第005幕 ――圧倒的暴力と被虐の解放――
凍て星の瞬きすらも粉砕されるような、音の消失。 まるで空間の裏地がめくれ上がり、巨大な臓腑に呑み込まれたかのような――いや、そんな比喩はどうでもいい。 私は、右目に押し当てた銀鼠の鑑定用ルーペ越しに、薄暗いキャンバスの奥底を覗き込んでいた。 防音ガラスに隔てられた東京の二十四度の静謐。 それが約束していた私の盤石な立ち位置が、視神経の束を万力で直接引きちぎられるような激痛と共に、木端微塵に吹き飛んだ。
メシャァッ、と頭蓋の奥で骨と骨が擦れ合う鈍い音が鳴る。
右目の裏側に、真っ赤に焼けた鉄串をねじ込まれたような熱。 網膜の中心から放射状に黒い亀裂が走り、視野の縁が炭化してポロポロと剥がれ落ちていく。 火照る掌から銀鼠の金属フレームが滑り落ちる。
硬い板目を叩くその音が、分厚い水底から響いてくるようにひどく遠い。
ドズン。
空間の質量が、唐突に変異した。 アスファルトの上に立っていたはずの足元が、重い泥に沈む。 大気が、見えない鉛の毛布となって肩から背骨、頭頂部へとのしかかってきた。
鼓膜が内側へ向かって強烈に凹み、耳の奥でチリッ、と毛細血管が弾ける音がする。
顎の関節がギリギリと軋む。 自らの体重と大気の重さを支えきれず、私は両手と両膝を黒橡の泥へ突き立てた。 口を大きく開く。 酸素を求める横隔膜が不規則に硬直したまま上下し、空気が気管支へとなだれ込む。 熱い。 吸い込んだ大気が、肺胞の内壁を直接バーナーで炙るように灼き焦がす。
異常なまでに濃度の高い酸素が血流に乗って四肢の末端まで達し、指先がビリビリと痺れて感覚を完全に奪っていく。
同時に、鼻腔の粘膜をねっとりとしたゼリー状の臭気が覆い尽くした。 真朱の血の匂い。 酸化した鉄屑のザラつきと、腐肉の重く甘ったるい死臭がドロドロに混ざり合い、舌の根にべったりと張り付く。 唾液腺が麻痺し、泥のような粘液が喉を塞ぐ。
私の手の下には、東京から持参した数十枚の企画書の束があった。 上質紙の表面が、黒橡の泥を吸って重く変色している。 私は、その泥にまみれた紙の端を、痺れる右手の親指と人差し指で無意味に丸め始めた。
クシャ、クシャ。
紙の繊維が泥と混ざり合い、指の腹をザラザラと擦る。
クシャ、クシャ、クシャ。
なぜ私は、鼓膜が破れそうな重圧の中で、この泥に塗れた紙を丸め続けているのか。 真の芸術が誕生する瞬間を、最後まで見届けるため。 文化の保護者として、あるいは真理の目撃者として、決して目を逸らさないという崇高な使命。 ……そうだ、社会的な大義名分としては完璧だ。 この狂気を前にしてなお理性を保とうとする、高潔な人間の態度。
その美しい論理を頭の片隅で捏ね上げようとした瞬間。
ズシュ、ドチャリ。
泥に塗れた布地を擦る粘り気のある音が、思考の糸をあっさりと断ち切った。 同時に、私の指先は紙片を丸める動作をさらに加速させていた。
クシャ、クシャ、クシャ、クシャ。
紙の繊維と泥が爪の間に入り込み、鈍い痛みが走る。
真理の目撃者など、とうに破綻した言葉遊びに過ぎない。 ただ、私がこれまで築き上げてきた薄っぺらい数字や大理石の床といった盤石な防壁が、この圧倒的な暴力によって無惨に叩き潰されることに、得体の知れない被虐的な解放感を抱いているだけだ。
自らの傲慢さが徹底的に泥に塗れ、すべてを剥奪されるこの圧倒的敗北を、私は心の底のどこかで渇望していたのではないか。 絶対的な狂気にひれ伏し、己の卑小さを突きつけられることで、自らを縛り付けていたあの空調の効いた冷たい重圧から逃避したいだけなのだ。
キャンバスの前に座る老人の背中。 彼は、背後の空間が完全に変質したことなど一切感知していないかのように、炭化した豚毛の筆を執拗に動かしている。 濡れた布地を擦る粘り気のある音だけが、耳鳴りの奥から一定の周期で鼓膜を叩き続ける。
ズシュ、ズシュ。ドチャリ。
私は、見えない重圧でひび割れそうな肋骨を抱え込み、泥にまみれた紙片をひたすらに丸め続けた。 吐瀉物が喉の奥までせり上がり、泥と鉄の味が口内を満たす中、私はただ目の前に広がる真っ黒な泥の染みへと、自らの顔をじりじりと近づけていった。




