雨音〜クロの真実〜
雨はキライだ。俺の体温を奪う。すきっ腹に冷たい雨が染み込む。奴は俺の命を奪おうと、容赦なくその身を俺に打ち付ける。
だから雨はキライ。
今日も冷たい雨が降っていた。
何とかパン屋で一つくすねられたが、足りない。仕方ない。これが野良のさだめ。何処で野垂れ死のうが、一匹の犬が死んだところで何も変わりはしない。腐った人間共の街は休む事を知らず、稼動し続ける。俺のような野良はゴミを漁り、人間の店から食べ物を奪い、生きる。それが俺の生きる世界なのだ。
…ん?
俺の頭の上に影が覆った。頭を持ち上げると、オレンジ色の傘が差し出されていた。傘の持ち主の女は、にっこりと俺に笑いかけた。
人間は都合の良い生き物だ。その時、可愛いなんだの言って、生半可な愛情をばらまく。そして飽きたらポイだ。優しい仮面を被った悪魔。奴らには勿体ないくらいの名だろう。
俺は女を無視し、いつもの場所へと向かう。俺には、あいつ以外の人間に優しくなんかしてもらいたくない。そんな一時的の愛情なんていらない。…自分が悲し過ぎるだろ?
女は少し淋しそうな顔をして、去って行った。
やっぱりな。
「おお、クロ。待ってたぞ」
赤鼻の爺さんは俺を見るなり、嬉しそうに手招きした。
ここが俺の居場所。
人間を憎んできた。
仲間も作らなかった。…でも、一人ってさ、結構寂しいんだぜ。居場所がないとダメなんだ。どっかにさ、帰れる場所が一つでもないと生きてる事が息苦しくなっちまう。この爺さんも一緒。寂しいくせに一人でいようとするんだ。でも我慢できないから、酒というやつで自分をごまかす。俺と同じで素直じゃない。
「まったく、こんなに濡れちまって」
と爺さんは言うと、ボロボロになったタオルで俺の体を拭く。俺はぶるぶると体を振るった。水しぶきが飛び、爺さんは苦笑いをする。
「おいおい、俺まで濡れちまうだろ」
毛に染み込んでいた水分が飛び、少し体が軽くなった。
「今日は雨だ。寒いし、寝るか」
爺さんはごろんと横になり、俺は爺さんの横に伏せた。
「おめぇ、あったけぇな」
爺さんは笑いながら、俺を撫でた。
爺さんの酒臭い息はキライだったけど、爺さんはキライじゃない。酒の臭いに顔をしかめる俺を見て、爺さんはいつも笑う。やな奴。でも酒って、あんまり体に良くないんだろ?爺さんの体の中が良い状態じゃないって事が臭いでわかる。酒なんて止めてほしいものだ。俺より先に死ぬなよ。俺の居場所…またなくなるじゃねぇか。
いつの間にか眠っていた。目を開けると、雨は止んでいて、雲の間から陽射しが差し込んでいた。いくつもの大きな水溜まりが陽の光に反射して、キラキラと輝いていた。
雨上がりはスキ。
側では爺さんがデカイいびきをかきながら、まだ眠っていた。俺はそっと立ち上がると、テントから出た。
ふらふらと、あてもなく散歩へと出た。しばらく歩くと、公園にあの女の姿を見つけた。あの女はバカだ。あんな所に女一人で入るなんて。どうなっても知らないぞ。俺は公園を通り過ぎようとしたが、何だかあの女が気になった。オレンジ色の傘が目にちらつく。
仕方ねぇ。いっちょ、見て来るか。
遠い昔、公園というやつは憩いの場だったらしいが、この街の何処に憩いなんて求められるのだろう?荒れた公園には、爺さんと同じサウ゛ェッヂと呼ばれている奴らがいる。だけどここの奴らは、最低最悪。生きるために人を襲ったりするんじゃない、自分の快楽のため。こいつらには、お遊び。たちの悪いガキんちょだ。
「ヒヒヒ…あんたこんなトコで何してんのぉ?」
一人の男が首を傾げながら女に近づいて来た。焦点の合わないぎらぎらした眼、にたにたと下品な笑みを浮かべている。見るからに関わってはいけないタイプ。
「人を捜しているの。ここに、小さな男の子はいない?黒髪で瞳の色も黒なのよ」
だが、この女は平然として男に尋ねた。
「男の子ぉ?どうかなぁ。ヒヒヒ…」
話しになる訳ない。
女は溜め息をつくと、公園から出ようと向きを変えた。
「あれー?行っちゃうのぉ?俺と遊ぼうよう。ヒヒヒ…」
女は男を無視し、歩を進める。
「ちょっと待ちなよぉ」
男は女の肩に手をかけ、引き止める。すると女は振り向き、キッとブラウンの瞳で男を睨みつけた。力強い澄んだ瞳には、男を怯ませるだけの力はあった。男は顔を強張らせ、すっと手を引いた。女は何も言わず、公園をあとにした。
「はぁー」
公園から出た女は路地の壁にもたれ掛かり、息を長く吐いた。
「…?あなたは、さっきの子?」
女は俺に気がつき、目線を落とした。
「正直怖かったのよ」
と女は、苦笑いした。
意外。結構凄みがあったぞ。
「私ね…息子を捜しているの。あなた知らないかしら?」
生憎だが、知らねぇよ。
「ふふふ…」
女は俺の顔を見て笑った。
何だよ。何か付いてるか?
