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第006幕 ――平穏への回帰と泥臭い支配欲――

 冬深し。特急列車のグリーン車内。 足元の床から伝わる一定周期のモーターの微振動が、私の脛から大腿部へと這い上がり、不規則な心拍(しんぱく)のリズムと不快な共鳴を起こしていた。 窓ガラスの向こうには、いっさいの光を拒絶する漆黒の夜闇が高速で流れ去っていく。 まるで巨大な肉食獣の食道へ滑り落ちていくような――いや、そんな比喩はどうでもいい。

 空調の吹き出し口から、人工的に乾燥させられた二十四度の微風が絶え間なく降り注ぐ。 風が頬を撫でるたび、皮膚の表面から急激に水分が奪われ、薄い皮が突っ張るような微小な摩擦が張り付く。 一気圧・酸素濃度二十一パーセントに固定されたこの密閉空間は、外界のあらゆる不確定要素を遮断しているはずだった。

 しかし、舌の根元にこびりついた鉄錆の味が消えない。

 唾液(だえき)を飲み込もうとしても、喉の粘膜(ねんまく)がひどく乾燥し、嚥下器官(えんげきかん)が不規則に引っかかる。 あの分厚い漆喰壁の中で吸い込んだ、腐りかけた肉の甘ったるい死臭(ししゅう)と生温かい大気の塊が、肺胞(はいほう)の裏側にまだどろりと沈殿しているのだ。

 私は膝の上に置いた羊羹色(ようかんいろ)の革鞄に視線を落とした。 右手の親指の爪が、持ち手の硬い革の縁を執拗に弾き続けている。

 ツッ、ツッ。

 硬い革と爪が擦れる、乾いた摩擦音。

 ツッ、ツッ、ツッ。

 鞄の真鍮の留め具を指で弾き開け、中から数十ページの束になった企画書を引きずり出す。 インクの鋭い化学臭が、鼻腔(びくう)の奥をツンと突いた。 両手に力を込め、その分厚い紙束を真っ二つに引き裂こうとする。

 紙の繊維がミリ単位で軋み、微かな抵抗を指の腹に伝える。

 なぜ私は、この忌まわしい企画書を引き裂こうとしているのか。 あの異常な空間で目撃した狂気から手を引き、安全な東京の高層ビルでの平穏な日常へ回帰するため。 ……そうだ、社会的に成功した人間が下すべき、最も賢明で合理的な判断だ。

 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

 ツッ、ツッ。

 空調の乾燥した冷風とインクの化学臭が鼻腔(びくう)の奥でゼリー状に混ざり合い、思考の糸を無遠慮に焼き切った。 引き裂けない。

 指の関節(かんせつ)硬直(こうちょく)したまま、それ以上の運動を紙束へ伝達することを完全に拒絶している。 平穏への回帰など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。

 私はただ、網膜(もうまく)の裏側にべったりと張り付いているあの重い泥のような顔料の塊を削り出し、真っ白な壁に固定して、無数の照明の下に晒したいだけなのだ。 彼が築き上げた絶対的な狂気の領域を、私の支配する桁の多い数字の羅列で徹底的に汚染し、私と同じ息苦しい一気圧の泥水の中へ引きずり下ろさなければ、私の奥底で暴走を始めた得体の知れない劣等感が、私自身を喰い破ってしまうからだ。 安全圏から彼の狂気を札束で縛り上げ、見下ろすことでしか、私は自らの崩れかけた自我を保てない。

 ツッ、ツッ、ツッ、ツッ。

 革の縁を弾く爪の速度が勝手に上がる。 摩擦熱で爪の裏側が微かに痛み(いたみ)始め、その局所的な痛覚(つうかく)が、気管支(きかんし)に詰まった鉄錆の幻臭を一時的に上書きする。 私は企画書の紙束を乱暴に革鞄にねじ込み、空いた右手をスーツのポケットの底へ深く沈み込ませた。

 布地が擦れる微かな音。

 指先が、極端に冷たい金属の縁を捉える。 銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペ。 レンズの表面を斜めに走る微小な亀裂の溝に、親指の腹を強く押し当てる。

 冷たい金属の質量が、火照った(てのひら)(にく)に深く食い込み、血流をせき止める鈍い圧迫感を生む。 私はそのまま、窓ガラスに薄く映る己の顔を凝視した。

 足元から這い上がるモーターの微振動。

 奥歯がギリギリと不快な音を立てて噛み合わさり、口内に再び鉄の味が滲み出す。 ポケットの中でルーペの冷たい縁を握り込む右手の握力が増していく中、ガラスに映る男の頬の筋肉が、歪な角度で硬く持ち上がったまま固定されていた。


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