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第004幕 ――死臭の泥流と卑小な恐怖――

 寒夜の底。 分厚い漆喰壁に外界の時間を完全に遮断された足利の蔵は、黒橡(くろつるばみ)の深い闇に沈みきっていた。 外の凍てつく空気が嘘のように、この空間には三十七度前後の生温かい微熱がねっとりと蟠っている。 まるで巨大な腐肉の臓腑の――いや、そんな比喩はどうでもいい。

 私の気管支(きかんし)を直接撫で回すのは、酸化しきった鉄錆の鋭い粒子と、腐りかけた(にく)の甘ったるい死臭だ。 気道の収縮(しゅうしゅく)を抑え込むため、浅く不規則な呼吸を繰り返す。 舌の根元がカラカラに乾き、唾液(だえき)を飲み込もうとしても喉仏(のどぼとけ)が硬く引っかかる。 ワイシャツの襟元に滲むじっとりとした湿り気が、皮膚の表面を不快に滑っていく。

 キャンバスの前に背を丸める師匠は、背後の気配など一切意に介していない。 柄が黒く炭化した豚毛の絵筆が、無心で動き続けている。 パレットの上でどす黒く変質した泥が、カンバスへと執拗に擦り付けられる。

 ドチャリ、ドチャリ。

 重い粘液が布地に叩きつけられる鈍い音が、漆喰の壁に反響し、私の鼓膜(こまく)にべったりとまとわりつく。

 なぜ私は、今すぐここから逃げ出さず、この暗がりの中へと足を踏み入れているのか。 忘却された天才の救済。 歴史的傑作の保護。 ……そうだ、社会的な大義名分としては完璧に構築できる。 このまま闇に葬るには、あまりにも惜しい才能だからだ。 その美しい論理を頭の中で完成させようとした瞬間。

 ドチャリ。

 ひどく湿った泥の音が、思考の糸をあっさりと断ち切った。

 同時に、私の左手は無意味な動作を始めていた。 握りしめた革鞄の持ち手。 その硬いステッチの縫い目に親指の爪を引っかけ、執拗に弾き続ける。

 チッ、チッ、チッ。

 硬い糸が爪の間を擦り、微小な摩擦熱と痛み(いたみ)が走る。

 チッ、チッ。

 爪先から伝わる局所的な痛覚(つうかく)。 その小さな痛み(いたみ)に意識の焦点を絞り込むことで、鼻腔を塞ぐ死臭の泥流から逃れようとする。 あの絵の具の匂いに背を向け、今すぐ東京の安全圏へ帰るべきだ。 その恐怖からの逃避衝動が浮かぶたび、ステッチを弾く爪の速度が勝手に上がる。

 チッ、チッ、チッ、チッ。

 東京の高層ビル。 数字の明滅。 分厚いガラスの冷気。 美しい大義名分などとうに霧散し、ただ悪臭から逃れたいという卑小な恐怖が、爪の反復動作によって脳髄(のうずい)をチカチカと刺激し続ける。

 私は左手の反復動作を続けながら、音を殺して師匠の背後へとにじり寄った。 薄暗がりの中、キャンバスの表面が微かな油の光沢を伴って浮かび上がってくる。 塗り重ねられた泥のような顔料の重なり。 そこから放たれる、鼓膜(こまく)を圧迫するような得体の知れない熱量。

 この分厚い顔料の層を、この手で剥ぎ取り、無数の白群(びゃくぐん)の照明の下に引きずり出す。 白い壁の空間に固定し、桁の多い数字の羅列へと変換する。

 才能の保護などではない。 ただ、この男が泥と悪臭の中で築き上げている圧倒的な熱量を、私の支配する無機質な数字の冷気で縛り上げ、同じ泥水の中へ引きずり下ろさなければ、私の内部にある得体の知れない劣等感が暴走してしまいそうだからだ。 彼の狂気を札束で叩き潰し、安全圏から見下ろすことでしか、私は自らの自我を保てない。

 左手の親指がステッチの糸を強く弾き、薄く皮膚が削れた。 チリッとした痛み(いたみ)が走り、口の端が歪な角度へ持ち上がる。 奥歯がギリギリと鳴り、微かな血の味が口内に滲んだ。

 私は、左手の動きを止めないまま、空いた右手をスーツのポケットの底へと深く沈み込ませた。 布地が擦れる微かな音。 指先が、冷たくて滑らかな金属の縁を捉える。 銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペ。

 冷え切った金属の重みを、火照った(てのひら)(にく)に深く食い込ませる。 そのままゆっくりと引きずり出し、右目に固く押し当てた。 冷たいガラスと金属の縁が、眼窩の骨を微かに圧迫し、熱を奪っていく。 レンズの表面を斜めに走る、微細な亀裂。

 鉄錆と腐肉の悪臭がゼリー状の塊となって気管支(きかんし)を塞ぎ、喉の奥から酸っぱいものがせり上がってくる中、私はその冷たいガラス越しに、キャンバスの深淵へと眼球を凝視させた。


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