「あなたに聞いたって仕方ないわよね」
女はそう言うと、淋しく笑った。
「でも…聞いてくれるかな?私の話」
いいよ。聞いてやるぜ。
雨上がりの俺は機嫌が良い。
俺は女の傍に伏せ、聞く態勢をとった。
「あなたって、不思議な犬ね」
女はにっこりと笑うと、腰を下ろした。
「私ね、息子を捨てたの。本当は手放したくなかった。でも、私は追われている身だから仕方なかった。…ううん、仕方ないって思いたいだけね。自分が逃げるためにあの子が邪魔になっただけよ」
女は俯き、黒髪が顔を隠した。
「あの子を抱きしめたいとか手に戻したいとか、そんな贅沢な事望んでない。ただね…名前を教えてあげたいの。私、逃げるためにわざとあの子に名前をつけなかった。私との関わりを断つために。私があの子に名前を教えたいと思ったのは、愛してるって事を伝えたいだけなの。名前を、私の一方的な愛情を受け入れてほしいなんて願わない。…だけど今さらかな?」
泣いてる…?
女の肩が小刻みに震えていた。俺は女に近寄り、女の右手の甲をペロっと舐めた。
教えてやればいいじゃん。それが今さらだったって、一方的な愛情だろうが、あんたの気持ちが少しでも晴れるんじゃないか?後は息子の中の問題だろ?どんな結果を生もうとさ、止まない雨はないぜ。
「ありがとう。あなたって本当に不思議」
女は涙を拭いながら、俺の頭を撫でた。
俺は慣れない事をした気恥ずかしさとありがとうって言葉に胸がくすぐったかった。
「何だか気持ちがすっきりしたわ」
女は元気よく立ち上がった。ふと空を見上げると、再び雲行きが怪しくなっていた。
「じゃあね」
女は俺に手を振ると、人込みの中へと消えて行った。
俺は女の後ろ姿を見ながら、言い知れぬ不安を抱いていた。
この不安定な天気のせいだろうか…?
しばらく何週間も不安定な天気は続いた。と、いっても、気温の落差が激しいこの世界での天気なんてのはいつも気まぐれだがな。だが、雲がなかなか晴れないのも珍しい。
「なーに不機嫌な顔してんだ?」
爺さんはそう言って、空を見上げていた俺の頭をくしゃくしゃって撫でた。
うん…。何だかさ、嫌な予感がするんだ。気のせいかな?
「そういやぁ、最近この辺に政治犯が潜んでいるって、警察隊がうるさいなぁ。この世界を変えようだのって革命組織…確か、純黒って奴らが動いているらしいが、馬鹿な輩だな。もう、何十年…いや、何百年ってかかってこの世界が形成されちまったんだ。そうそう簡単に壊せるもんじゃねぇよ」
爺さんは、俺を撫で続けていた。
「無駄なあがきだよなぁ。…だけど、奇跡を待って死ぬより、あがいて死んだ方がいさぎいいかもな」
と、爺さんは真面目な顔をして言った。
政治犯……。
『追われている身だから』
もしかしてあの女…。
じゃりっと足音がし、テントから覗くと、モスグリーンの警察隊の制服を着た男が二人こっちにやって来るのが見えた。
「おい、あんた、この男と女を見なかったか?」
男の一人がペンのような銀の棒を出した。それを横にして、先端部分をカチッと押すとB5サイズぐらいの大きさの映像が現れた。そこには、髪はブロンド、瞳は淡いグリーンの男とあの女の顔が映し出されていた。
「知らねぇな」
「かくまうと、牢獄行きだぞ」
「悪いが、かくまうも何もこいつらと会った事もねぇし、見た事もねぇよ。わざわざこんな汚ねぇ所に足を運んでくれたんだが、むだ足だったようだな。ご苦労なこってぇ」
と、爺さんは皮肉っぽく笑った。警察隊員は怪訝そうな顔をしたが、爺さんを相手にするのは時間の無駄だと思ったのか、何も言わずに去って行った。
爺さんは懐から酒のボトルを出すと、勢いよくぐいっと呑んだ。
「胸糞悪い奴らだぜ」
爺さんは奴らの後ろ姿を睨みつけながら、言葉を吐き捨てた。
あの女…平気かな?
