第008幕 ――狂気の粉砕と泥沼の熱――
寒月が、分厚いガラス窓の向こうで東京の夜空に凍てついている。 書斎の空気は、二秒おきに微弱なモーター音を立てる空調によって、二十度前後の乾燥した風として絶え間なく循環していた。 まるで、見えない巨大な肺胞が――いや、そんな比喩はどうでもいい。 首筋に触れるその風は、時折、三十七度前後のねっとりとした粘液のような生温かさを伴って皮膚に張り付いてくる。 鼻腔の奥にこびりついた、鉄錆と腐りかけた肉の甘ったるい匂い。 私は、舌の根を上顎に押し当てて唾液を飲み込み、手元にある分厚い書類の束へと視線を落とした。
上質紙の端を、親指と人差し指で執拗に揃え続ける。
トントン。
紙の束をマホガニーのデスクに打ち付ける。
トントン、トントン。
私はなぜ、この完璧に組み上げられた事業計画を自らの手で廃棄しようとしているのか。 企業としてのリスク管理。 あるいは、予測不能な異常事態から組織を未然に守るための、管理者としての理知的な防衛策。 ……そうだ。社会的に成功した人間が下すべき、最も正当で合理的な判断だ。 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
ズガガガ。
紙の束を滑り込ませた漆黒のシュレッダーの、鋭い鋼の刃が繊維を噛み砕く硬質な駆動音が、思考の糸を無遠慮に断ち切った。 リスク管理などではない。 本当は、あの足利の蔵で触れてしまった圧倒的な狂気の痕跡を物理的に消去し、自分は安全圏にいるのだという浅ましい自己欺瞞にすがりつきたいだけだ。 この紙の束を粉砕すれば、自らの奥底にこびりついた得体の知れない恐怖と、逃げ出したいという己の卑小さまでをも切り刻めるような気がしているのだ。
一枚、また一枚。
インクの染みが無機質な細片へと変換されていく過程。 私はシュレッダーのモーター音に意識の焦点を絞り込み、背後に迫る生温かい微熱から逃れようと、紙を押し込む速度を勝手に上げていく。 最後の分厚い企画書が、黒い隙間へと吸い込まれていった。
ズガ、ガ、ガ。
モーター音が重く淀んだ、その瞬間だった。
右の太ももの皮膚の下で、突如として血液が沸騰したかのような熱が弾けた。 声帯を震わせるよりも早く、私は右手をスーツのポケットの底へ叩き込んでいた。
布地が擦れる音。
指先が捉えたのは、日常の冷え切った金属の感触ではない。 白熱した鉄の塊。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペだ。
「……ッ!」
熱が指の腹の肉を焼き、神経の束を直接バーナーで炙るような痛覚が脳髄を突き抜けた。 私は火のついた石炭を掴んだかのように、その金属の塊を床へ向かって乱暴に振り払った。 硬いフローリングに当たる、澄んだ音は響かなかった。
ドチャリ。
水気を多分に含んだ泥に、重い異物が沈み込むような醜悪な音が、書斎の足元から湧き上がった。 膝から崩れ落ちた私の眼球に、信じがたい光景がこびりつく。 ルーペが落ちた場所を中心に、ペルシャ絨毯の毛足が、真朱のどす黒い錆色へと急速に変色し、ぶくぶくと泡を立てて泥のように溶け落ちていく。 空調の風が完全に止んだ。 代わりに、書斎の壁紙が、生き物の肺袋のように不規則に膨張と収縮を繰り返し始めた。 壁の微細な凹凸から、ゼリー状の重い大気が噴き出し、鉄錆と腐肉の匂いが室内の酸素を食い潰していく。 私は、火傷で皮膚が引き攣った右手の指先を、冷たいはずのフローリングへ執拗に擦り付けた。
シュ、シュ、シュ。
だが、床板の木目はすでに三十七度の生温かい粘液に覆われている。 指を擦るたびに、泥の感触が爪の間へと入り込み、痛覚と悪臭が気管支を塞いだ。 喉の奥から酸っぱい胃液が込み上げてくる。 書類の細片を吐き出し終えたシュレッダーの沈黙。 泥の海と化した床の上で、私は痛む右手を胸に抱え込みながら、どこまでも続く生温かい暗熱の底へ、這いつくばったまま後ずさりを続けていた。




