第003幕 ――腐臭の底と泥臭いエゴ――
冬の斜陽が、足利の乾いたアスファルトに長く鋭い影を落としていた。 まるで何かを――いや、どうでもいい。 重厚な漆喰壁の前に立ち、私は黒い木扉を両手で押し開いた。
蝶番が重く軋む音と共に、外界の乾いた冷気は背後で完全に遮断された。 一歩足を踏み入れた途端、三十七度前後のねっとりとした生温かい大気が、衣服の隙間から皮膚の表面へべったりと張り付いてくる。 私は左手に持った革鞄から、数十枚の束になった企画書を引き抜いた。
上質紙の重み。 印字された黒いインクの微かな化学臭。 私は右手の親指の腹で、その企画書の鋭利な角を弾いた。
チッ、と紙の繊維が弾ける乾いた音が鳴る。
奥の薄暗がり。 埃の匂いが立ち込める中、キャンバスの前に背を丸めた老人が座っている。 彼は炭化した豚毛の絵筆を握りしめ、パレットの上で顔料を弄っていた。
私はなぜ、この陰惨で生温かい空間に再び足を踏み入れているのか。 歴史に埋もれた真の芸術家を救済し、東京の光の下で正当な評価を与えるため。 文化の保護者としての、私の崇高な使命。
……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
「先生、東京での条件を――」
喉仏を上下させ、美しく構築したはずの論理を声帯から震わせようとした瞬間。
ゼリー状の重い大気が、気管支の入り口に分厚い蓋をした。 肺胞の裏側を直接撫で回されるような、濃密な悪臭。 酸化しきった鉄錆の粒子と、腐りかけた肉の甘ったるい死臭がドロドロに混ざり合い、鼻腔から喉の粘膜にかけて強固な膜を形成する。
酸素が完全に遮断される。 横隔膜が不規則に痙攣し、空気を求める肺が肋骨の内側を激しく叩き始めた。 美しい建前を支えるための酸素すら、この蔵の底には存在しない。
悪臭の震源は、老人の手元にあった。 彼がパレットに絞り出した真朱と瑠璃色の顔料が、豚毛の筆で混ぜ合わされた途端、泥のようにぶくぶくとどす黒い泡を立て始めたのだ。 顔料は急速に黒橡の重い泥へと崩れ落ち、そのドロドロの表面から、むせ返るような死臭の飛沫が間欠泉のように噴き出している。
チッ、チッ、チッ。
私は右手の親指で、企画書の角を執拗に弾き続けた。 紙の鋭い断面が親指の腹の皮膚を削り、薄い皮がめくれ上がる。 微かな熱と痛覚。
紙を弾く速度が上がる。
チッ、チッ、チッ、チッ。
爪の間に紙の繊維が食い込み、鈍い痛みが走る。
芸術の救済など、とっくに破綻した言葉遊びに過ぎない。 ただ、あの男が築き上げた狂気と孤高の不可侵領域を、この薄っぺらい企画書の束と俗悪な数字の羅列で徹底的に汚染し、私と同じ泥水の中へ引きずり込んでやりたいだけだ。 高尚に絵の具を練るこの男を資本の鎖で縛り上げれば、私の奥底で澱み続けているこの得体の知れない劣等感も、少しは満たされるのだろうか。
老人は、私の存在など初めから認知していないかのように、炭化した筆でその腐臭を放つ黒い泥をすくい上げ、キャンバスへと擦り付け続けていた。
ドチャリ、ドチャリ。
重い粘液が布地に叩きつけられる音が、分厚い漆喰壁に反響し、私が頭の中で捏ね上げた浅ましいエゴの構築すらも、直接鼓膜にまとわりつくその物理的な泥の音によって無遠慮に断ち切られた。
私は空いている右手をスーツのポケットへ深く突っ込んだ。 指先が、冷たい金属の縁を捉える。 銀縁の鑑定用ルーペ。
親指の爪を、レンズを走る微細な亀裂の溝に引っ掛け、強く擦る。
カリッ、カリッ。
ポケットの奥で鳴る金属と爪の摩擦音。
首筋にねっとりと絡みつく生温かい大気。 腐肉の匂いが、目に見えない粒子となって私のスーツの繊維の奥深くにまで侵入してくる。
チッ、チッ。
左手の親指が企画書の角を弾き、カリッ、カリッと右手の爪がルーペの亀裂を引っ掻く。 二つの不規則な反復動作が、生温かい暗がりの中で無意味なリズムを刻み続ける。 肺の奥に溜まった古い空気を吐き出すこともできず、私の手の中で、数十ページの紙の束がパラパラと頼りない音を立てて小刻みに揺れ続けていた。