「ん?クロ、どっか行くのか?奴らが近くでうろちょろしってから、気いつけろよ」
街中を少し歩くと、銃声が聞こえた。
「パン、パン!!」
あっちの方だ!
音のする方に行くと、数人の警察隊員と物影に隠れている二人の人間の姿があった。それは、警察隊が捜していた二人。男も銃で応戦する。女は、身を縮ませていた。
「二人は、純黒の中心幹部だ!撃ち殺して構わん!!」
銃弾の嵐。辺りの人間達は既に、家や店に逃げ込んだようだ。
「クソッ!しつこい奴らだ!!アリサ、悪いが耀の事は諦めてくれ」
男は、顔を歪ませながら女に言った。
「もう、あの子を捜す事は無理なの!?」
と、女は顔上げて男に言う。
「ああ、もうタイムリミットだ。予定より大分早いがな。これ以上時間を割くと、亡命どころか、生き延びる事ができないぞ。俺にはそんな事できない。あいつとの約束なんだよ。君を護るっていうね」
「あの人が残してくれたあの子にもう一度逢いたかったけど、これは私の過ちへの報いなのね。わかった。ごめんなさい、わがまま言って」
「パーン!!」
一発の銃弾が、男の右肩を捕えた。
「うっ!!」
「ジャン!?」
女が右肩を押さえうずくまる男に、ハンカチを当てる程度の応急処置をしている間に、警察隊員の隊長らしき男が近づいて来ていた。
「さぁ、お遊びはこれくらいにして貰おうか。私達も君達輩を構っている程、暇ではないんだ」
女は咄嗟に、男が落とした銃を拾い、隊長に銃を向ける。
「こ、来ないで!!」
「手が震えているぞ」
と隊長はあざけ笑うと、ゆっくりと女に銃を向けた。
「ガウ、ガウ!!」
俺は吠え、隊長の意識を反らした。俺は振り向いた隊長に突進し、押し倒した。
「な、なんだこのクソ犬?!」
隊長は突然の事に驚き、手足をばたつかせる。
「あなたは…」
女は呆然として俺を見ていた。俺はそれに苛立ち、唸った後に、一言吠えた。
何してんだ!早く逃げろ!!死んだら、息子に会うどころじゃねぇだろ。
「ジャン、今の内に」
「ああ」
二人は立ち上がり、逃げ始める。
「このクソ犬っ!!」
「ズドーン!!」
「キャン!!?」
俺は銃で撃たれて、倒れた。黒い体を滲み出した自分の紅い血が染める。
「!?」
女は俺の方に振り向いた。
俺なんか気にすんじゃねぇっ!!
俺は立ち上がり、力を振り絞って吠える。そして、銃弾をぶち噛ましている奴らに襲いかかった。
女は眼に涙を溜めながら、逃げて行った。
夕日か…。綺麗だな。
もう目の前が霞んできているのに、オレンジ色に輝く夕日は俺の目にはっきり映っていた。その夕日は、あの女が持っていた傘色だった。何であんな女を助けちまったんだろう?優しくされたからかな。しかし、俺らしくもしない事したな。バカみてぇ。俺は弱々しく、自嘲する。こんな時ってのは意外に落ち着いているもんだ。…爺さん、ごめんな。俺、あんたを独りにしちまう。許してくれよ。
雨が、また降り始めた。それはクロの死を悲しんでいるかのような土砂降りの夕立だった。彼の紅く染まった体は、いたわるように、綺麗に洗い流された。
赤鼻の爺さんは、しばらくやって来ないクロの事をなんとなく予感していた。
ある日、久しぶりに激しい雨が降っていた。赤鼻の爺さんはふと、雨の中からこっちに向かってくる影を見つけた。
「クロ…?」
ぽつりと呟いた。
「クロ…?クロなのか?」
赤鼻の爺さんは、近づいてくる影に呼びかけた。影は、掻き消されそうになっている声をなんとか聞きとっていた。影は赤鼻の爺さんの目の前まで来ると、尋ねた。
「クロ…?それって、僕の名前?」
影の正体は、黒髪に黒い瞳の少年だった。
「……ああ、そうだ」
この少年は後に、クロと呼ばれる。
彼の本当の名はー
耀
だが、彼がそれを知る事はなかった。
END