第十話 寿命+主張+外=行動
早朝。今日も今日とて晴天です。銀のじょうろ片手に白雲が頭上を流れる様を眺めながら、ミーナは庭に水やりをしていました。
「肥料もやっとこうかな」
呟きながら森の方に目を向けます。彼女の家は村のはずれにあり、目と鼻の先が森なのでした。ひんやりとした朝の風に森林が大きく揺れ動きます。木漏れ日がちらちらと地に光を投げかけていました。
「もしかしたら、帰ってこれないかもしれないからなぁ」
芒に似た真っ直ぐな葉脈を持つ檸檬茅に手を伸ばします。ふわりと、檸檬に似たすっと突き抜けるような爽やかな香りがしました。その隣では桃色の花弁を持つ紫馬連菊が、胸を張るようにたおやかながらもしっかりと、天に向かって咲いています。
「あと、何かやっておくことは」
風がやさしく、彼女の頬を撫でてゆくのでした。
トントン
ベアの家の扉を叩けば、返事はすぐに聞こえてきます。
「はい」
家の中から現れた彼は、はた目からも分かるほどに憔悴していました。「どうぞ」という声にも力がなく、灰色の瞳はどこか虚ろです。
その様子に不安を感じて、招き入れられて早々にミーナは口火を切りました。勧められた椅子にも座らず、ベアの目の前に立ちその瞳を覗き込みます。
「ベア。話があるの」
「なに?」
彼は首を傾げました。思えば部屋の明かりも今日は薄暗く感じます。何か濃い影がこの家自体を包み込んでいるようでした。部屋の隅を見れば視界の端をさっと、何かが駆け去って行ったような気がします。
―――蜉蝣だ。
猶予は思った以上にないのかもしれません。
「ねえ、ベア。私はあなたに言っていないことがあるけど、ベアだってそうなんでしょう?」
彼は彼女から目を逸らしました。
「なんで、また、そんなことを?」
彼女はどう言おうかと迷います。勢いで切り出してしまったわけですが、その後のことはあまり考えていなかったのでした。しかし今日問い詰めようと思っていたことは事実です。すっと、息を吸いました。
「寿命が、近づいてるんでしょう」
すると、驚いたように彼が顔を上げました。
「なんで、それを」
「聞いたの。森で」
眉をひそめる彼に、彼女はお腹に力を込めて決意を固めます。
―――やってみなければ分からないことは、やるしかないんだ。
「ベア、あなたは、森を出る気はないの?」
すぐに答えはありませんでした。どのくらいの時間が過ぎたでしょうか、今日は手ぶらで来た彼女は緊張に汗ばむ手を握りしめます。
やがて、ベアは、困惑をにじませる声で答えました。
「どうして、そんなことを?森を出ようとすればどうなるかを、君も知ってるのに」
「でも、このままだと」
ミーナは唇を噛みました。落ち着けといいきかせます。
「あなたの、命が、危ない」
「それは森を出ようとしても同じことだよ」
「だったら、外に出ようとした方が、よっぽど助かる可能性はあるじゃない」
ふと思います。どうして自分はこんなに必死なのかと。
―――本当はきっと、彼の好きなようにさせてあげるのが、正しいんだ。
これではまるで押しつけです。ミーナも前ベアも。自分の命の扱いを決める権利があるのは本人だけなのだと思いながらも、こうしてどうにかベアの考えを変えられないかと試行錯誤するのです。
「あくまで可能性だ。それもかなり分の悪い。だったら少しでもここにいた方が、長生きできるよ」
何と言えば彼は、それを変えてくれるのでしょうか。
「それじゃあベアは森に取り込まれると分かってるのに、ここでじっとしてるっていうの」
「冷静に考えたらそれが賢明かな、って思うし」
ベアは困った風に「ミーナ、落ち着いて」なんて言います。
「あなたが落ち着きすぎなんだってばっ」
―――どうすれば。
気ばかりがせいて、いい考えが浮かびません。
「ベアは……外に出たいと、思ったことはないの?」
言ってから、彼女は今自分が口にした言葉に息を飲みました。その問いは何度ミーナの胸の内で呟かれたか知りません。しかし……ずっと怖くて口に出せなかったのです。彼が何と答えるか分からずに。
「外に」
思ってもみなかったという様子で、彼は呟きました。なぜそんなことを聞くのか分からないという感じに、何度か瞬きます。
「……いや、あんまり」
「ない、の?」
そして頷く彼に、彼女は思っていた以上の衝撃を受けたのでした。頭が真っ白になります。何か言い募りたいという気持ちはありますが、頭は空転するばかりで言うべき言葉も思いつきませんでした。
―――ベア、それはどういう意味?
