼は動いてしまったのかもしれません。
けれども確かに彼は自分の意志で、その一歩を踏み出したのです。道を外れ、森の外へ。
音のない森の中、踏みしだかれた硝子の花だけが、彼を見送ります。
背に温かい人の体温を感じました。ミーナは固くつむっていた目を、恐る恐る開きます。瞬間、青い光が視界に飛び込んできました。
「わあ、きれい」
見上げるほどの、まあるい光の輪っかです。よく見るとその円周にはおびただしい数の、見たことのない文字らしきものが並んでいました。
「大丈夫、けがしてない?」
声に振り向けばそこにはベアがいました。灰色の澄んだ瞳と間近でぶつかり、彼女は慌てて彼から身を離します。気がつけば彼女の両足はいつの間にかしっかりと地面を踏んでいました。腕に絡みついていたあの黒いものもありません。
何が起きたのか分からずに彼女は首を捻ります。
「うん。けがはしてないと思うけど……」
「よし。じゃあ走って」
手を取られ、そのまま引っ張られます。状況について行けないながらも、彼女もつられて足を動かしました。首を傾げながらももう一度あの光の輪を振り返り、ぎょっとします。
「……うわ」
白塗りの大きな顔が輪の向こうから、無表情にこちらを見ていました。そしておもむろに頭を傾けます。するとにゅるりと、頭の後ろからこれまた大きな腕が伸びてきました。それが輪に触れると輪は少し光が強くなった後、徐々に消滅していきます。
そこまで見て、彼女は視線を前に戻して足を速めました。とにかくあれから逃げ切らなければいけないのだと分かったからです。
「助けてくれたの?」
走りながら問うと、ぎゅっと、手が握り返されました。
「助かるかは分からない。だけど、助からないと」
「集まってきた」と言って彼は空いている方の手を、空に差し向けます。すると広げられた手のひらの少し先に、例の青い輪がいくつか浮かび上がりました。円の周りを文字がくるくると回っています。
「それ、何?」
「魔術だよ。ベアの力じゃない方。これは蜉蝣を退けるけど、僕の力だけで扉までたどり着けるかはやってみないと分からない」
彼が手を一振りすると、大きな光の輪は四方八方に飛んでいきます。そして彼女たちを求めて集まってきた蜉蝣たちに立ちはだかり、その動きを牽制するのでした。
けれども蜉蝣は次から次へと際限なくやってきます。彼女の目から見てもこれは時間の問題のように思われました。
「扉はすぐそこだ。走れば何とかなるかも知れない」
あとはひたすら無我夢中で走り続けました。ベアもあまり魔術は使わず、すぐ近くに迫って来たものだけを相手にしているようです。
地を蹴り空気を掻いて、少しでも前へ前へ。
胸が苦しく、次第に呼吸も乱れてきました。しかしすがるようにベアの手を握れば、彼は必ずしっかりと握り返してくれます。それに勇気づけられて彼女は走り続けるのでした。
―――もう、すぐ、だっ。
扉が目前に迫ってきたとき。
しかし、そこには立ちはだかるものがありました。
「ぅ、わぁぁ」
二人は慌てて足を止めます。つんのめりかけて何とか持ちこたえました。荒い呼吸の向こうでそれに目を向けます。
目の前にたたずむのは人間の大人ほどの白い物体でした。ちょうど誰かがシーツを頭からかぶったような様子です。それは襲いかかるそぶりはなく、ただ身じろぎもせずにそこにいるだけでした。
どうしようかと頭を巡らせていると、少ししてシーツの奥から覚えのある声が聞こえてきました。
「森を出るのかい、ベア?」
するとそんなに大きな声でなかったのにもかかわらず、砂原中の蜉蝣が動きを止めました。途端に辺りはしん……、と静まり返ります。全てがその声に聴き耳を立てているようでした。
「魔女さん」
呟けば「相変わらず聡いね」と、笑いを含んだ声が返ってきました。
「でも今日はどちらかといえば、ベアの方に用があるんだよ」
言って、魔女はベアの方に顔を向けたようです。
「ベア、あんたは森を出るのかい?」
呼びかけられて彼は思案するようにしばし黙り込みます。
「……それもいいかな、って思ってる」
「でも外はあんたが思っているよりも、ずっと過酷な場所だよ。人はそこでいろんなものをすり減らしながら生きてる。ましてや魔法使いなんて弾劾の対象だ」
「森の中にお留まり」と、魔女は言いました。
沈黙が落ちます。ミーナはとてもとてもベアに話しかけたいと思いましたが、これは彼自身が選ばなければならないものです。ぐっとこらえて彼の言葉を待ちました。まだ速い動機が耳につきます。はたしてこれはミーナのものでしょうか、それともベアのものなのでしょうか。
やがて、静けさを破ってベアの声が耳に飛び込んできました。
「だけど」
いつの間にか彼の手は、魔女に向けられていました。
「ここには足りないものが多すぎる」
青い光の輪が魔女を中心に生まれます。その上をめまぐるしく大小様々な文字が踊っていました。
「ここはあまりにも……寂しいんだ」
光が収縮し、眩しさにミーナは目を細めます。すると強く腕を引かれました。「走るよ」という声が耳元で囁かれます。
彼女が頷くか頷かないかの内に、ベアは走り出していました。遅れないようにとミーナもそれに続きます。扉を目指してそのまま魔女の横を駆け抜けました。その瞬間、動きを止めていた蜉蝣たちも一斉にわっと、こちら目指して集まってきます。
ベアの手がドアノブにかけられたのが目に入りました。ためらいなくそれは開かれます。日の光が目を刺し……彼女はベアに引き上げられるようにしてそこに転がり込んだのでした。
扉が閉まる一瞬。「幸せになって」という声が聞こえたような気がしましたが、もしかしたら空耳だったかもしれません。




