56. あいしてる
モンフォールの間には、古いピアノがあった。
カイは、アリス・スペンサー伯爵夫人を二度見して、手に持っていたカップをひっくり返した。
ギョッとした顔で、私とイヴォンヌの顔を見つめた。
私とイヴォンヌは頷き、フリッツがそっと、例の古い手紙をカイに渡した。
「昨日、それまで俺たちといたアリス・ブレンジャーが、この手紙を持ったまま一八六四年へ落ちた。二十三年生きて、スペンサー伯爵夫人となって今日ここへ現れた」
フリッツは言ったが、カイは目を見開いて宙を見つめ、何度も瞬きをした。
『昨日まで俺たちといたアリスが、この手紙を持ったまま一八六四年へ落ちた。二十三年生きて、ババアになって、今日ここへ現れた』
フリッツの言いたかったことはこういうことだろうが、イヴォンヌとの直前の約束を守って、言葉を選んだようだ。
意味が分からないわよね?
怖いものを見るような様子で、カイは手紙を開き、唇を震わせて泣き出した。
「これは、実現しないよね?僕ら、この日付通りに全員この場にいるけれど」
「実現させないわ」
私はそれだけ答えて、カイの手を握った。
けれど、二十三年かけて私たちをここへ集めた手紙を前に、「絶対に大丈夫」とまでは言えなかった。
泣いているカイを慰めたいけれど、まずはアリスの温かい記憶を取り戻させるのだ。
黙って、お茶を注いだカップをそっとアリスの前に置いた。カイの焼いてくれた蜂蜜菓子もある。
——アリス、九歳の時の記憶をもう一度、私に教えて。
スペンサー伯爵夫人は話し続けた。お茶を一口飲む。手はまだ震えているが、自制しているようだ。
「皇女のあなたも、私の邸宅に遊びに行ったことがあると聞いたのよ。私の邸宅をディアーナが砂漠に移したのは聞いたわ。あの子は昔からとんでもない魔力を持っていたから、そのことは全然いいの」
アリスは話し続けた。
「あの家へ行くなら、あなたに頼むのが一番早いとディアーナに聞いていたの。あなたが伝説のブルクトゥアタだからと」
夫人は震える手を押さえた。
「そして、この手紙の日付が、今日だから。モンフォールの間で一八八七年七月二日に、と書かれてあるわ。だから、この日を楽しみにずっと待っていたのよ。この手紙がひどく重要な気がして。アリス・ブレンジャー子爵令嬢のことはもちろん知っているわ。ものすごく優秀なんでしょう?」
——アリス、記憶が戻ったあなたに、今のあなたのセリフを聞かせてやりたいわ。
イヴォンヌが眉を吊り上げたが、フリッツが首を振って、イヴォンヌに発言させなかった。
——今日の婚約発表が、二十三年前からこの手紙に書かれていた。
「最近……ずっとほら……カイ・アッシュクロフトとあなたの事が記事になっていたでしょう。そして、今朝、婚約を発表したでしょう?二十年以上かかって、やっと全ての条件が揃ったのよ」
アリスは、自分がお茶を飲んでお菓子を食べている様子を、皆が固唾を飲んで見守っていることに気づいていない。
「カイ・アッシュクロフトはあなたを愛しているでしょう。婚約を破棄するには、まずは婚約が成立していないと無理でしょう?つい最近まで、これは誰かのいたずら書きかもしれないと思っていたのよ。でも、ここに書かれているアリス・ブレンジャー王立魔術博物館長代理は、あなたと一緒にアッシュクロフト領に行って活躍して、あなたとカイ・アッシュクロフトは婚約した……」
ほら、条件が揃ったでしょ?
と言わんばかりに、肩をすくめてアリスは私を見つめた。
——もう、アリス、思い出してよ。
——自分が何を言っているのか、分かっている?
——アリス・ブレンジャーは、あなたでしょ?
カイの文字は、私を怯えさせる餌。
コンスタンツェの署名と印章は、偽物を包む殻。
その奥で命令を動かしているのが、教授の術式署名だ。
教授の目的を知らなかったとしても、カイの筆跡を偽造し、私たちを別れさせようとしたのはコンスタンツェ自身だ。
——二度目の婚約破棄が、教授の狙いですか?
——あなたの、私への仕返しですか?
「分かった」
——教授は、私を壊したいだけだ。
——いえ、違うわ。多分、私を壊したいだけじゃない。
——婚約破棄の承認は、館長の紋章が要ることになっている。そう手紙に書いてある。
——だからアリスは、紋章を持って、この部屋に来なければならなかった。
私は、思わず胸元に手をあてた。
——でも、紋章はアリスの手に無かった。
——私が紋章を持ってここに来る。呪いのかかったアリスがここに来る。
——私の失恋は、紋章をここへ運ぶための口実だわ。
——私の心を壊して、《《紋章も》》手にいれるつもりだ。
教授の仕掛けた罠にようやく気づいた。
「報復もあるわね」
イヴォンヌは私に断言した。
私たちは同志として手を取り合った。
——舐められたものだ。
——ジュリアンの時のように、恋に落ちた私が、婚約破棄でまた失意のあまりに引きこもると踏んだのかもしれない。
「悪趣味たぬきめ……乙女の心を潰すのが趣味のぶつかりおじさん的な……?」
イヴォンヌのいつもの分析が始まったが、私はもう慣れてきたので、意味不明な言葉として聞き流した。
フリッツとスピカだけが、フンフンとイヴォンヌに同調している。
——意味が分かるのですか?そこの霊獣は。
不意に、カイが立ち上がり、私を抱きしめた。私の頬にキスをした。
私は驚いて、真っ赤になった。
心臓が飛び出しそうに、ドキドキしている。
「俺の気持ちは絶対に変わらない。奴の思う通りにはさせない」
私は、胸の奥に熱い塊が込み上げてきて、思わず涙が溢れそうになり、慌てた。
今は、アリスの記憶が先だから。
そのことは後で。
霊獣二匹の瞳がキラキラと輝き、手に手を取り合い、イヴォンヌは両手を前で組み合わせて、夢見る乙女のような表情で私たちを見た。
恥ずかしい。
観客がいるのに、カイは構わず、もう一度私の頬にキスをした。
——でも。
——あの手紙にも、書いてあった。
——愛している、と。