外に関心がないということでしょうか。つまりそれは。
―――私も外の人間なのに。
気がつけば彼女は今日までとうとう言おうかどうか決めかねていたことを、口走っていたのでした。
「知ってる?どうしてベアに寿命が訪れるか」
彼が首を振るのも待たずに、続けます。
「魔女は最初に『ベア』に二つの魔法をかけたの」
自分は今どんな顔をしているんだろう。そんなことを考えながら口は、はやる気持ちは、何かに突き動かされるようにして止まりません。
「一つは、森の支配者としての権利を、青年に与える魔法」
息を継ぎます。
「そして、もう一つは……、青年から、寂しさを、奪う魔法」
一歩、彼から離れました。広がった空間に、彼女の言葉が落ちます。
「だから『ベア』は、本当の寂しさを知ったら、全ての魔法が解けてしまう。それが、『ベア』の、寿命なんだって」
彼女は泣いてしまわないようにと、微笑みました。次にすることはもう決まっているのです。思えばこれが最も正しい選択なのかもしれません。
「だけどそれは、ベアの寂しさは、私には関係なかったんだね」
イヤリングを耳からはずし、本の積み上げられたテーブルの隅に置きます。
「ばいばい」
呆然とする彼を置いてミーナは扉を開け、家の外に駆け出してゆくのでした。
彼女の出て行ってしまった家の中は、しばらくの間物音一つしませんでした。それも当たり前です。住人であるベア自身が身じろぎもせずに呆けているのですから。
やがて。
「え」
いかにも痛そうに頭を抱えます。
「ええ?」
白壁を凝視してミーナの言葉を反芻します。
「寂しさって、ええと」
―――彼女は、一体何が言いたかったんだ?
そもそも魔女の二つ目の魔法は初耳でした。ベアが森の支配者である権利を持っているのは先のベアから聞いて知っていたのですが、二つ目について、彼は何も言っていなかったのです。
―――この間。
ミーナが森の奥に入り込んでしまったとき。あのとき彼女は海の中で何かを見た、と言っていました。ベアにかけられた魔法についての何かだと。つまりミーナが言いたがらなかった『見たもの』というのは、魔女の二つ目の魔法についてだったのだと推測できます。
それが寂しさを奪う、というのはどういうことでしょうか。魔女の魔法が解けかかっているのは彼も感じていたことで、森から身を守るために最近では自前の魔術で何とかしていたほどです。
―――でも、何とかならなくなるのも時間の問題だ。
分かっていたから諦めようとしていたのです。彼はこの森の外を知りません。だからはじめから、ここから逃げ出すという選択肢には現実味を感じられなかったのでした。外、というのは彼にとってずっと、夢の向こうの世界だったのです。
―――だけど、ミーナが現れて。
夢の世界に現実の住人が現れたのでした。そればかりではありません。彼女が来るとこの味気ない森までもが、明るく照らし出されるような気がするのです。それこそ、魔法が解けて行くように。
だからこそ大変なのはいつも彼女が帰った後でした。命の輝きを知ってしまった彼には、この白と黒ばかりの世界はたいそう物足りなく感じられたのです。森の植物に彼は色を与えることが出来ましたが、自ら色づこうというものは一つもありません。
―――思えばこの森はどこもかしこもそうなんだ。
蜉蝣はやってくる人間を欲し、木々は切られるまで変化をしない。風のないこの場所では、地の砂さえもが蹴り上げられるまで動くことがないのです。
―――僕だって同じだ。
待っていればいつもミーナはやってきました。おいしいお菓子とお茶、人の温かさ。彼は彼女から多くのものを受け取ってきましたが、彼自ら彼女へ働きかけることはそんなに多くはなかったように思います。
待っていれば、来てくれたから。そのくせ彼は彼女がいないと―――
「……寂しいんだ」
―――なんだか最初の魔女の気持ちが、分かるような気がする。
魔女はきっと寂しかったのです。人でないものに囲まれ、自らも人でなくなってしまったときに。それは何という孤独でしょうか。そこにミーナのような人間がいれば、捕まえておきたいと思ってしまうのも納得がいくような気がしました。
―――それじゃあ、僕はどうすればいい?
彼女を捕えておくのか。
しかしそれは何かが違うような気がしました。
「あれ」
考え込んでテーブルの周りをぐるぐると回っていたとき、彼はようやくそれに気が付きました。
「イヤリングが、何で」
テーブルの片隅には、ベアが彼女に渡したイヤリングが置かれていたのでした。そこで他の違和感にも気が付きます。
「蜉蝣が、いない?」
ベアの力が弱まりつつあるここ最近、蜉蝣たちの姿は常に彼の周りにありました。その数は増える一方だったのにもかかわらず、今はきれいに一つの影も見当たりません。ついでに付け加えれば、ここにはミーナの姿がないのでした。あるのは貝殻のイヤリングのみです。
ものすごく、嫌な予感がしました。なんといっても相手はあのミーナなのです。
「うわあ」
何をしでかそうというのかは分かりませんが、彼女が何かとんでもないことをやろうとしていることだけは想像できました。
ベアは少し迷い、イヤリングを手に取ります。
「たいへんだ」
自ら家を飛び出すのでした。




