第007幕 ――盤石の崩壊と泥臭い逃避――
冬の夜風が、分厚い防音ガラスの向こう側で音もなく吹き荒れている。 東京の高層階。 和紙の柔らかな照明が落ちる個室には、琴の弦を弾くくぐもった音が一定の間隔で流れていた。 まるで、誰かが神経の束を――いや、そんな比喩はどうでもいい。 室温は二十四度。 空調の吹き出し口から絶え間なく降り注ぐ微風が、私の顔の表面から均等に熱を奪っていく。 一気圧・酸素濃度二十一パーセント。 外界のあらゆる不確定要素を遮断したこの空間には、足利の蔵で吸い込んだあの生温かい大気も、粘膜に張り付くような匂いも一切存在しないはずだった。
私は、氷水で冷やされた濡れおしぼりを顔に押し当てた。 繊維の間に含まれた冷気と、微かな塩素の匂いが、火照った皮膚の表面を急速に冷やしていく。 おしぼりを乱暴に卓上へ戻し、私は左手の親指の爪で、自身の右手中指の第一関節を執拗にこすり始めた。
ツッ、ツッ。
乾燥した皮膚の表面が薄く削れ、白い粉が浮く。
ツッ、ツッ。
摩擦による微小な熱。
私はなぜ、こんな高級料亭の個室で一人、スマートフォンの冷たいガラス画面をスクロールしているのか。 足利での異常な光景を完全に切り離し、東京という盤石な安全圏で己の優位な立ち位置を再確認するため。 ……そうだ、社会的に成功した人間が下すべき、最も合理的で正しい防衛策だ。 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
ベン、ベン。
琴の不規則な撥音が、おしぼりの塩素の匂いと混ざり合って脳の奥で反響し、思考の糸をあっさりと断ち切った。
盤石な防衛策など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、あの蔵の底で感じた圧倒的な狂気に、自分がすでに泥まで浸かっているという事実から目を背け、ただ逃避したいだけの臆病さに過ぎないのではないか。 薄っぺらい数字や文字列のやり取りで自分を正当化しなければ、あの生温かい大気の記憶に自我が押し潰されてしまいそうだからだ。 己の卑小さを、この冷たいガラス画面で無理やり覆い隠そうとしているだけなのだ。
ツッ、ツッ、ツッ。
左手の親指が関節をこする速度が勝手に上がる。 磨き上げられた黒檀のテーブルの上には、砕いた氷を敷き詰めた器が置かれている。 その中央で、真朱の赤みを帯びた魚肉が照明を反射している。 傍らには海松色の陶器の小鉢。 私は右手に漆黒の塗り箸を持ち、スマートフォンの滑らかな画面へ文字を打ち込もうとした、次の瞬間だった。
スマートフォンのバックライトが、不規則な周期で激しく明滅し始めた。
チカッ、チカッ、チカッ。
鋭利な光の束が、網膜の中心に直接突き刺さる。 眼球の裏側を細い針で引っ掻かれるような、チリチリとした熱と痛覚。
「……っ」
声帯を震わせようとした直後、気管支の入り口が、ゼリー状の重い大気によって物理的に塞がれた。
空調の微風が、不意に三十七度前後の生温かい粘液へと変質する。 鼻腔の粘膜に、酸化しきった鉄錆の粒子と、腐りかけた肉の甘ったるい死臭がドロドロに混ざり合ってべったりと張り付いた。 酸素が遮断される。 舌の根元がカラカラに乾き、唾液腺から分泌された泥のような粘液が喉の奥を塞いだ。
ツッ、ツッ、ツッ。
左手の親指が、右手の関節の皮膚をさらに強くこすり続ける。 薄い皮が破れ、微かに赤くにじむ。 その痛覚に意識を向けようとするが、眼下の光景が私の視神経を暴力的に蹂躙した。
氷の上に置かれていた真朱の肉が、海松色の陶器が、自ら熱を発して急速に黒ずんでいく。 ぶくぶくと、表面からどす黒い泡が膨らんでは弾ける。 それらは瞬く間に黒橡の重い泥へと崩れ落ち、そのドロドロの表面から、むせ返るような死臭の飛沫が間欠泉のように噴き出し始めた。
カラン、と。
私の右手から漆黒の箸が滑り落ち、黒檀のテーブルを硬く叩いた。 私は座椅子から転がり落ち、い草の匂いがする畳の上へと無様に這いつくばった。
ツッ、ツッ。
左手の親指が、血の滲んだ右手の関節をこすり続けている。 首筋にねっとりと絡みつく生温かい大気。 息を吸い込もうとするたび、腐肉の粒子が肺胞の内壁にこびりつき、横隔膜が不規則に痙攣して硬直する。
スーツの右ポケットの奥深くにある、冷たい金属の重み。 それが、私の太もも越しに、心臓の拍動と同じ周期で鈍い圧迫感を放ち続けている。 和紙の照明が照らし出す畳の編み目に顔を押し付けながら、私はただ、気道を塞ぐゼリー状の悪臭の中で、血の滲む指の関節をこする無意味な反復動作を続けていた。




